今日は成道会である。昨年までとは違い、行事は講堂とホームルームで同時並行で行われた。
「未だ『死ぬこと』『仏教』のことはわかりません」
今日は成道会。浄土真宗大谷派玄照寺住職 瓜生崇先生のお話を聞いた。
私は寺の生まれではなく、サラリーマンの子どもとして東京都で生まれ育ちました。そのサラリーマンの子どもが、どうしてお寺に入ったのかをお話ししていきたいと思います。
幼い頃、絵本を買ってもらいました。その中には科学のことが沢山書かれていたのですが、「人間は必ず死ぬ。でも死ぬ原因や死後は何も分かっていない」と書かれていたのです。どの事柄にも明確に答えている本で、唯一答えが書かれていないのが「死」の問題でした。私はそのことにとても驚き、恐怖を感じました。
私たちの世代は、「頑張って生きろ」「頑張れば、勉強でも就職でも良いことが待っている」と聞いて育ちました。しかし私は「何を頑張るの。結局最後には『死んでいく』だろ」と苦しみました。理由もなく生まれ、相手が何を思っているのか分からず、それに相づちを打ち、分かったふりをして、自分を誤魔化して最後は死んでいく。ずっと考えていました。高校はキリスト教系の学校へ進学しました。宗教の時間にやはり「死ぬこと」について考えました。神父さんは「人のために生きよ」とおっしゃたが、やはり分かりません。
その後大学へ進学をしました。理系ではあったのですが、やはり「死ぬこと」が疑問で仕方がないのです。そこで「怪しげな宗教」に声をかけられ、入信をしてしまったのです。明快に答えてくれるのですが、しっくりいかない。聞けば聞くほど「おかしい」と感じてしまう。12年間布教活動などもしたのですが、その宗教から離れました。そして絶望のあまり身投げをしようとしたのです。身投げしようと崖っぷちまで行くのですが、身がすくんで出来ませんでした。何回も試みました。結局死にきれなかったのです。「身体が生きたい」と言っていたのだと思います。
その後IT関係の会社で仕事をしていたのですが、縁あってお寺に入ることが出来ました。今でも「死ぬこと」について考え話をします。
お釈迦樣は「私が思っている私はない。つまり私は生まれてもいないし死んでもいかない。その私は宇宙とつながっている」と言っておられます。難解ですね。それを動画にアップをしたら、35万回以上の再生されていることが分かりました。未だ「死ぬこと」「仏教」のことはわかりません。
「生は偶然、死は必然」。ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)はその著書『パンセ(Pensées) 199』の中で、「ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの 何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じである ことを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。 これが人間の状態を描いた図なのである」と述べている。
この法話を機に、「死」というものを再考して欲しいものである