学校長挨拶
2017(平成29)年1月5日 午前9時30分~ 於、礼拝堂
あけましておめでとうございます。
「一年の計は元旦にあり」と申しますが、先生方におかれましては、今年一年の計画や抱負を立てられたことでしょう。昨年を振り返りますと、私はとにかく創立140周年記念事業に翻弄された一年でありました。その中で、11月12日(土)の記念式典・祝賀会・同窓会におきましては、本校教職員の一体感を力強く感じた一日でありました。それは、12月開催されました、龍谷総合学園25学園70校の理事会・総会と京都府私学連合会40校の校長会において、多くの理事長や校長先生方から、平安の力強さを見せてもらった、素晴らしい一体感だったとお褒めの言葉をたくさんいただき、本当に幸せだと感じました。また、記念式典に参加してくれた中学生385人、生徒パフォーマンスに協力してくれた文化系クラブを中心とする高校生数百人、気持ちの良いおもてなしに対してお褒めをいただきました。本当に嬉しいかぎりであります。
日頃、先生方が、生徒やその保護者にむけ、建学の精神をしっかりと意識した語りかけをしていただいている、その姿勢が、龍谷大平安のあるべき姿を醸し出したのだと思います。誠にありがとうございました。
さて、束の間のお正月休みでしたが、そのお正月も3日から返上して、センター直前演習でお世話になっている先生方には本当にありがとうございます。いずれにいたしましても、あらためまして、みなさん本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
今日は、11月と12月の御命日法要のご案内でご紹介いたしましたが、PHP研究所から発行されました、大谷光淳ご門主著述の「『ありのままに、ひたむきに』~不安な今を生きる~」から、何個かお話しさせていただきます。
まず、「すべて自分自身が正しいと考えるのは 仏教的に見れば正しくない 自分の至らなさに気づいて行動する」と題された内容をご紹介いたします。
生き方として、すべて自分が正しい、あるいは自分の思いどおりになるというのは、仏教的に見れば正しくないことです。
私たちは、自分自身とほかの人をまったく同じように考えることができない、ということがあります。また、私を無くす「無私」という言葉がありますが、自分自身のことを横へ置いておいて、ほかの人のことを考えられるかというと、やはり難しい。しかし、もともと難しい中で、ほかの人に寄り添い、自分自身とまったく同じようにその人の立場になり、考えることができるよう努力をされている方もなかにはおられます。
けれども、そういう努力をしたとしてもやはり完全にできることではありません。ですから、他人の喜びを私の喜びとし、他人の悲しみを私の悲しみとする仏さまのような行いができない自分自身の姿を認めて、そのうえで、常に自分自身の意識や行いを思い、自分の至らなさに気づいて行動することが大切です。
と、このように記されております。次に、「相手を自分の思いどおりにしよう 押しつけようとすると いろいろな問題が出てくる」と題された内容をご紹介いたします。
最近よく話題になる学校や職場でのいじめは、きっと昔からあったのだと思います。つまり、自分と比べて弱い立場の人に対し、いろいろなかたちで力が向いてしまうのです。また親子間の場合のいわゆる虐待については、親子関係が昔とは変わってきているのではないかという気もします。
いずれにせよ、いじめでも虐待でも、結局は、自分と相手との関係の中で、相手に対してどういう気持ちを持てるかということが問題になります。いじめや虐待には、相手を自分の都合どおりに動かそうとする思い、相手に自分の思いを押しつけようとする気持ちが根底にあるのでしょう。差別やさまざまなハラスメントと言われるようなことも同じだと思います。
「ご縁を大切にする」と言いますが、相手との関係を大切にすることができれば、いじめや虐待にはつながりません。つまり、自分とほかの人との関係性をどのようにつくっていくのか、自分と相手をまったく対等な人間として認めることができているかどうかです。
そもそも人はすべてのものとの関係性の中に生きています。そういう関係性を自分の都合のよいように無理に変えよう、あるいは断ち切ろうとするところに問題があるのでしょう。
と、このように記されています。
中学や高校の現場における子どもたちの「いじめの問題」については簡単には答えは見つけられませんが、これは、私たち大人社会の価値観の倒錯が挙げられるでしょう。自分の権利の主張には長けても、義務の遂行にいたっては他人任せで、自己中心の生き方が蔓延している親世代のライフスタイルが、そのまま子どもたちに反映しているのではないでしょうか。
