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平成27(2015)年度 龍谷大学付属平安高等学校 卒業証書授与式 2016年03月01日(火)12時18分

学校長式辞

 一雨ごとに気温が上がり日差しも徐々に暖かくなって春の訪れを感じる季節となりましたが、今朝起きますとみなさんの卒業をなごり惜しむかのようになごり雪が舞っておりました。また、校庭には二本の紅梅がありますが、今日の佳き日に合わせたかのように1本は満開に、もう1本もほころび始めました。本日ここに、龍谷大学付属平安高等学校の第68回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部賛事 辻本順爾 様、龍谷大学学長 赤松徹眞 様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、平安同窓会、親和会・保護者会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜りましたことに、理事長とともに、衷心より御礼を申し上げます。
 保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。卒業生508名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 龍谷大平安ですが、明治9(1876)年滋賀県彦根の地に「金亀教校」として産声を上げましてから、今年、創立140周年を迎えます。その記念すべき年に卒業されますみなさんに心よりお祝いを申し上げます。現在、卒業生は41,947名 ですので、みなさんが卒業されますと42,455名 となります。みなさんは、創立から数えますと137期生ということになります。
 さて、ちょうど10日ほど前の新聞に「ワトソン日本語版スタート」という記事が掲載されていました。
 ワトソンは、日本IBMが開発した人工知能で、大量のデータを「学び」「分析し」「判断し」「伝える」という人間に似た能力を持つ最先端のシステムです。質問応答システムで、言葉の趣旨を理解する能力の高さが特徴らしく、システムに入力された膨大なデータの傾向を分析し、回答の選択肢を選び、優先度を付けて回答を示す能力があるというのです。
 例えば、「手をたたく」という同じ表現が、注意を促したのか、拍手をしたのか、感心したのかを前後の文脈から判断し、アメリカのクイズ番組では人間のチャンピオンを破り、有名になったということです。今、大手企業が、顧客対応や研究開発分野で導入することを表明するなど、すでに、約150社が導入を検討中で、今後、さまざまな事業やサービスへの活用が広がっていきそうだ、ということであります。正に、科学が、私たち人間が発する言葉の趣旨までも理解し、対応をするまでに進歩したということです。が、ここで、忘れてはならない大切なものを、1月22日の終業式の話をおさらいして、私からみなさんに贈る言葉としたいと思います。
 大谷光真前ご門主著述の『人生は価値ある一瞬(ひととき)』の内容に触れたのを覚えてくれていますか。
 前門さまは、今さえよければ、自分さえよければという狭い思いを打ち砕く大切なはたらきを持った仏教を手がかりに、現代生活のさまざまな課題に、どう対処することができるかを考えてみました。と前置きをされ、エッセイを綴られています。その一つ「こころの進歩」と題する内容を紹介しましたね。
おさらいをしておきましょう。
 わたしたちは、生まれたときから常に、「進歩」することを生活の原理としています。学校では、多くの知識を増やして成績上位を目指し、会社に勤めると、業績を上げてより高い収入と地位を目標とします。近代の日本人を導いてきたのはこの「進歩」の思想で、確かに優れた点もたくさんありました。しかし、他方では、受験戦争など激しい競争社会を生み出してきたのも事実です。
 こうした学歴や出世、収入などは、他人と比較して外から見える「進歩」だとすれば、同じ「進歩」でも、外から見えない「進歩」があります。自分の内面における「こころの進歩」です。
 「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という箴言にもあるとおり、おのずから他人に対して謙虚になります。
 とはいえ、人間はなかなか自分を正しく見られません。ともすると、よい点は過大に認め、悪い点は割り引いて見るなど、自分に甘く、他人に厳しくなりがちです。自分のほんとうの姿は無意識に見ないようにしてしまうからで、それだけに、「こころの進歩」を意識して生きる必要があると思います。
 このように記されておられます。さて、みなさんの「こころ」は、どのように「進歩」しましたか?意識して3年間・6年間を過ごしてきましたか?3年間を少し振り返ってみましょう。
 3年前、みなさんが龍谷大学付属平安高校に入学されました時の生徒手帳を思い起こしてみてください。その時の生徒手帳に私は「遍照」と記し、2年生の時の生徒手帳には「智慧」と記し、卒業の時には「慈悲」と記させていただきました。仏さまのお徳を「智慧」と「慈悲」であらわします。
 「慈悲」とはすべての者を救おうとする心で、相手の悲しみや痛みが、自分の悲しみや痛みとなる心です。「智慧」とは、その相手を救うために心理を深く洞察することを言います。
 しかしながら、今さえよければいいとか、自分さえよければいいとか、仲間さえよければいいというように、物事を自分にとって都合がいいようにしか理解せず、真実を真実として見ることができないのが、この自己中心的な私たちの姿です。ということは、この私が仏さまの「智慧」と「慈悲」を完成していくのではありません。
 仏さまの「智慧」と「慈悲」が私の身の上に届いて、私たちの内なるこころを成長させてくださるのです。このこころを育てることこそが、実は仏教的なものの見方のできる人間を育てる道であり、それが、本校の「徳育」(宗育)に他ならなかったのです。みなさんの心に「思いやりの心」を育て、「自制・協力・調和の心」を育む。そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいと願い,日常の心得として,「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけてきたのです。
 みなさんが今日、受け取られます卒業アルバムに、平安の三つの大切「ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切に」という言葉に添えて『煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我』という言葉をしたためさせてもらいました。
 これは、私たちが、日々お勤めする『正信念仏偈』の中の、七高僧のお一人、源信和尚の述懐の箇所にある一節であります。
――悲しいかな、煩悩のためにわが眼はおおわれてしまって真実の有様を見ることができないですが、よろこばしいかな、如来はお慈悲の心をもって、倦(う)みつかれることなく、常にわが身を照らし続けて下さっているのですよ――
 自己中心的なものの見方や考え方しかできない私たちであります。その中で本当の姿、真実の姿をついつい見失ってしまい、物事をありのままに受け容れることができなくなり、だから、色々なことで悩み苦しみます。それでも、阿弥陀如来は常に私たちを照らしてくださっています。阿弥陀さまははたらき続けていてくださいます。
 安心して、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると、素直な心と謙虚な心が根づきます。そんな心のありようを意識して、先程ご紹介しました前門さまがおっしゃっています「こころの進歩」を意識して、日々の生活を送りましょう。
 次の日本を、そして世界を背負って立つみなさんに、こうして涵養した「宗教的情操」こそが、これからの人生の基盤に据えられることを願っております。どうぞ、龍谷大平安で青春を過ごしたことを誇りに、自らのいのちを磨き続ける人生を送られますことを心より念じまして、私の式辞といたします。