学校長式辞
お正月を過ぎ3週間を経過しておりますが、あらためまして、みなさん、本年もよろしくお願いします。
さて、お正月は、ほんの束の間だったかも知れませんが、家族がコタツを囲み、もしくは、年末年始旅行に出かけお正月を外で迎えた人もいるかも知れません。少しはゆっくり過ごせましたか。そのお正月も2日からのセンター入試直前演習で最後の調整をして、先々週のセンター試験に臨んだみなさんは、たいへん、お疲れさまでした。この後も、2月・3月と入試本番を控えておりますので気を抜かず頑張ってください。
卒業式まであと一ヶ月余りとなりましたが、あらためて、龍谷大平安について少しだけ触れておきます。明治9(1876)年に滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立されました。そして、126年間男子校でありました平安は2003(平成15)年に男女共学となり、5年後の2008(平成20)年に龍谷大学付属平安中学校・高等学校と校名を変更し、10年が経ちます。そして、一昨年、めでたく創立140周年を迎え、今春卒業生であるみなさん、476名が卒業されましたら、卒業生総数は、約43,000名を超えます。
今日は、先々週、1月12日の報恩講で、浄土真宗本願寺派布教使 南條了瑛先生にお話いただいた内容をご紹介させていただきます。
まず、報恩講のしおりに記された『報恩講について』のところをお読みになりました。
「報恩講とは、親鸞聖人の教えによって、阿弥陀如来の教えに遇わせていただいたご恩に対して、感謝の心をもって、聖人のお亡くなりになった日を機縁に聖人のご遺徳を偲ぶ行事です。浄土真宗において最も重要な行事です。」という所を強調されました。この中で、「阿弥陀如来の教えに出遇わせていただいたご恩」という所を取り上げ、この「出遇う」ということについて説明くださいました。
仏教では、「出遇う」には二種類があり、一つ目は「直接目と目で出遇うこと」、二つ目は「聞いて出遇うこと」です。親鸞聖人は、二つ目の「聞いて出遇うこと」を非常に大切になさっていました。
この「聞いて出遇う」ということについて、具体的なエピソードをご紹介くださいました。
亡くなられたご主人のお葬式をたった一人でなさったご婦人のお話です。お葬式に行かれた南條先生は、参列者が誰もおられず、ご婦人が一人ぽつんと座っておられる光景に驚かれました。
そのご婦人は、「両親も亡くし、唯一であった主人も亡くし、いよいよ本当に一人ぼっちになってしまいました」とうなだれ、「悲しくて、寂しくて、どうしようもありません」とお気持ちを打ち明けられたそうです。先生は、ただただ黙って聞いているしかありませんでした。
でも、そのあとに、そのご婦人の口から出てきた言葉は、「一人だけれども一人じゃない」という言葉です。ご婦人は、「ここにはもう主人はいませんが、いつでも亡くなった主人の心を聞いて出遇っているから一人じゃありません」とおっしゃったそうです。「ご主人の心を聞いて出遇っている。だから寂しいけれどひとりぼっちじゃありません。」と、おっしゃったのです。
このお話から、私たちが、阿弥陀さまのお心と出遇うことも同じであることを学ばせていただき、「聞いて出遇う」という意味を深く理解させていただきました。
そのあと、次のように続けられました。阿弥陀さまのお心を「大悲心」と言います。「大悲心」の悲とは、あなたを慈しむという慈悲の心です。阿弥陀さまという仏さまは、あなたの苦しみをわが苦しみとして、いつでも、どこでも引き受けてくださるお方です。
私たちは、一人ぼっちだと感じて苦しむことがありますが、決して一人ではなく、阿弥陀さまがいつも私たちの心の中で私たちの気持ちに寄り添ってくださっているのです。
そして、このことをわかるようにしてくださったのが、親鸞聖人なのです。
もう一つ、エピソードをお話いただきました。それは、南條先生の留学時のお話です。これからの僧侶は、英語でお説教をしなければならないと考えられた南條先生は、1年間、アメリカのカリフォルニア州バークレーで留学生活を送られました。
大きな夢を抱いて留学されたのは良いですが、あまりの英語で話すスピードの速さについていけず、早く日本に帰りたいと思い続けておられたそうです。その時、日系のシバタさんという女性が、たいそう優しくしてくださり、いろいろとお世話をしてくださいました。南條先生よりも、だいぶ年は上だったのですが、もしかして、好意を抱いているのかなと思うくらい優しく接してくださったようです。
実は、そうではなく、シバタさんのお爺さんとお婆さんは日本人でこの日本にお住まいでした。小さい頃、シバタさんはよく日本に来られていたようですが、日本語の飛び交う中で、何もわからないけれど愛想笑いをしていた幼い頃の経験がありました。
ちょうど、南條先生が、何を話しているのかさっぱりわからないけれど、適当にわかったような顔をして、愛想笑いをしながらその輪の中にいる姿が、シバタさんの幼い頃の体験と重なったのです。あなたの気持ち、私のことのようによくよくわかるよ!と寄り添ってくださったのでした。
実に、いつでも、どんなときでも、あなたの気持ち、我がことのように、私たちに寄り添ってくださっている阿弥陀さまのお心がそこにあるのです。
私たちは、日常生活の中で、悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければなりません。そんな私たちに、お釈迦さまは「必ず救い取るぞ」の阿弥陀さまのご本願をお説きくださり、人がひととして生きる道をお示しくださいました。
その教えを受けて、真実の人生を歩まれた親鸞聖人は、阿弥陀さまのご本願を聞きひらいた時、自己を真摯に見つめ、かけがえのない「いのち」を大切に生きていく道が開かれてくると教えてくださいました。
龍谷大平安の3年間・6年間は、みなさんの心に「思いやりの心」を育て、「自制・協力・調和の心」を育む。そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいというのが、龍谷大平安の願いであったのです。
そして、具体的な日常の心得として、「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけてきたのです。「IQ」や「偏差値」のような数字では表すことのできない大切なもの、それが、「EQ」、「こころの知性」、「こころ」です。この「こころ」を磨くことが、実は、仏教的なものの見方のできる人間に成長することです。
そのことに気づくことが、龍谷大平安で過ごしたことの意義でもあるのです。
これからの時代、人工知能(AI)あるいは人型ロボットの進化で、「人が生きていくこと」の意味が、改めて問われるようになってきます。だからこそ、人が人として生きる道について、それぞれが自らがしっかり考える必要性が問われてきます。こういう時代にあるからこそ、「EQ」(こころの知性)を磨く大切な修練の期間が龍谷大平安で過ごした学校生活だったのです。
みなさんは、これから、高校生からほとんどが大学生を経て、大人の社会に入って行かれますが、本当の意味で、目先の目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の大切さ、つまり、ありのままの自分を見つめ、しっかりと「こころの進歩」を意識して、そういう生き方を心がけて日々精進してくださることをお伝えして私の式辞といたします。