子どもは親の後ろ姿を、弟や妹は兄や姉の一挙手一投足まで真似をし、学びながら成長すると言われます。かつて家庭には独自の家風があり、学校にはよき校風があり、それぞれが学びの場でした。今、その学びの場が機能せず、親も教員も自己主張に執らわれた生き方に偏ってしまっているように思います。
しかし、この自己に執らわれる心からの解放なくして真実の世界は見えてこないのです。この原点にたちかえれば、身分の上下もなく、男女の別もなく、学歴の有る無しに関係なく、老若男女みな倶(とも)に同朋の世界がひらけ、仏さまのお慈悲につつまれた世界に生かされているという平等の人生を歩むことができるのです。
自分のありのままの真実の姿、いのちの原点について、真摯に学ぶところに、こころの教育が成立するのです。私たちの「いのち」は預かりものに他なりません。多くの命の恵みをいただいて生かされている「いのち」であり、多くの人たちに願われ支えられた「いのち」であり、かつまた阿弥陀さまの願いのかけられた尊い「いのち」であるというのが、私たちの「いのち」の在り方です。その「いのち」は、一たび失ったら、もう二度と取り戻すことのできない「いのち」でもあります。だからこそまた、尊いのです。
ありとあらゆる「いのち」が尊いのだと気づき、自らの人間性を育てていくことが、大切なのです。こうした、「いのちに対するめざめ」こそが建学の精神の教えるところであり、これによって、すべてのものに感謝する生き方が生まれ、また「ことば」や「じかん」を大切にする生き方も身についてくるのです。生徒たちに、そんな人間に育ってほしいというのが、平安の願いであります。このことを確認しておきましょう。
今、学校教育において、改めて、情操教育の中でも道徳的情操教育の必要性が強調されています。時代によって価値観の変わる道徳教育と時代を超えた思想に根ざした宗教教育との本質的なちがいは、歴史が証明するところです。つまり、道徳的情操教育は、普遍的な宗教的情操の裏付けを必要とすると思います。言い換えれば、宗教教育が人生や社会生活において如何に大切なのかということです。
現在、人間が開発した人工知能「AI(Artificial Intelligence)」がますます高度なことを成し遂げようとしています。いったい人間が作り出した機械の頭脳は、いつまで人類の手の中にいるのでしょう。機械が人間を操る時代がもうそこまで来ています。
先程、ご紹介いたしましたご門主さまのご本にも「人工知能や人型口ボットの進化で 『人が生きていくこと』の 意味が問われる」というタイトルで記されていますが、昨年11月12日の創立140周年記念式典でのお言葉の中でも人工知能について言及されました。式典でお話になった内容はこのようなものです。
人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは私たち人間には心がある、だからこそ宗教を持つということでありましょう。新聞によりますと、人工知能の全自動の車が動き始めた時、私たち人間は、究極的な選択を迫られることになります。
それは、全自動で走っている車の前に突然、人が飛び出してきたとき、その車は飛び出してきた人を守るように行動するのか、あるいは、乗っている人を守るように行動するのか、ということを私たち人間が決めなければいけない。すべての人を守ることが出来ない状況をどのようにロボットに行動をさせるのかということを私たちが決めなければいけません。
科学技術の発達した現代であるからこそ、私たち人間の生き方が問われることになります。そして、それは、日々の生活の中で私たちがどのように自分の命の問題を考え、周りの家族の方、友達のことなどを考え生活していくかということにつながります。
その背景には、必ず宗教が必要になります。浄土真宗のみ教えを建学の精神とする龍谷大学付属平安高等学校・中学校、これからも建学の精神を大事にされ、多くの生徒やその保護者に対し、浄土真宗のみ教えと宗教をもとにした教えを伝えていただくことを切にお願い申し上げお祝いの言葉といたします。
というお言葉でありました。2018(平成30)年には小学校で、翌2019(平成31)年には中学校で、道徳教育が教科化されます。記念祝賀会・同窓会の謝辞でも申しましたが、こういう時代にあるからこそ、ここで改めて、宗門校としての基本的な理念を確認し、さらなる建学の精神の伝播と醸成につとめなければならないと2017年が始まるにあたり、決意を新たにしたことであります。
先生方には、今年も1年繁忙の日々となりますが、ご協力賜りますようお願い申し上げ年頭のご挨拶とさせていただきます。
本日はようこそのお参りでございます。