HEIAN BLOG 高1学年 BLOG

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本日の仏参 2021年02月03日(水)17時00分

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本日の仏参は11組担任の角先生でした。

 一年生という時間も残すところあとわずか。次年度の文理選択など、自分自身が「何を学びたいか。」「何をしたいのか。」考える機会が多くありました。これまでは、誰か人に言われる人生を送ってきた人も多くいるでしょう。角先生はそんなみんなに、「自分の中に軸を持って、本当になりたい将来のためにチャレンジしてほしい。」とお話されました。
 新しいことへチャレンジすることには、失敗や挫折、迷いがつきものです。上手くいかない時もあります。そんな時は「人と人との出会いを大切に」して、上手くいっている人や、尊敬出来る人に会いに行ってみるのも良いでしょう。なにより、高校生のみんなには、保護者の皆さん、学校の先生、先輩や友人など、周りに支えてくれる人がたくさんいます。
 角先生は失敗に対して、「失敗は経験や体験が増えるだけ。」と、失敗を前向きに捉えておられるそうです。周りにサポートされる学生のうちにこそ、失敗を恐れず様々なことにチャレンジしましょう。

 最後に角先生がお話された言葉を書かせていただきます。
「人には心に水の入ったコップがある。水がなくなると、誰かから奪おうとしたり、怒りや憎しみが湧き、コップが水で満たされたときに相手にベクトルが向く。水が満たされて、相手にベクトルが向くとき初めて本当になりたいものが見つかるでしょう。」

ライフプラン探究総括 2021年02月02日(火)18時14分

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本日6限のLHRでは、講堂にてライフプラン探究の総括が行われました。
仲間のグループの発表や、優秀なポスターの表彰、大学職員である川畑さんの質問返答、そして河野先生による振り返り…。
量と質、共に盛りだくさんの1時間でした。

一年を通して何度か行われてきたライフプラン探究活動。
自分への理解を深めることはできたでしょうか。
二年生ではさらに将来のことを具体的に考えなくてはいけません。
川畑さんは何度も、将来のためには今の勉強が大切だとおっしゃっていました。
一年ももうすぐ終わりに近づいていますが、入学したときと同じ気持ちで授業を受けることはできていますか?
もし心当たりがあるのなら、今からでも気持ち新たに授業を受けましょう。
まずは後期考査に心を向けるところから!

袖振り合うも多生の縁 2021年01月30日(土)16時05分

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 「袖振り合うも多生の縁」という仏教由来のことわざがあります。多生の縁「多生」とは、果てしない過去世から何生にもわたって、ということです。「縁」とは、つながりということです。電車の中で、バスの中で、見知らぬ乗客と、袖がふれあったり肩がふれあったりすることがあります。そんなふうに袖や肩がふれあうだけでも、果てしない過去世、生まれ変わりをくり返してきたいろいろな生の中で、何度もつながりのあった人なのだとということが、「袖振り合うも多生の縁」ということでしょうか。
 地球上には何十億の人々がいますが、そのほとんどの人とすれ違うことさえもありません。まったく縁のないまま、この世から去ってしまう人ばかりです。そう考えると、同じ電車に、バスに乗り、肩と肩がふれあう人は、どんなにか自分とつながりの深い人なのでしょうか。過去世からのつながりがあったからこそ、肩と肩がふれあったのだということになります。
 袖や肩がふれあうだけでも、過去世からの縁があってのことなのですから、友だちになる人、家族となる人、同じ学校で学ぶ人は、よほど深い因縁があってのことなのでしょう。自分と合わないなと思う人がいても、一緒に何かをするということは、ものすごく深い縁があってのことです。だから、相性のよし悪しなどで片づける前に、せっかく深い縁があって出会った人ですから、少し、仲良くなる努力をしてみるといいかもしれません。優しいまなざしや、笑顔で接することに心がけてみる。感謝やいたわりの言葉をかけてみる。お互いの約束は、きちんと守るなど、ちょっとしたことですが、続けてみませんか。

