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報恩講を勤修いたしました! 2020年01月17日(金)14時11分

1月17日(金)午前10時から、本校は、本館講堂において、報恩講を勤修いたしました。

開 式 の 言 葉
1 「行事要文」
2  献灯・献華
3 「敬礼文・三帰依」
4 「さんだんのうた」 ※焼香(校長、生徒代表)
5 「念仏」
6 「報恩講の歌」
7  法話- 伊東 順浩 先生(浄土真宗本願寺派布教使) 
8 「恩徳讃」 
9  合掌・礼拝
閉 式 の 言 葉

報恩講とは
 浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、1173年に誕生され、波乱に満ちた生涯にあって多くの人々にお念仏の教えをひろめられ、90歳でお浄土に往生されました。聖人の遺骨は京都大谷(東山五条・大谷本廟)に納められ、聖人の遺徳をしのぶ人々の聞法の集いがもたれるようになりました。親鸞聖人が活躍されていた当時、念仏の教えを喜ぶ人々の間では、その師匠である法然聖人のご命日に「二十五日のお念仏」として念仏の集会が行われていました。親鸞聖人が亡くなられたあと、聖人を開祖として仰ぐ人たちが、それを親鸞聖人のご命日にあらため、法縁にあずかっていたのです。その後、本願寺第三代宗主の覚如上人〈かくにょしょうにん〉は、聖人の三十三回忌をお勤めするにあたり『報恩講私記〈ほうおんこうしき〉』を著され、「報恩講」が営まれるようになりました。
 報恩講とは親鸞聖人の教えによって、阿弥陀如来の教えに遇わせていただいたご恩に対して感謝の心をもって、聖人のお亡くなりになった日を機縁に聖人のご遺徳をしのぶ行事です。この報恩講とは浄土真宗において最も重要な行事となっています。
 親鸞聖人のご命日は旧暦11月28日ですが、本願寺では新暦に改め、1月16日とし、1月9日から16日までの間、報恩講が行われています。

親鸞聖人のご生涯
写真 親鸞聖人は1173年(承安3)に京都日野の里に誕生されました。父は日野有範〈ひのありのり〉、母は吉光女〈きっこうにょ〉といいます。親鸞聖人9歳の春、青蓮院で慈円僧都〈じえんそうず〉のもと得度し、「範宴〈はんねん〉」と名乗り比叡山に登ります。比叡山で勉学と修行に打ち込むのですが、修行を積めば積むほど、学問に励めば励むほど、自己の煩悩の深さを知り、修行の限界を感じた親鸞聖人はついに比叡山を下りることに決めました。山を下りた親鸞聖人は六角堂に100日通うことを決心され、95日目に夢告を受けて東山吉水で専修念仏(「南無阿弥陀仏」と称えることによって救われる)を説かれている法然聖人に会われ、法然聖人のお弟子になりました。そこで名を改め、「綽空〈しゃっくう〉」や「善信〈ぜんしん〉」と名乗られました。
 1207年(承元元年)の念仏弾圧「承元の法難」は、専修念仏を禁止し、法然聖人を四国へ、親鸞聖人を越後へと流罪にし、そのほかに四人の念仏者を死罪とする非常に厳しいものでした。親鸞聖人は越後に流され、1211年(建暦元年)に解かれましたが、すぐに京には帰らず、関東に移られ約20年伝道生活(教えをひろめる活動)を送られました。この地で親鸞聖人は、浄土真宗の教えの要が説かれた『教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉』を起筆されました。完成は京に帰られてからで、20年以上の歳月をついやされました。
 1262年(弘長2年)11月28日(新暦では1月16日)、京都市右京区にあった弟の尋有の坊舎(現在の角ノ坊別院)で90年の波乱に富んだ生涯を閉じられ、往生されたのでした。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし