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報恩講を勤修いたしました! 2022年01月13日(木)16時14分

13日(木)午前10時より、本館講堂にて「報恩講」を勤修させていただきました。新型コロウイルス変異種オミクロン株感染症急拡大の中ではありましたが、高校1年生のみが十分なディスタンスを確保して参列し、中学生・高校2年生はそれぞれのホームルームにてリモート中継で参加いたしました。

[式次第]

開式の言葉
1 「行事要文」
2  献灯・献華
3 「敬礼文・三帰依」
4 「さんだんのうた」 ※焼香(校長、生徒代表)
5 「念仏」
6 「報恩講の歌」
7  法話 - 鴬地清登先生(浄土真宗本願寺派布教使) 
8 「恩徳讃」 
9  合掌・礼拝
閉式の言葉

[報恩講について]

写真浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、1173年に誕生され、波乱に満ちた生涯にあって多くの人々にお念仏の教えをひろめられ、90歳でお浄土に往生されました。聖人の遺骨は京都大谷(東山五条・大谷本廟)に納められ、聖人の遺徳をしのぶ人々の聞法の集いがもたれるようになりました。親鸞聖人が活躍されていた当時、念仏の教えを喜ぶ人々の間では、その師匠である法然聖人のご命日に「二十五日のお念仏」として念仏の集会が行われていました。親鸞聖人が亡くなられたあと、聖人を開祖として仰ぐ人たちが、それを親鸞聖人のご命日にあらため、法縁にあずかっていたのです。その後、本願寺第三代宗主の覚如上人〈かくにょしょうにん〉は、聖人の三十三回忌をお勤めするにあたり『報恩講私記〈ほうおんこうしき〉』を著され、「報恩講」が営まれるようになりました。
報恩講とは親鸞聖人の教えによって、阿弥陀如来の教えに遇わせていただいたご恩に対して感謝の心をもって、聖人のお亡くなりになった日を機縁に聖人のご遺徳をしのぶ行事です。この報恩講とは浄土真宗において最も重要な行事となっています。
親鸞聖人のご命日は旧暦11月28日ですが、西本願寺では新暦に改め、1月16日とし、1月9日から16日までの間、報恩講が行われています。

[親鸞聖人のご生涯]

親鸞聖人は1173年(承安3)に京都日野の里に誕生されました。父は日野有範〈ひのありのり〉、母は吉光女〈きっこうにょ〉といいます。親鸞聖人9歳の春、青蓮院で慈円僧都〈じえんそうず〉のもと得度し、「範宴〈はんねん〉」と名乗り比叡山に登ります。比叡山で勉学と修行に打ち込むのですが、修行を積めば積むほど、学問に励めば励むほど、自己の煩悩の深さを知り、修行の限界を感じた親鸞聖人はついに比叡山を下りることに決めました。山を下りた親鸞聖人は六角堂に100日通うことを決心され、95日目に夢告を受けて東山吉水で専修念仏(「南無阿弥陀仏」と称えることによって救われる)を説かれている法然聖人に会われ、法然聖人のお弟子になりました。そこで名を改め、「綽空〈しゃっくう〉」や「善信〈ぜんしん〉」と名乗られました。
1207年(承元元年)の念仏弾圧「承元の法難」は、専修念仏を禁止し、法然聖人を四国へ、親鸞聖人を越後へと流罪にし、そのほかに四人の念仏者を死罪とする非常に厳しいものでした。親鸞聖人は越後に流され、1211年(建暦元年)に解かれましたが、すぐに京には帰らず、関東に移られ約20年伝道生活(教えをひろめる活動)を送られました。この地で親鸞聖人は、浄土真宗の教えの要が説かれた『教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉』を起筆されました。完成は京に帰られてからで、20年以上の歳月をついやされました。
1262年(弘長2年)11月28日(新暦では1月16日)、京都市右京区にあった弟の尋有の坊舎(現在の角ノ坊別院)で90年の波乱に富んだ生涯を閉じられ、往生されたのでした。

[行事要文]

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、弘)長2年11月、お浄土に往生なされた。90歳というご高齢であった。その90年のご生涯は、口では言い尽くせないほどの、苦難)と波乱に満ちた、ながい人生の旅であった。
9歳で出家されてより、比叡山での厳しいご修行、法然聖人との出遇いと念仏法門への信順、念仏停止の令による越後への流罪、関東での伝道生活、晩年、京都へお帰りになってからの著述の明け暮れ、その間、結婚して家庭をもたれ、妻を愛し,子どもを育て、人間親鸞としての人生を歩まれながら、お念仏を喜ばれたのであった。そして、すべての人々が皆(みな)、御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)として手を取り合い、差別のない、平和な世界をめざす道を説き示されたのであった。
 親鸞聖人のご生涯を偲ぶとき、私たちにとって忘れることのできない歌がある。それは、親鸞聖人がご和讃としてお作りになり、私たちが「恩徳讃」として唄っている歌である。
  如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし