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成道会 2019年12月06日(金)16時33分

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 今日は成道会(じょうどうえ)。お釈迦様がお悟りになった日である。ゴーダマ・シッダッタが「仏陀」となられた日である。この日を祝い、改めてお釈迦様の教えについて触れていこうとする大切な行事日である。
 今日は西本願寺より布教使の龍田智先生に来校頂き、お話を伺った。

 「真実をありのまま見ましょう」

 私は今治から京都へ出てきました。そして大学の時に浄土真宗本願寺派の僧侶となりました。わずかな時間ですが、お話を聴いてください。今回みなさんと平安中学、平安高校でお出逢いできたのも、仏教がなければお目にかかっていません。こうしてお目にかかれたのも、お釈迦様がお悟りになって、仏教を広めてくださったからです。今日の成道会のおかげですね。ではどのようお悟りだったのでしょう。これは「真実をありのままに見ましょう」ということです。

 事例を話してみましょう。

 1つめはご近所のAさんのお話です。Aさんはお元気な方です。お寺のお参りだけでなく、行事も沢山参加されています。その行事で旅行へ行くことになりました。90代のBさんは足も悪く、いつも一番最後をノロノロと歩かれます。AさんはそのBさんにイライラしていました。だってみんなの行動の足かせになるように思ったからです。ある日Aさんは怪我をして松葉杖をついて歩かないといけなくなりました。やはり行事で旅行に行くことになったのです。みなさんは先に先に歩かれていきます。ところがBさんは、Aさんを気にして、先に歩いてもずっと待ってくださったようです。Aさんは「なんて恥ずかしいことを考えていたのだろう」と思ったということです。

 2つめはひび割れた壺の話です。水を汲みに行くときに、ひび割れた壺を使っていました。もちろん元の場所に戻ったときは、壺の中には半分も水が入っていません。壺は恐縮をしたそうです。自分が完璧ならば…。もっと多くの水を運ぶことができたのに…。水を汲みに行く道中に綺麗な花が咲いていたようです。実はこの壺からこぼれ落ちた水により、この花が開花していることが分かったのです。ひび割れた壺は恥じることはありませんよね。

 最後の話は私自身の話です。高校時代野球部に入って甲子園を目指していました。同級生の中で、選手ではなく「マネージャー」や「塁のコーチャー」がいました。同級生がなってくれていたのです。当時私は試合にも出られるくらいの実力がありました。そのことで天狗になり、彼らを下に見ていました。チームのことを思って、ゲームに参加していることが理解できなかったのです。今、出逢えば「あのときは悪かった」と謝るのですが、彼らは私を責めようとはしません。本当に恥ずかしい話です。

 私たちは、自分の価値観で人を捌いていきます。果たしてそれが正しいことなのでしょうか。この3つのお話からも理解できるでしょう。仏様は自分の価値観で人は捌きません。人には与えられた仕事があることを知っておられるからです。だから私たちは「真実をありのままみつめる」ことをしなければならないのです。

 みなさんは何を感じたのだろう。「ありのままをみつめる」ことは本当に難しい。「成道会」を通し、じっくり利己主義者であろう「自分」について考えて欲しい。

12月4日 仏参 2019年12月06日(金)14時35分

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今日は学年部長の森本先生からお話をうかがった。

 「限界は自分が決める。やってみようと思えば、出来ることもあるだろう」

 2000年頃の卒業生のお話です。
 私はハンドボール部の顧問をしています。ハンドボールはオフェンス、ディフェンスともに激しい競技です。これからお話をする生徒は、男子校時代の人で片腕がない人でした。当時は完全下校もなく、クラブもそれは厳しく指導をしており、途中で根をあげる人が多くいました。新入生の彼は、その当時の厳しいクラブに「ハンドボール、片腕がなくても出来ますか?」と言って訪ねてきてくれたのです。私は「大丈夫。気の持ちよう。出来るよ」と伝えると、彼は決心をして入部をしてきました。念のため連盟にも確認をとり、全く問題なく競技が出来ることを確認しました。
 ただ実際私自身が片腕だけで体験し、なかなか難しいことが分かりました。「大丈夫。気の持ちよう」とはいったものの、「こりゃ無理だわ…」と思ったのでした。
 それから練習が続きます。きつい練習です。でもこの年は例年にないことが起こりました。それは次の2つのことです。

1 退部する生徒が減ったこと
2 口うるさく言っていたパスが出来るようになったこと

 片腕がない彼が必死で練習をしているわけだから、他の生徒は「弱音」があげられません。また片腕がない彼に、的確なパスを渡すために、日頃から口うるさく言っていたところへボールがいくようになったのです。今までは「言っても無理…」とあきらめていたのですが、意識したら出来るのです。彼がいたチームはメキメキ力をつけていきました。そして最後の公式戦では、彼がシュートを打てるように、チームメイトが必死に動いたことを今でも憶えています。もちろん、このような良いことばかりがあったのではありません。

