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私は、この時季になると、尾崎放哉の句が思い出します。
咳をしてもひとり
社会的な地位を捨て、妻とも別れて、各地を転々とした放哉、ついに小豆島の南郷庵で漁師夫妻の手に抱かれたまま息を引き取った放哉、その彼の寂しさが胸に迫ってきます。
協和?酵工業株式会社(現 協和キリン)の会長をしておられた加藤弁三郎さんは、
私たちは、だれでも呼吸をしております。呼吸することそれ自体は、宗教人でも無宗教人でも同じであります。同じことでありながら、一方は、自分が呼吸していると思い、他は、自分以外の目に見えない力によって呼吸させられている、と感じるのです。自分が呼吸していると思っていた人が、ある時、ふと、いやそうでない、呼吸させられているのだ、と気づいたといたします。それがすなわち、回心といわれるものではないでしょうか。
と言っておられます。
加藤さんのことばからすれば、はたして「咳をしてもひとり」でしょうか。咳も、自分で「出す」のではなく、大いなる力に催されて「出る」のではないでしょうか。咳をするというできごとの中に、無量無数の大きな力が働いているのではないでしょうか。
そんな気づきがあれば、「一人いてにぎやか、大勢いて静か」という世界が開けてくるのもわかるような気がします。