みなさん、おはようございます。
さて、みなさんには前期始業式にもお話ししましたが、昨年度(2013)の生徒手帳に「遍く一切を照らす」という意味の『遍照(へんじよう)』を記しました。私たちは自分の煩悩によって、自分で自分を見えなくしてしまっています。それでもなお、阿弥陀仏の光明、つまり、仏さまの大いなるお心は、あきらめることなく、常に私たちを照らして護ってくださっているのです。そのことに、感謝いたしましょう。
それでは、今日は、今年度(2014)の生徒手帳にしたためさせていただきました私の書『智慧』について、昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である 澤木興道 さんの著書「禅談」をご紹介し、お話しさせていただきます。
その「禅談」の中に「本当にめでたいもの」と題して、次のようなお話が記されています。
先日、小学生を相手に、人間の「知恵」と仏の「智慧」の話をしました。
人間の『知恵』とは、生きていく上での学問や知識のことで、本で読んだこと、人から聞いたこと、役に立つ知識のこととなります。そして、仏の『智慧』とは、仏さまの心のことです。もう少しかみ砕いて説明しましょう。
「例えば、私がここで居眠りをしていたらみなさんどう思いますか。授業中に居眠りをしている人がいたらどう思いますか。」と尋ねました。みなさんならどう思いますか。
人間の『知恵』の世界だと、「先生のくせに居眠りなんてとんでもない」「不謹慎だ」となるでしょう。ところが、仏の『智慧』の眼でみると、「ああ疲れているんだろうか。」「家庭で何か大変なことでもあったのかなあ。」「何か助けてあげられることはないかなあ。」などというふうな見方もできます。
戦後の高度経済成長の中で、人間の『知恵』の世界ばかりが横行して、現在ではそれが反省されている世の中です。学問一辺倒で、物質や知識は豊かになってはいますが、心がそれに併せて、育っていないということです。
人間の『知恵』だけではなく、仏の『智慧』も備えていないと本物とはいえません。
このような内容でありました。龍谷大平安は、「ことば・じかん・いのちを大切に」という建学の精神を大事にしています。特に本校は、浄土真宗『親鸞聖人のみ教え』を教育の基盤に据えている学校だからこそ、仏の『智慧』を得ていくことが、本当に大切になってくるのだと思います。
もう一度確認します。
私たちの日常生活では、人間の知恵という言葉は、「知識があって賢いこと」だと理解されています。では、この知識とは何でしょう。これは、人が、便宜上作った、人間社会共通の約束事なのです。あらゆるものに尺度や理論をつけ差別化をしたものがすなわち「知識」です。
確かに、知識は、人が社会生活を送る中で絶対に欠くことのできない、物事を判断するうえで大事なものです。知識を生かすことで、人は合理的で豊かな生活を手にすることができました。あらゆる分野において、どんな知識もあるにこしたことはありません。
しかし、知識を積み知恵をつけた人が果たして「賢い人」でしょうか。と言いますのも、それは「知恵」には、「浅知恵」とか「悪知恵」があるように、中には知識を悪用する人もいるからです。オレオレ詐欺の例にもあるように、現代の犯罪の多くは、知識をフルに活用した知能犯が主流を占めています。
つまり、賢い人「賢人」の定義が「立派な人」だとすれば、「知恵ある人」がすなわち「賢人」とは限らないということです。これは、人のつくった知識は、人間の勝手な判断や偏った見方に呑み込まれてしまうということです。
仏教で言うところのほんとうの意味での賢人とは、人間の知恵の先にある「さとりの智慧」、つまり、仏の「智慧」を会得した人のことをいいます。その人こそ「真理に目覚めた人」すなわち仏陀なのです。35歳のとき、菩提樹の下で悟りを開かれ仏陀となられましたのが釈尊です。釈尊はこの悟りの体験から、すべての人の中にすでに届けられている仏の智慧が、私たちの身の内にあることに目覚めさせ、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されているのです。
その“ありのままの真実”を見ること、それが「智慧」なのです。
では「ありのままの真実を見ること」ということは「いったいどういうことなのか」と言いますと、例えば、「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、仕分けたりするのも、結局は、自分という“モノサシ”ではかっているのです。
仏教では、この自分の“モノサシ”こそ、あらゆる“苦しみ”を生み出すもとであるとされるのです。
仏の智慧は、そのような偏見や分別の“モノサシ”を超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあるのです。
「心の眼を開き、智慧を進める」ことによって、この世に存在するすべてのものは、互いに深く大きなつながりの中に存在しているのであって、そこに価値の上下はないのだ、という世界があらわれてくるのです。
仏教とは、お釈迦様が、悟りをひらかれ、その悟りに基づいた教えであり、その悟りそのものがすなわち「智慧」そのものであるのです。
私たちにこの「仏の智慧」さえあれば、愚かな行為は一切なくなるはずです。もちろん、いじめも虐待も、すべての悪行はなくなります。
というより、先にも申しましたとおり、この「仏の『智慧』」が、もうすでに私たちの身の内にあることに目覚め、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことを心がけたいものです。
そういう意味で、今年度(2014)生徒手帳に『智慧』と記させていただきました。