 彼は卒業間際に連盟から優秀選手として表彰されました。その後ある大学へ進み、その後もハンドボールを続けてくれていました。「到底出来ないだろう…」と勝手にこちらが限界を作っていたのです。「限界は自分で決める。やってみようと思えば、出来ることもあるだろう」。みなさんも可能性を信じて懸命に生きていきましょう。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。人間には「限界」がある。でもその「限界」を決めるのが「自分」なのだという森本先生のお話。「限界」も考えず、ただ「ダラダラ」と過ごしていたら、それだけで終わるのかもしれない。まずは「自分の限界」をじっくり考えて欲しい。 

11月27日 仏参 2019年11月28日(木)11時28分

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 今日は13組担任花谷先生からお話をうかがった。

 「人生は選択の連続である。その選択は自分で決め、そしてその結果は自分が背負う」

 今日みなさんへお伝えしたいことは2つです。
1 人生は選択の連続です。だから自分にとり良い方向へ向かうために、良いものを選びたい。
2 10代は可能性の連続帯。いつでも変わることが出来る。

 当たり前のことを言っているのですが、日頃選択ばかりしていますね。購買へ行き、物を買うときには複数の選択肢があります。クラブの練習へ行く、行かないという二択もあります。同じ二択でも、ある行動を「続けていく」のか「止めて違う方向へ向かうのか」という選択肢もあります。
 選択することには「リスク」が生じます。「自分には進学したい大学があった。そのために進学をしたい高校があったのだが不合格になった。その高校へ親友が進学をした。自分は併願で受験をした平安で夢をかなえるため、一生懸命学校生活を送った。すると進学したい学校に合格をした。蓋を開けたらその親友も、進学を目指した同じ学校に合格をした」という話は、卒業生からもよく聞き話です。悔しい気持ちの中、新たな気持ちで平安での生活を送り、色々な友に恵まれ「ああ良かった」。
 これらの選択は「自分」で決めるのです。そしてその選択した道で生きていくと、必ずスランプがきます。一生懸命にやっていればいるほど、スランプになるのです。そして悩んでしまい、また選択をしていくのです。
 10代の頭が柔らかい時期に、「自分にとって良い」と思う選択を、「自分の手」でやって欲しいと思います。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。「選択して生きてこられた」花谷先生のお話。そんなこと「分かっている」と考えている人もいるだろう。しかし、花谷先生は「自分で選択する」ということをお話になった。他人から意見されるのではない。あくまで自分なのだ。その意味をじっくり考えて欲しい。 

11月22日 仏参 2019年11月21日(木)20時02分

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 今日は12組担任森口先生からお話をうかがった。

 「あなたの長所は何ですか?」

 今「あなたの長所は何ですか?」と問われ、大きい声で話をすることは難しいと思います。仏参であるし、席も教室ではないし話しづらい。なによりこれだけの大人数の中で、自分の長所とは…と言える人はそんなに多くはないと思います。長所を述べることは気恥ずかしい所もあります。日本では自分の長所について意見が言える人はとても少ないはずです。長所よりも短所を探そうとしてしまいます。でもその長所が言えるようになるためには、「努力」が必要ではないでしょうか。この努力とは3つあると思います。

1 見える努力
 誰が見ても「見える努力」がないと人には伝わりません。
2 見えない努力
 家で宿題をするなど、時間がおいてからでも結果に結びついてくる努力です。
3 「ツキ」をよぶ努力
 一生懸命努力していれば、必ず「ツキ」がおとずれます。そのツキが自分に大きな影響を与えるのです。

 私たちは色々悩みます。その悩みの中で自分の良さが分かってきます。それを理解した上で「努力」すれば、「結果」は必然的に楽しくなっていくはずです。前期が終わり、今努力をすれば進級後にもっと良いことが起きるでしょう。そのためには学校生活が楽しくなるように「努力」すれば良いはずです。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。森口先生のお話にもあった「長所」と「努力」。常々家族や先生方から言われている言葉である。この2つの実践は、学校生活に楽しみを見いだすために、みなさんにとり必要なことではないだろうか。今日の森口先生の話をじっくり味わって欲しい。 

物故者追悼法要 2019年11月14日(木)09時49分

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 今日は物故者追悼法要であった。「物故者追悼法要」とは本校と縁のある人で、この1年間で亡くなられた人を追悼する法要のことである。今年は28名の人を追悼することになった。法要は本山で営まれ、ご遺族もお越しになった。

