平安会役員会 校長挨拶 平成24年6月4日(月)
平素は、役員・クラス理事のみなさまには、学園に対しましてご理解とご協力を賜り、誠にありがとうございます。心より御礼申し上げます。
さて、ご承知の通り、1876(明治9)年滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として産声をあげました我が学園は、先々週の月曜日5月21日で満136歳になりました。その誕生日をお祝いする式典とご開山親鸞聖人の降誕会を21日に執り行いました。
今日のご挨拶は、その際にご講話をいただきました浄土真宗本願寺派布教使苗村(なむら)隆之先生(知真保育園副園長)のお話を一部紹介したいと思います。
「会う」という手話がありますが、「あなた」と「わたし」が「会う」場合は、左右の人差し指を立てて、胸の前で近寄せます。では「阿弥陀様」と「わたし」が出会わせていただく場合は、「わたし」は胸の前に留めたまま、「阿弥陀様」は右手の人差し指を高くかざしたところから、胸の前の「わたし」に近づけるという動作になるようです。つまり、「阿弥陀様」に「わたし」の方から近寄っていくのではなく、常に「阿弥陀様」が私たちに寄り添ってくださるというように表すのです。次のような具体例を出して説明されました。苗村先生が保育士の新任研修に行かれた時、全研修生に園長先生が質問されました。あなたがクラス担任をしているとします。いつも、集合の合図をしても、遅れてくる子が一人います。その子を、何とか「集まれ」の合図の後、一番に集合させたいと思います。あなたならどうしますか。[Ans.その子の隣で集合をかける]です。常に、子どもの目線にあわせ、子どもの気持ちに立って対応するということです。それが、保育士としての「いろは」の「い」です。というお話しでした。
実は、教師の「いろは」でもあるのです。決して、生徒に迎合するということではありませんが、「阿弥陀様」のように、「わたし」が「子どもたち」に目線をあわせ、寄り添うことの大切さをあらためて感じさせていただきました。
最後に、今月の言葉を紹介させていただきます。今月の言葉とは、毎月月初めに各クラスに掲示されますもので、宗教教育係が正門のところの聖語板に書かれる今月の聖語と一緒に示されるものであります。六月の【今月の言葉】は
いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。
この文章は、浄土真宗の第八代門主の蓮如上人が著した『御文章』に書かれている内容です。『御文章』とは、本願寺第八代蓮如上人が、親鸞聖人のみ教えを、誰にでもわかりやすくしたためられた御消息(お手紙)です。寛正二年(1461年、上人47歳)頃からのご製作と伝えられています。
乱世において生命の危機におびえる人びとに対し、ただ阿弥陀仏におまかせする一念の信心によって、老若男女を問わず在俗の生活のままで救われるという、浄土真宗のみ教えを平易に説き示して、誰でもが信心の喜びに生きるよう、心から念願されています。
のちに第九代実如上人は、特に大切なものを五帖(八十通)に編集されました。
この「いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。」は、白骨章(五帖目第十六通)に示されているのですが、宗教教育係が、生徒たちにわかりやすく次のように説明をしております。意味は「いまだ人が一万年の寿命を受けたということを聞かない。一生はすぐに過ぎてしまう。」ということです。「一生過ぎやすし」と言われたところで、ピンとこないかもしれませんね。しかし、身近なところで考えてみると今日から六月に入ります。一年生にとっては新入生として新たな生活がスタートして二ヶ月が過ぎました。二年生・三年生も学年がかわり、二ヶ月が過ぎました。早いものだと感じませんか。みなさんの日常の中にも「もう過ぎてしまったか」と実感できる場面がきっとあるはずです。その延長にあるのが「一生過ぎやすし」なのではないかと思います。私たちのいのちには限りがあります。一万年の寿命もありません。限られたいのちを日々精一杯生きることの大切さを教えられているように感じます。平安学園の三つの大切に「じかんを大切に」があります。日々の過ごし方を一度見つめ直してみてください。と、説明しております。
このように本校では、色々な場面で、また、授業を通して情操を培っています。その中で、何と言っても、毎朝、各学年毎に講堂で行われます仏参は、全教職員が講話の講師にあたり、子どもたちの心に自然にしみ込ませています。
心を開いてものを見ることができるように、宗教的なものの見方ができるように、子どもたちのそんな人格形成、人間づくりに、保護者のみなさまと学校とがしっかりと連携をとってまいりたいと存じますので、今後とも一層のお力添えを賜りますようお願いいたしまして私の挨拶とさせていただきます。