本日の仏参 2021年01月20日(水)17時00分

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本日の仏参は、広島から来られた本願寺布教使の三ヶ本義唯さんのお話です。三ヶ本さんが以前に西日本豪雨災害のボランティアに行かれ、感じられたことをお話しくださいました。

三ヶ本さんは、豪雨災害で家の中に入り込んだ土を外に出す作業を指示されました。ボランティアリーダーからは「土の下は床なので、傷つけないようにほうきを使って掃き出してください。」と言われた一方で、別の人からは「ほうきでは時間がかかるので、シャベルを使ってください。」言われたそうです。
ほうきで土を掃き出すのは大変でなかなか作業は進みません。
シャベルでは床は傷ついてしまいます。

「みなさんはリーダーとシャベルの人とどちらが正しいと思いますか。」
三ヶ本さんはそう問いかけ、次のように締めくくられました。
床を傷つけないように考えたリーダーも、作業を早く進めようと考えたシャベルの人も、どちらも間違っていません。ただ、それぞれが大切にしたいもの=「価値観」が違っただけです。阿弥陀仏は、私たちが考える価値観は絶対のものではないと教えてくれています。時に自分の価値観を手放して、相手の意見を受け入れてみてはどうでしょうか。

私たちは一人ひとり多様な価値観を持っています。友だちとケンカをすることもありますが、自分の価値観ばかりでものを見て、相手を否定し対立するのではなく、お互いを認め合うことが大切だと気づかされるお話でした。

SUT④時間割発表 2021年01月13日(水)15時34分

 今、世の中でどんどんインターネット上のコミュニケーションの比重が重くなっています。空いた時間ができると、ついSNSを見てしまう人も多いでしょう。けれども、そうしたネット社会には、不特定多数の“他人の感情”が氾濫しています。その中には、悪意のあるものや、ネガティブな感情も、どうしても含まれています。するとやはり、自分もそれに影響を受けてしまうのです。また最近は、スマートフォンを触っている時間が長くなり、ますます1日の間に触れる情報量が多くなってきました。一説には、中世に生きた人が一生かけて得ていた情報量を、現代人はわずか1日で得ているともいわれます。いわば私たちは、普通に暮らしているだけで、常に“情報の洪水”の中に身を置いているようなものです。そのような情報社会の中に身を置いていては、知らず知らずのうちに心も疲れていきますから、たまにはそうした雑音を一切、消してみることも重要ではないでしょうか。
 テレビ番組の中でたまたま見かけた山の中は、ネットもまったくつながらないようなところ。滞在中は、スマートフォンを使うことはまったくできません。完全に「情報遮断」となります。もちろん初めは、Wi-Fiもない環境への不安や焦りのようなものがあったようですが、時間が経つにつれ、かえってフェイストゥーフェイスのリアルなコミュニケーションが活発化し、人間関係を深めるいい機会になったようです。もちろん現代の人が、まったく情報を遮断するのはムリでしょうが、それでも「土日のどちらか1日は、スマホの電源を切る」といったことは、一度やってみるのはいかがでしょうか。たとえば、土日のどちらかの何時から何時までと決めて、デトックスしてみてはいかがでしょうか。スマホ依存になっている人は、最初のうちは不安に感じるでしょう。でも、わずかな間、SNSの情報に触れなくても、困ることはないと思います。考えてみてください。以前は、SNSがなくてもまったく大丈夫でしたね。固定電話でもまったく大丈夫でしたね。そのデトックス期間中に、自分の心をリフレッシュさせ、一度リセットさせるのです。やってみれば、意外に気持ちがいいことに気づくでしょう。すべては慣れですから。
 さて、SUT④実施一週間前、時間割の発表となりました。また、行事の関係で明日から5日間の自宅学習日がスタートします。
  14日(木)自宅学習日
  15日(金)報恩講動画配信(13:00~16:00) ※担任「出席」確認(16:00~)
  16日(土)中学入試
  17日(日)中学入試
  18日(月)自宅学習日
  19日(火)・20日(水)平常授業
 21日(木)・22日(金)SUT④
テストには、自分の理解の不十分なところを知ったり、学習方法のまずいところを反省したり、学習の意欲を高めるという目的があります。一夜づけの付け焼き刃では、身についた学力にはなりません。試験が終わったらすべて忘れてしまうようなものではダメです。せっかく与えられた5日間の自宅学習日です。今までのテストの反省を十分生かして、ヌケ・モレがないテスト対策期間として過ごしてください。