 多くの人の中に、今春亡くなられた竹中先生のご遺族もお越しになっていた。竹中先生が生きておられたら、おそらくこの学年団に何らかの関わりを持っておられたのかもしれない。残念なことだが、多くの1年生は竹中先生のことを知らないだろう。竹中先生はバトミントン部顧問でいつも元気だった。それであるが故に、誰もが先生の死を疑った。

 竹中先生の最後の仏参(中学部)は1月11日である。その時の「節目」のお話を振り返ってみよう。
 竹が真っ直ぐに伸びるのは「節」があるからだ。私たちも竹のように真っ直ぐに伸びたい。そのために必要なことは「節目」を大切にすることだと話されている。

 みなさんは高校生活でその1回目の「節目」を迎えていることは実感できているだろうか? 「前期」が終わったところで、今までの自分を振り返ってみないか? 「変わるチャンス」なのだ。

 関目校長先生の挨拶の後、本山の中村先生から御法話を頂戴した。「具舎一所」ということを聴いた。「一つのところで共に会う」。お浄土で「みんなに会えて有難う。今が節目だよ」と呼びかける竹中先生に、今の私たちは「先生、有難う。私は真っ直ぐに生きていきますよ」と応えることが出来るだろうか。

 直接的なご縁がなかった多くの1年生は、是非今年の1月11日の中学部ブログを読んで欲しい。

10月30日 仏参 2019年10月30日(水)18時19分

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 今日は11月12日の物故者追悼法要で唄う「みほとけに抱かれて」の歌を学んだ。
 「物故者追悼法要」とは本校と縁のある人で、この1年間で亡くなられた人を追悼する法要のこと。1年生が代表で本山(西本願寺)へ参拝する。当日は平安の代表としてしっかり行事に参加して、今日学んだ歌を心静かに唄いたいものである。

校外学習 2019年10月25日(金)15時58分

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高校1年生の秋の校外学習は,宇治散策とクラス対抗ドッジボール大会でした。

あいにくの天候により,宇治散策は予定より大幅に削ることになってしまいましたが,その分試合はたくさん組むことができました。
男女混合で実施しましたが,どのクラスも力加減に配慮しながら,スポーツマンシップを発揮して正々堂々と試合を行っていました。
それぞれのコースはカリキュラムが分かれており,普段交流するチャンスがあまりありませんが,校外学習では楽しい時間を共にすることができたようです。
ドッジボール大会は大きな怪我もなく無事終了し,体育館を後にするときは爽やかな晴れ模様でした。

校外学習は,1年後の研修旅行を意識した練習でもあります。今回は残念ながら,定刻通りの行動やゴミの持ち帰りなどが不徹底でした。
団体行動では勝手な行動を慎み,時間やルールを守ることの大切さを常に忘れないようにしましょう。

10月23日 仏参 2019年10月23日(水)19時39分

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 今日は10組担任井上先生からお話をうかがった。

 「龍谷大平安高校生として使命 責任 プライドを持って欲しい」

 後期に入り10月も後半です。今ひとつみなさんに考えて欲しいことがあります。龍谷大平安生として「使命 責任 プライド」を持っていますか? 入学して半年も経った訳ですから、何らかの「使命」「責任」「プライド」は持っているでしょう。私自身はコースコンセプトが「使命」だと思っているので、その上で「責任」と「プライド」を持ってくれたら良いのでは…と考えたりします。

 平安へ勤務し11年が経ちました。私自身は、ずっと公立の学校で学んだので、仏参のたびに色々驚きました。「仏さんの学校」ということで、仏参のたびに「すごいなあ」と関心をしたり、あるときには引いたりしたこともあります。
 よく子どものことで燧土先生や藤井先生、石川先生にお話をするときがあります。あるとき石川先生が「競わない。優劣の気持ちがないというのも真宗なんですよ…」と言われたとき、自分の子どもへの視点が変わったと思います。
 今きみたちに「平安で何を学んだの?」と問うとどう答えてくれるでしょう。高3の人に面接練習などで同じ質問をすると、「建学の精神」と言ってくれます。「ことばを大切に じかんを大切に いのちを大切に」と言ってくれますが、それが実行できているのか疑問です。それこそ「言葉だけ」にはなっていないでしょうか。言葉だけではなく、気持ちでも理解はできますよね。前回の南先生の言葉。南先生のお話は言葉にはならなかった。でも先生の気持ちは「言葉」以上のもので私たちの気持ちを揺さぶりました。
 
