今日は小嶺先生のお話をうかがった。
「普通であること」
新垣結衣さんと星野源さんが結婚をした。これは「普通」なのでしょうか。私たちは「普通」という言葉をよく使います。私たちは「普通」をどのように考えているのでしょう。これを基準に考えると、「普通の人」「普通でない人」などと二分化してしまいます。すると「普通でない人」は、この「普通」という言葉にひどく苦しんでいるのではないでしょうか。
私の知人にLGBTQの人がいます。そのことを知るきっかけは、その人から「同性愛者」であることを告白されたのでした。驚き、戸惑いのようなものがあったのですが、私はその人を理解しようとし、LGBTQについて懸命に調べました。
あるとき、その人が「恋愛」についての話をしてくれました。同性愛者の恋愛は、「嘔吐物に等しいもの」と語っています。
私たちは嘔吐する場合、周囲に迷惑をかけないように我慢をします。しかし我慢が出来ず「嘔吐」してしまうのです。嘔吐してしまうと、周囲はとても迷惑そうな顔をします。直接吐瀉物がかかると、かけられた人は、とても迷惑をしています。実は同性愛者の告白も、我慢しないと…と思いながら、自分が好意を持っていることを我慢できずに話してしまいます。しかし好意を持たれた人の多くは、非常に迷惑な思いしか持たないのです。
その話を聴きながら、私はとても悲しくなってしまいました。自分の思いを、相手に伝えることは悪くないことです。しかしその人が、このような態度をとらざるを得ない状況にあるのはなぜでしょう。多くの人の価値観が「普通」であるならば、まさにこの人を苦しめているのではないでしょうか。この人を、そこまで苦しめる必要性があるのでしょうか? 金子みすゞの作品に『私と小鳥と鈴と』がある。最後に「みんなちがって、みんないい」という言葉で締め括られています。私はこの「みんなちがって、みんないい」という言葉が好きです。いつかこの言葉のように、「みんなちがって、みんないい」ということが認められる世の中が来て欲しいと思いますし、私自身、そのような社会を実現するために協力をしていきたいと思っています。
さて、今日のお話からどのようなことを考え、何を感じたであろうか。なかなか万人が受け入れることが難しいと言われるLGBTQの問題である。差別は「人の命に関わる問題」であることを理解して欲しい。この当事者として考える人がいるかもしれない。一方で、我がことではないと切り捨てる人がいるかもしれない。しかし、多くの人がLGBTQについて声をあげている時代に、何も考えず、いき過ごすことは、恥ずかしいように思う。
さて諸君は、「みんなちがって、みんないい」世界を実現するために、何を実践するのだろう。じっくり考えて欲しい。