【ご案内】
新しい年度がスタートした。満開の桜が新入生、新社会人を祝福するかのように咲き誇っている。4月の陽光に照らされ、日本列島は波打つように春色へと染まっていく。希望に満ちた季節の始まりだ。
日本人は桜が好きだ。昔から多くの詩歌に詠まれてきた。まるで春を告げるサイレンのように一斉に開花し、あっという間に散ってしまう。天を覆うような咲きっぷりが見事なだけに、散った後の喪失感は時の移ろいやすさ、世の儚さを説くための格好の題材だった。
桜は寒い間、暗い土の中でエネルギーを蓄え、春を待ちわびたかのように、一気に咲き乱れる。多くの人が行き交う道を、豪華な枝ぶりの老木がトンネルのように彩る光景が各地で見られる。路地裏にひっそりと一本だけ咲く若木もある。どちらも同じように美しい。一晩嵐が吹けば、散ってしまうことも変わりない。
桜だけではない。何事にも終わりがある。学校にも職場にも、そして人生にもいつか終焉の時は訪れる。学園生活が充実していればいるほど、職場環境が恵まれていればいるほど、その終わりは切ない。諸行無常、全てが変化して止まないが、確かなことは、私たちにはこの世での命が尽きた後、次に生まれる世界があることだ。そのお浄土へ間違いなく救い取ってくださる阿弥陀如来。広大なお慈悲に対して、自然と御恩報謝のお念仏が出る。
(2017(平成29)年4月1日本願寺新報コラム「赤光白光」より)
「お釈迦になる」という言葉がある。思っていた物と異なる物が出来上がったり、壊れたりして使い物にならなくなったときに使われる。語源には諸説あるが、ある辞典の説に目がとまった。鋳物職人の用語で「火が強かった」ので失敗したのが訛って「しがつよかった」となり、それがお釈迦さまの誕生日の4月8日に聞こえるので洒落で「お釈迦になる」と言ったという。お釈迦さまも苦笑されているかもしれない。
その4月8日、山あいの小さな寺でお釈迦さまのご誕生をお祝いする灌仏会(花まつり)が行われた。ここ数年、入退院を繰り返していた老僧が「最後かも」と、少なくなった同世代のご門徒に呼びかけた。曾祖父母から曾孫までの4世代の家族連れ、そして仏教婦人会と日曜学校の子たちも集まり、お念仏と笑い声が、春の山野に大きくこだました。境内の未だ蕾の紅枝垂も、きっと目を覚ましたことだろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。皆が帰り、静まり返った境内に、夕べを告げる鐘の音。その余韻に、ことさら無常を感じた。今日を楽しく共にした人たちとも、やがて桜の花びらが欠け散るように、今生の別れがある。お釈迦さまが説かれたように「愛別離苦」、愛しい人との別れがやってくる。
言いようのない寂しさを覚える半面、再び会うことのできる世界が恵まれているよろこびにも包まれた。その確かさ、うれしさに、ナンマンダブツの念仏があふれ出た。
(2017(平成29)年4月20日本願寺新報コラム「赤光白光」より)
2017(平成29)年 “建学の精神”の伝播と醸成
5月 御命日法要
○ 日時 5月15日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 中森寿樹 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。