【ご案内】
9月23日「秋分の日」を彼岸中日として、各地で彼岸会法要が営まれたことと思います。爽やかな秋風が吹き出すと、もうお彼岸の季節。「あぁそろそろ」と力レンダーを確かめてお墓参りに行かれた方も多いのでは。今年のお彼岸はどんな心持ちで過ごされたでしょうか。お彼岸のいわれと浄土真宗のおこころを味わってみたいと思います。
〈法話〉秋彼岸によせて
舟川智也(仏教青年連盟指導講師)
川の向こう岸
まもなくお彼岸(ひがん)の季節がやってまいります。お彼岸は、仏教が発祥したインドや中国にはない日本固有の宗教行事で、太陽が真西に沈む「春分の日」と「秋分の日」を中日(ちゅうにち)とし、その前後1週間をお彼岸の時期としています。
仏教では、私たちの世界と仏さまの世界を川の両岸に喩(たと)えて、私たちのこの世を「此岸(しがん)」といい、これに対して、阿弥陀さまの国=お浄土を「彼岸」と呼びます。『仏説阿弥陀経』には、「従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽(じゅぜさいほうかじゅうまんのくぶつどうせかいみょうわつごくらく)」と説かれ、このお浄土は西方にあると示されます。このことから、太陽が真西に沈むこの時期にお浄土を想(おも)い、仏さまのお話を聞く習わしとしているのです。
また、「暑さ寒さも彼岸まで」というように、この時季は暑さや寒さがしのぎやすくなる頃で、落ち着いた心持ちでお聴聞ができる時期でもあります。
「私」の上で
さて、そんなお彼岸の過ごし方を考えてみると、家族連れだってお墓参りをする光景を思い浮かべる方も多いことでしょう。
数年前、お彼岸を前にして、あるテレビ番組で「お彼岸特集」が組まれていました。その中で、お墓参りの時に子どもたちはどんなことを思いながら手を合わせているのか、というアンケートが紹介されていました。
その結果、1位2位は「お礼」と「報告」。亡くなった祖父母やご先祖さまに、今の自分の姿を報告したり、お世話になったことへの感謝の意を伝えるために、お墓に向き合っているということでした。
そんな中で、お墓参りに来た小学校高学年の男の子が、テレビ局のリポーターからインタビューされていました。
「今、お墓にお参りしていたけど、どんな思いで手を合わせていたの?」
「おじいちゃんに近況報告をしていました。今、僕はサッカーをしています。昨日も試合に出て勝つことができました。これからも頑張るから、おじいちゃんもそっちで頑張ってねって」
この時、この男の子の答えを聞いたスタジオの大人たちが一様に笑い始めたのです。その笑い声に、テレビの前の私は違和感をおぼえました。
この子の答えのどこがそんなにおかしかったのでしょうか。もしかして、「おじいちゃんもそっちで頑張ってね」という言葉でしょうか。
確かに、「人間が死んだらおしまい」と考えている人にとっては、死は頑張りようもなくなる姿ですから滑稽(こっけい)に響くことでしょう。また、「亡くなった方は安らかに眠る」と考えている人にとっても、「頑張って」という言葉はおかしく聞こえるかもしれません。
しかし、私たち浄土真宗の念仏者が真実信心を恵まれて命終わって「仏となる」ということは、消えてなくなるわけでも、安らかに眠ることでもないのです。「仏となる」とは、阿弥陀仏のご本願のはたらきによって浄土に生まれ、真実に目覚めたいのち、仏となることをいうのです。
それのみならず、浄土で仏となった者は迷いの世に還(かえ)り来たって縁ある人々を護(まも)り導くはたらきをするのです。つまり、仏となった方々は、「そっち」ではなく、「こっち」=「私」の上で〝頑張って〟くださるのです。
別れがなければ
今、全国各地で多くの門信徒の皆さんがお寺に参詣されています。そのきっかけは何でしょうか。ご法義のある家庭に育ったから、病気にかかって人生を見つめ直すためなど、理由はそれぞれでしょうが、最も多いのは両親やきょうだい、お子さんといった親しい家族との死別がきっかけとなる場合でしょう。
自分自身や家族のいのちが揺らいだときに、お寺の山門をくぐろうと思うのです。「死んだらおしまい」「消えてなくなる」で済んでいたものが、その一言では済まされなくなったということです。他人事であった死という問題が、わが事に変わったということです。 私たちはどんな問題でも、私ごとになったときにしか言葉は耳に入ってこないのかもしれません。
そして、家族との死別という悲しみ中でつとめられる通夜(つや)・葬儀、法事や法要を通して、お浄土という生まれ往(ゆ)く世界を知らされ、やがて、私のいのちの上にはたらいてくださっている阿弥陀さまを知らされ、気がつけば「ナモアミダブツ」とお念仏申す身へとなっている私がいます。その私をナモアミダブツと出遇(あ)わせてくれた一連の出来事を、「私」の上で〝頑張って〟くださっていると味わうのです。
その時その時は何も思わず、ただただ聞こえてくる言葉に耳を傾けているだけでも、振り返ってみると、「あの時の、あの出遇いが、あの別れがなければ、こうしてお寺に足を向けることもなかったなぁ」という経験は、誰しも思い当たるところがあるのではないでしょうか。
そのお一人おひとりの導きが私を阿弥陀さまへと出遇わせてくださいました。その阿弥陀さまは自分自身のいのちの行く末がわからない私に、「あなたの生まれ往く世界はここだよ。この浄土に必ず救う、我にまかせよ」と喚(よ)びかけてくださっています。その喚び声に私たちは今ここで安心をいただくのです。
お彼岸にあたり、先人の皆さまからのお育てにお礼を申し、あらためてお浄土のいわれを聞かせていただきましょう。
「2017(平成29)年9月10日(日曜日) 第3280号 本願寺新報 より」
2017(平成29)年 “建学の精神”の伝播と醸成
10月 御命日法要
○ 日時 10月16日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 石原光雄 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。