本日の仏参 2021年01月13日(水)15時00分

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 本日の仏参は10組担任の山下先生のお話でした。

 山下先生は、今までに約20ヵ国に旅行され、様々なものをご自身の目で直接見て来られました。当時はインターネットが今ほど普及しておらず、海外の情報も少ない中で、言葉が通じない世界に強い関心を持たれたそうです。今回の仏参では、海外旅行を通して経験されたこと、そこで感じたことをお話しされました。

 言葉の通じない異国の地で、メニューがないレストランや移動手段としてのバスの乗車、観光地でのマナーなど様々な場面で困ったことがありましたが、現地の人が優しく教えてくれたそうです。見ず知らずの日本人に優しく接してくれたことから、普段忘れかけている優しさに改めて気づかれたそうです。そこで山下先生は「ありがとう」という感謝の言葉を現地の言語で伝えるように心がけたそうです。

 最後に山下先生自身の考えとして、「いただきます」「ごちそうさまでした」という食前・食後の言葉が示すように、日本の文化は感謝を伝える文化ではないかとお話しされました。日々の生活の中で感謝の言葉を伝えることを大切にと締め括られました。

 私たちの日常を振り返ると、多くの人の支えや応援・励ましがあって成り立っています。改めて今ここに生かされているということを自覚し、その感謝の気持ちを言葉で伝えることを大切にしていきたいですね。

まずは挨拶から 2021年01月09日(土)14時58分

 みなさん、新年おめでとうございます。
 さて、みなさんの中には、朝明るく元気な声で挨拶をしてくれる人も大勢いますが、ぶつかりそうになっても挨拶しない人、こっちから挨拶しても返事さえしない人もいます。また校外で、町の通りや店の中などで会ったとき、なかなか挨拶しにくい人が多いですね。みんな、「したいようにしたい」自分だけがあって、他人が見えない症候群なのかと思ってしまいます。よく「自分を出したい」と耳にします。結構なことです。ただし、他人を意識して、つまり自分と同じように尊ばれるべき他人がいることを配慮して自分を出せばいいのです。だから「自分がしてもらいたいと思うことは、人にもそのようにせよ。」ひっくり返せば、『論語』にあるように、
  己れの欲せざるところを、人に施すことなかれ
ということになります。これが人として生きる基本、古今東西変わらぬ真理ではないでしょうか。自己と他己とが共存・共生するには、お互い同じように資格や権利を持っているという認識が絶対条件です。人間とは人の間と書くではありませんか。人と人との間、他者との関係を認識できてはじめて「人間」だと思います。他人への配慮ができない人は、「人間」として一人前ではないでしょう。
 家族や近所の人、先生や友だちに、さり気なく、何も構えずさらっと挨拶してみよう。言って何を損しますか? 挨拶した後、不快になる人はいません。挨拶できない自分を抱えて、何かつまずいているあなた。言わないで済ませようとしているから、顔を合わせない。目線をそらす。知らんぷりをする。そのくせ「自分を出したい」というあなた。ならば、まず挨拶からはじめてみませんか。さり気なく挨拶してみませんか。自分が変わるかもしれませんよ。
 『論語』にまた言う。
  子曰く、「徳は孤ならず、必ず隣あり。」
徳を備えた人とは、人間として品位のある人。つまり、他者への配慮のできる人です。そういう人は、信義ある誠実な人。必ず仲間ができるというほどの意味です。挨拶は他人理解の窓口、人とのつながりの出発点です。
徳は孤ならず、必ず隣あり
 挨拶からはじめよう。今年はそういう年にしたいものです。

