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仏参講話(10月) 2013年10月16日(水)10時22分

2013年10月 仏参講話(中学生・高1・高2・高3対象)

 おはようございます。
 後期始業式でみなさんには、日々の生活習慣を整えて心に余裕を持つことをお願いしました。その中で五つの言葉とその心を話しました。「すみません」反省の心、「はい」素直な心、「おかげさま」謙譲の心、「私がします」奉仕の心、「ありがとう」感謝の心ですが、みなさんが普段あまり使わない「おかげさま」の心について、今日はお話しいたします。
 「座右の銘」という言葉を知っていると思います。直訳すると「自分自身を知り、自分自身であり続けること」となりますが、一般的には、「常に自分の心に留め置いて、戒めや励ましとする言葉のこと」を言います。結局、向き合うべきは、自分自身の内側ということになります。そして、そのときに、自分自身と向き合いなるべき自分になろうとすることを邪魔する心の中にあるものが、煩悩なのです。
 我々人間は、常にたくさんの煩悩を抱えて生活しています。大晦日、除夜の鐘で撞かれる108回が人間の煩悩の数ですが、この数は、最小は3、一般に108、最大は64000とも言われます。いずれにせよ、この世に生まれてくる前、そして現在、未来までを含めて、我々の心や体を通して生まれてくる煩悩の数は、それほどまでにもたくさんあるということなのです。
 この最小の3つというのが、「貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚癡(ぐち)」という3つの煩悩です。いずれも、苦しみの原因となる悪玉で、三毒の煩悩と呼ばれています。
 「貪欲」とは貪りの心のことで、なんでもかんでも自分のものにしたいと思う欲望です。欲しかったものを手に入れることで欲望は満たされますが、それは一時的なもので、すぐに、次の新しいものが欲しくなってしまい、際限がありません。また、「瞋恚」とは怒りの心のことで、自分が嫌なものはなるべく遠ざけておきたい、それができない状態にイライラしてしまう状態です。そして、「愚癡」とは、無知の状態を言います。苦しみの原因が物事への執着であることを知らず、ひたすら貪ったり、自分の思いどおりにならないことに怒りの感情を表したりする状態そのものです。
 そんな煩悩の中でも特に厄介なものが怒りです。怒りは自分が認めたくないもの、寄せ付けたくないものを振り払おうとすることから起こります。でもなかなか振り払えるものではないですから、怒りの感情はさらにエスカレートしてしまいます。怒りっぽい人とは、「自分が正しい」という思い込みが強く、また、それ以外は受け入れまいと常に警戒している人です。逆に、怒りの感情をうまくコントロールできる人は、たとえ、自分が正しい考え方を持っていたとしても、それだけが正解ではないということをちゃんとわかっており、他人の考え方も積極的に受け入れようと、心をひらいている人ではないでしょうか。怒りという感情からは、どちらかというと暴力的な働きかけをイメージしてしまいますが、実はそうではなく、その人自身の弱さの表れです。その弱さを見せまいと、虚勢を張っていることが多いものです。
 仏教では、自尊心が強い状態のことを「慢」と呼び、煩悩であると説きます。高慢、傲慢、慢心という言葉がありますが、「慢」とは自尊心が強い、プライドが高いことを指し、仏教のものの見方でも、これは非常に恐ろしいこととされています。自分にこだわり、自分が正しい、自分が優れているとする生き方ほど、恐ろしいものはありません。それは、やがて、わが家が正しく優れている、また、わが国は正しく優れているという考えに通じます。そのプライドが傷つけられると怒りが生まれ、他人を見下すだけでなく、他人を攻撃することにつながります。
 人間というのは、自分が一番好きなものです。これは、自分以外の人も同じです。かといって、誰もかれもが自分にこだわり、自分を主張して一歩も譲らなかったとしたら、世の中はいったいどうなってしまうでしょうか。自分が正しい、優れているというのは、相手があり、その相手から認めてもらわなければ成り立ちません。正しいとか正しくないとか、優れているとか劣っているとかいうことは、それ自体が自分勝手な思い込みに過ぎないのです。自尊心が強い、プライドが高いということは、誰か他の人の存在なくしては、保つことさえできません。常に正しく、誰よりも優れているというのは、この世にもし自分一人しかいなかったら、決して感じえない感覚なのです。
 「自分が、自分が」というところから離れ、「おかげさま」という気持ちを持つことの大切さをお話しまして、本日の仏参の話を終わります。