今日は報恩講。報恩講とは、親鸞聖人の教えによって、阿弥陀如来の教えに遭わせていただいたご恩に対し、感謝の気持ちをもって、聖人のお亡くなりになった日を機縁に聖人のご威徳をしのぶ行事である。
今日は西本願寺より布教使の伊東順浩先生に来校頂き、お話を伺った。伊東先生は以前、本校宗教科の教員であり、私たちともご縁の深い先生である。
「比べないことの大切さ。ありのまままの自分を大切にしていこう」
「81個のミカンを3人に分けると、1人あたり何個のミカンがもらえるでしょう?」という問いがあります。みなさんはどう答えるでしょう。ある子が「ミキサーでジュースにするので1杯」と答えたようです。その解答をみた先生はカンカンになって怒り、保護者を呼びつけたようです。家に帰り、なぜそのような答えを書いたのか子どもに問うと、「ミカンの大きさは違う。それに甘い、酸っぱいもある。なら平等に分けるのであれば、ジュースにして1杯というのが良い。それだけなんだ」。
つい教科の勉強で27個という答えを私たちは子どもに求めますが、この子どものように、みんなが等しく味わうようにするための分配する方法は間違ってはいません。このような視点を私たちは忘れているのかもしれません。
さて浄土真宗は仏さまの名前を呼ぶ宗教でもあります。「南無阿弥陀仏」ですね。阿弥陀さまを呼んでいるわけです。では人はどのようなときに「名前」を呼ぶのでしょう。大切なことを伝えるときには、必ず名前を呼びますね。「きみ」や「おまえ」ではないはずです。私たちは阿弥陀さまに大切なことをお伝えしようとしているのです。阿弥陀さまは「ハイハイ」とお答えし、耳を傾けてくれます。それは「みんな平等に」なのです。どのような人であっても耳を傾け、常に私たちのことを気にしてくださっているのです。
あるとき、子どもが骨折をしました。大慌てで病院へ駆けつけ、家族から様子を聴くと崖から転落をしたようです。首の骨が折れていれば、下半身不随ということだってあります。麻酔から目覚めて子どもに、「大丈夫か」と問うと、「腕を骨折しただけだよ…」と答えてくれました。ホッとして「骨折したのはどっち?」と続けて問うと、「左手」と答えてくれました。「左手で良かった。利き手だったら苦労しただろうしなあ…」と言いました。しばらく経ってから、「左手で良かったってみんなから言われる。でもね、左手でも右手でも僕の腕なの。どっちであっても嫌なんだ。良かったことってないんだけど…」とぼやいていました。また私はドッキリしました。そうですよね。自分の身体なんですから「右手より左手」だとか、「この状況は○○さんに比べずっとまし」なんて言ってられませんよね。つい私たちは自分と他人を比べてしまいます。仏さまはそうではありません。ありのままの自分を見つめてくださっているのです。「痛いよね」なんです。
自分を他人と比べるのではなく、ありのままの自分を輝かせて生きていってください。
みなさんは何を感じたのだろう。私たちはつい「比較」してしまう。体力でも、成績でも…。比較し、慌てて勝手に判断をして、サボったり、実力もないのに戦略も立てず「単に勉強」をする。何か忘れてはいないだろうか。
「ありのままの自分」という言葉は、仏参で多くの先生方がお話の中で言ってこられた言葉だ。では本当に「ありのままの自分」を理解しているのであろうか? じっくり考えて欲しい。