年惜しむ 2020年12月25日(金)08時53分

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 今年もいよいよ押し迫ってきました。この頃の気持ちを「年惜しむ」と言うのですが、ちょっと昔を惜しむような話を……。昔は町外れや田舎に行くと「万屋(よろずや)」というものがありました。「よろず」とは一万・二万の「万」という字を書きます。要するに食料品や生活用品のあれこれ、何でも売っているお店のことで、雑貨屋さんのことです。
 ところが今日、その万屋がなくなって、コンビニ(convenience store)になってしまった。convenience は「便利・簡単」という意味だから、「便利屋」とでも訳せばいいのでしょうか。ただしこのことばは昔からありまして、どこかの歴としたお宅に臨時に雇われて雑用を代行する商売をいったのですから、ややこしくなりますけど……。それはともかく新しいコンビニが次々にオープンして、もう信号ごとにあると言ってもいいくらいです。
 あと一週間で2020年よさようならですが、とりあえず楽しければいい、今がよければいいというのでは明日の保障はありません。明日を見ながらしっかりと足元を踏みしめて今日を歩いていかねばなりません。 
 ではみなさん、よいお正月をお迎えください。

本日の仏参 2020年12月23日(水)08時45分

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本日は8組担任の加来先生のお話でした。

 加来先生は学生時代のボランティア活動から学んだ「お金」の有意義な使い方について話されました。
 先生はアルバイトでコツコツ貯めた10万円を使って、フィリピンの子ども達に音楽を届けるボランティアオーケストラに参加されました。音楽を楽しむ余裕のない生活を送っている子ども達に希望を与えることができたそうです。そして現地の小学校教員から「せっかくの善意の行動が自己満足で終わってはいけないこと」も教えていただいたそうです。この経験があったので、教員になろうと強く思われたようです。最後に、「10万円で子ども達に夢を与え、自分の夢も実現することができた。」とまとめられました。
 学校長が生徒手帳に書かれた「利他」ですが、まさに加来先生の行動は、「利他自利」の行いではないでしょうか。
25日より冬休みに入ります。コロナウイルス感染拡大が止まらない状況です。不要不急の外出を避け、規則正しい健康的な生活を送ってくれることを望みます。
(お年玉の使い方もよく考えてください。)

咳をしてもひとり 2020年12月19日(土)14時12分

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 私は、この時季になると、尾崎放哉の句が思い出します。
  咳をしてもひとり
社会的な地位を捨て、妻とも別れて、各地を転々とした放哉、ついに小豆島の南郷庵で漁師夫妻の手に抱かれたまま息を引き取った放哉、その彼の寂しさが胸に迫ってきます。
 協和?酵工業株式会社(現 協和キリン)の会長をしておられた加藤弁三郎さんは、
   私たちは、だれでも呼吸をしております。呼吸することそれ自体は、宗教人でも無宗教人でも同じであります。同じことでありながら、一方は、自分が呼吸していると思い、他は、自分以外の目に見えない力によって呼吸させられている、と感じるのです。自分が呼吸していると思っていた人が、ある時、ふと、いやそうでない、呼吸させられているのだ、と気づいたといたします。それがすなわち、回心といわれるものではないでしょうか。
と言っておられます。
 加藤さんのことばからすれば、はたして「咳をしてもひとり」でしょうか。咳も、自分で「出す」のではなく、大いなる力に催されて「出る」のではないでしょうか。咳をするというできごとの中に、無量無数の大きな力が働いているのではないでしょうか。
 そんな気づきがあれば、「一人いてにぎやか、大勢いて静か」という世界が開けてくるのもわかるような気がします。