4月16日(月)午後4時から本校礼拝堂において御命日法要が営まれました。私にははじめての経験でしたが、本当に大勢の先生方がお参りになりました。
申し上げるまでもなく御命日法要は、親鸞聖人のご命日に営まれるもので、聖人の御命日1月16日(旧暦11月28日)により、龍谷平安では毎月16日前後に法要を勤修させていただいております。
御法話は、副校長 燧土勝徳 先生で、そのお話しになった内容の一部を、お許しをいただいて紹介させていただきます。
□ よく、私たち真宗では、なぜお祈りしないのか?と尋ねられますが、平安では、「お祈り」という言葉は基本的に使いません。それは、浄土真宗は「祈りなき宗教」だからです。私の方から祈って救われるのではなく、阿弥陀さまの方から「悩み苦しむあらゆる人々を救いたい」と願われ、そのおはたらきによって、私が救われていくところに、浄土真宗の真髄があります。
自分の生き方や考え方について、常に「これでいいのかな」と自分を省み自分を見つめることを繰り返すのが本来の仏教です。「病気が治りますように」とか「試験に合格しますように」と、自分の欲望を仏さまに押しつけるような行為は、仏教の因果の道理からもありえないことです。ですから、浄土真宗は自分勝手な祈りを説かないのです。
□ あるお寺の幼稚園児が、「ぼくの家は給食費を払っているから、いただきますなんて手を合わせなくてもいいんだ」と言って、幼稚園の先生を困らせたそうです。
園長である住職さんは、「この子のお母さんは大学を出ていますが、最近は大学までにこんなことさえも学ばないんですね。よくよく考えたら、実は私たち一銭も払っていないんです。確かにお金を払ってますが、それはお米やお魚、お肉を扱う人間の手間賃と経費です。私たちは、豚さんたちには一銭も払ってません。海に行ってお魚に餌をやっていません。だから、ごめんなさい、あなたのいのちを殺して、いただきます、と言うのです」と教えてくれました。
お金を払えば都合のままに殺していい、と言うのなら居直りです。「ごめんなさい」と謝らなければならないのは私のほうです。仏さまのみ教えに生かされるとき、「いただきます」「ごめんなさい」という生き方が恵まれるのです。
□ さて、本校創立140周年の時の記念品として、折り畳み傘を用意いたしました。その記念品に「思いやり(慈悲)の傘」という栞を添え、そこにこう記しました。
「おかげさまで~140周年~ありがとう〝感謝〟」
突然の雨、困っている人にそっと差し出すやさしい心、そんな「思いやりの心」を育みたいというのが、平安の願いです。そこで、龍谷大学付属平安高等学校・平安中学校の創立140周年を記念し、「感謝」の気持ちを込めてこの記念品”思いやりの傘”をお贈りさせていただいたのです。
それぞれが私にとりましては本当に心にしみとおる御法話でした。
※ 朝、通勤のとき、七条通に面した興正寺さんのお庭に咲きほこる「牡丹」の大輪を見つけました。「牡丹」の西洋での花言葉は Compassion"おもいやり”です。