本日の芸術鑑賞は、桂米朝一門による落語鑑賞会でした。声音を変えながら一人で何役も演じ、身ぶりや手ぶり、扇子や手ぬぐいを使っていろいろな動作や場面に、その表現に引きこまれてしまったのではないでしょうか。ある中学校の国語教科書の説明に「落語は、江戸時代に成立した伝統的な話芸です。天真爛漫な笑いを誘うもの、しみじみと人情を語るものなど、たくさんの噺が一人一人の落語家の芸や個性を映しながら、世代を超えて受け継がれています」とあります。また、落語の世界を広げるために
『決定版 心を育てる はじめての落語101』(高田文夫)
『古典落語100席』(立川志の輔)
『落語ハンドブック』(山本進)
の書籍が紹介されていました。興味のある人は読んでみてはいかがでしょうか。
さて、学問、つまり人が学ぶことの原動力は興味・関心です。言い方を変えれば好きなこと、見方を変えれば疑問と言えるでしょう。これこそ学ぶことの決め手なのです。「知的興味」、これなくしては学習は始まらないでしょう。ただ、学ぶのに大切なことは、興味や疑問をもつとともに、自分を打ちこんで真剣に懸命にやることです。そこには必ず苦労と失敗とがありますが、何かの虜となって必死にやることです。努力は決して裏切らない。やったことは必ず自分の何かになっています。そして、次のものが見えてきたら、またアタックすればいい。たとえば英語を自由自在に喋れるようになりたいと思って努力しているうちに、フランス語もスペイン語もできるようになったりする。あるいは英語を使って別の仕事をしたいと思うようになったりする。
ただし、最後に一つ念を押しておきます。よく引かれる譬えで恐縮ですが、馬に水を与えようと思って馬を川まで連れて行くことはできますが、水を飲ませることはできません。馬が水を飲みたいと思わなければどうにもなりません。つまり、学ぶことのすべての決定は自分本人が握っているのです。本人次第なのです。幸田露伴は「いい馬はムチ打たれる前に自ら察して走り出す。並みの馬はムチ打たれてから走る。ダメな馬は打たれても走らない」と言っています。みなさんを馬に譬える気はありません。要は、学ぶことの鍵は本人が握っている。自分の主人は自分だということです。