 仏参の講師は、先生方の人生、また今生きておられるところから話しをされます。その言葉を眠たいだろうが必死に聴いて、何かを学んでくれている。15年前の私には到底出来ません。羨ましいと思います。
 平安のことを悪く言う人がいます。しかしその人が「平安」のどのくらいのことを知っているのでしょう。一方で「平安」ならこれくらいのことは知ってくれているのでは…という世間の思いであることも確かです。なら他人に対しての誹謗・中傷。物理的なことになりますが、制服を地面に直接置いて汚すなどみなさんにはして欲しくはありません。
 アスリートは「甲子園」という目標に。龍プロは「龍大」へ進学後、いや龍大を卒業後に活躍してくれる人になるという目標に。特進・一貫は「本校卒業」後に活躍をしてくれる人になるという目標に「使命 責任 プライド」を持って欲しいと思います。特に一貫生の人は、「平安4年目」であるわけですから、輝いて欲しい。叱られることもあるだろうが、素直な気持ちで気づいて欲しいと思っています。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。井上先生のお話にもあったように、「使命感に目覚め、責任とプライドを持って行動」をしているのだろうか。日々の行為を振り返り、今日の井上先生の話をじっくり味わって欲しい。 

10月16日 仏参 2019年10月16日(水)17時38分

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 今日は9組担任南先生からお話をうかがった。

 「今を一生懸命生きてほしい」

 「海のトリトン」というテレビアニメを知っていますか? 今その曲を流してみました。「いきなり音楽を流すってどういうこと?」って思った人がいるかもしれません。

 私の自宅にはオルゴールが17個あります。このオルゴールは亡き母に「この音色を届けたい」という思いで毎年購入するのです。母が亡くなり16年となりました。母は自らの誕生日を迎えるわずか数日前に大腸がんで息を引き取りました。母の病のことがあって私は「大腸がん」になりたいと思ったものです。普通「なりたい病気」なんて考えませんよね。でも自分が大腸がんになれば、母の苦しみがもっと理解できると思ったのです。
 もちろんオルゴールの音色が母に届いているとは考えていません。しかし「母の記憶が色あせたくない」と思うからこそ、やはり音色を聞いてしまうのです。
 実は母の部屋の掃除が出来ません。髪の毛1本でも母の痕跡があるのでは…と思うからです。掃除することで消え去るのではないかと考えてしまうのです。
 先の「海のトリトン」はもちろん「ガッチャマン」「デビルマン」の音楽も母との思い出の曲です。何か母を思い出すきっかけが残って欲しい…と感じるのです。
 残された人の多くは、このような感情を持っていることをみなさんはしって欲しいと思います。

 みなさんは今、大事な人と時間を共有し、思い出を作ることに時間を費やす時期にあるのだと思います。日頃から逢える人にはもちろん、もう逢えない人にも「自分は一生懸命やってるよ」と胸を張って言えるように、「今」を一生懸命生きてください。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。南先生のお話にもあったように、重たい話だったのかもしれない。しかし「当たり前」を見直したとき、南先生がお話になったように「今」の大切さを忘れているのかもしれない。今日の南先生の話をじっくり味わって欲しい。 

10月9日 仏参 2019年10月09日(水)17時45分

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今日は8組担任中森先生からお話をうかがった。

 「今できることについて優先順位をつけて実行する。ただしその責任は自分で負う」

 今日は後期一番はじめの仏参です。今日は自分と向き合う大切さをお話ししようと思います。

 人間は生きていく上で沢山やることがあります。そのやることに「優先順位」をつけないと生活はできません。早くやらなければいけないものをずっと放っておけば、遅れるだけで自分も周囲にも迷惑がかかることになります。「人生は選択の連続」ということですが、その選択には責任がついて回ります。
 一例を挙げましょう。放課後「勉強」「クラブ」「スマホ」という選択肢があります。「勉強」に力を注ぐと学力が伸びます。「クラブ」に力を注ぐと、自分の体力や喜びだけでなくクラブ全体、学校全体に喜びをもたらすことができるでしょう。「スマホ」で動画サイトばかりみて遊んでいると、「睡眠時間」や「成績」に悪影響を与えてしまいます。

 武田信玄という武将がいます。「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」と言ったそうです。私たちは寿命を削りながら生きています。いつ終わるかわからない自分のいのちです。親鸞聖人は得度を受ける際「明日ありと 思う心の あだ桜  夜半に嵐の 吹かぬものかは」と一首読まれています。夜半に得度をされるようであったから、戒を授ける人から「お昼に得度受けられたら…」と言われたのでした。しかし聖人は「今満開の桜も、夜中の嵐で散ってしまうかもしれません。今夜無常の嵐がやってくると、今夜死ななくてはなりません。つまり明日という日はないのです」と言って、得度を希望されたといいます。
 私たちの人生。今できること見極めましょう。やるべきことの優先順位をつけ選択し、責任を持って自分を歩んでいきましょう。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。中森先生のお話にもあったように、優先順位をつけて日々の生活を営んでいるであろうか。前期考査前の生活を振り返る。また考査の結果から学ぶべきことは多々あるのではないだろうか。
 今日の中森先生の話をじっくり味わって欲しい。