学校長式辞
桜花爛漫の校庭に陽光があふれる今日の佳き日、平成26(2014)年度入学式を挙行いたしましたところ、龍谷大学副学長、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、平安会の役員の方々、多数のご来賓のご臨席を賜り、理事長とともに衷心より御礼を申し上げます。
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。新入生の保護者のみなさま、ご子女の晴のご入学を心よりお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
さて、ちょうど三年と一ヶ月前の3月11日、あの未曾有の大震災が起きました。時間とともに記憶から薄れてしまいそうになりますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。そして、今こうして今日のこの日が迎えられたことを、心から「ありがたい」と感謝いたしたいと思います。
それでは、私の式辞は、「すべてのいのちを大切にする心について」お話しします。
阿弥陀さまは「無限のいのち」の仏さまであるとともに、「無限の光」の仏さまであります。みなさんは、阿弥陀さまの光をご覧になったことがありますか。阿弥陀さまの光は、太陽や星のように目に見えるものではありません。しかし、阿弥陀さまの慈悲の光の到らないところはありません。そして、その光に包まれた人は慶びを得ると言われています。阿弥陀さまの色も形もない光が、私たちの言葉や行いや態度や表情として現れてまいるのであります。
では「阿弥陀さまの光にいつも照らされている」とは、どういうことか、考えてみましょう。
昨年の11月10日の「本願寺新報」にたいへんわかりやすく記されていましたので紹介します。
あるご法事で目の前に座った中学生の女の子に、次のような質問をしました。
「ちょっと聞いていいかな。今まで、ウソついたことある?」
皆さんはいかがですか? 今までウソをついたことはありませんか? 私は「ありません」なんてとても言えません。あります。その数は……正直数えることができません。大きなものから小さなものまで、いろんなウソをついてきました。
その女の子はビックリしていました。いきなり法事の席で質問されたことにもビックリでしょうし、質問の内容にもビックリ、二重の驚きだったようです。それもそのはず、隣にはご両親が、周りには親戚の方がいらっしゃる中での問いかけでした。
「まあまあ、どんなウソかは聞かないからさ、安心して答えていいよ」
そう言うと、彼女は目を真ん丸に開いて、息をのみながら首を縦に振ってくれました。ウソをついてきた自分を認めた瞬間でした。
私はさらに質問を続けました。
「ありがとう。じゃあさ、その今までついてきたウソの中で、まだ誰にもばれていないウソって、ある?」 女の子はさらにビックリです。今度は「えっ!?」と声まで出してしまいました。
とても答えづらい質問ですね。「ばれていないウソがある」って認めてしまうと、その後が大変そうです。
その時、一言だけフォローしました。
「お父さん、お母さん、この後いろいろ追及しちゃダメですからね!」
そう言うと、ご両親も笑顔で了解してくださいました。
そんなやり取りの中、覚悟を決めた女の子は、ついに答えを返してくれました。
静かに一言、「うん…」。
ばれていないと思うウソがある、という告白でした。あの真剣なまなざし、表情は、忘れることはできません。もし私が同じことを聞かれたら、果たしてどう答えるでしょうか。正直に答えられるかどうか、とても不安です。
そのあと少しお話をしました。
まずは彼女が答えてくれたことにお礼を言い、そして、私自身のことを話しながら…仏さまの光に照らされるって、どんなことかを一緒に考えました。
私もたくさんウソをついてきた、という事実や、その中には、彼女と同じように、たぶん誰にもばれていないと思うものもある、ということを告げました。でも、ここからが大切です。
誰にもばれてはいないけれど、ウソをついたということを私自身は知っています。光に照らされるということは、「ウソをついてしまったんだよな」って、「それでよかったのかな」って問いかけを持つことだと私は考えています、という話をしました。
それを聞いて、今度はその女の子から問い返されました。
「それって、大変じゃないですか?」
聞いてくれたこと自体がうれしかったので、私はニコニコしながら彼女に返事をしました。
「そうだね。とっても大変。きついこともあるけど、おじさんはそれが〝素敵なこと〟だと思ってるんだ」
阿弥陀さまの光に、いつも照らされている。照らされたから、ウソをつかなくなるのかと言うと、とてもそうだとは言えません。しかし、ウソをついて、つき通して、ばれなければそれでよし、という開き直った生き方とは明らかに違ってくる気がしています。
阿弥陀さまの光は、他の誰でもなく、この私にこそ注がれています。その温かさにであえばであうほど、また私の本当の姿が浮かび上がってくるのでしょう。それでも、なお必ず救う、決して離したりはしない、そう誓ってくださったみ教えです。この「仏さまの光」に、私たちはいつも照らされているのであります。
龍谷大平安は、明治9年滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立しました。本年5月21日で満138歳となります。その長い歴史の中で変わらないものが、建学の精神にもとづいた「こころの教育」です。仏教的なものの見方ができる人づくりであります。
本校では、一般的に『徳育』と呼ばれる心の教育を『宗育』と呼びます。それは、本校の宗教的情操教育が、仏教精神をもとにした宗教的な視点と、素直に人の話を聞く姿勢を大切にするからです。
先に申しましたように、阿弥陀如来は、常に私たちを照らしてくださっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると「素直な心」と「謙虚な心」が根づきます。そんな心のありようを意識して日々の生活を送りましょう。
龍谷大平安の教職員は、君たちを時には叱り、時には励ましの声を常にかけ続け、特に担任は、みなさん一人一人と膝と膝をつき合わせて、しっかりと関わっていきます。みなさんは、しっかりと「こころの知性」を磨き、人間力を高めるべく心豊かな学校生活を送られることをお願いしまして、私の式辞といたします。