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平成26年 修正会〔しゅしょうえ〕 2014年01月06日(月)17時00分

平成26年 修正会〔しゅしょうえ〕
                2014(平成26)年1月6日 午前10時~ 於、礼拝堂
学 校 長 法 話

新年あけましておめでとうございます。
今日は、2013(平成25)年8月1日(木)の「本願寺新報」に掲載されていた内容をご紹介し、「生きるということ」について考えてみたいと思います。
 みなさんと一緒に、自分のいのちを見つめてみましょう。阿弥陀さまやお浄土の温もりが伝わってきます。
では、どこから来たのかわからないけれど、生かされ、支えられているこの私のいのちは、いったいどこへ向かっているのでしょうか。「独りで生まれ、独りで死んでいく」という言葉が『仏説無量寿経』というお経にあります。家族や友だちに囲まれてワイワイガヤガヤと過ごし、永遠にずっと生きていたという私の思いが、必ず打ち砕かれることを教えてくださる言葉です。たったひとり、何もわからずに生まれてきたように、この世の縁がつきたならば、死んでいかなければならない。それが私という存在です。死んでいかなければならないのですが、その日がいつのことなのかはわかりません。スケジュール帳に自分の死ぬ日は記せません。できればずっと遠くに追いやっておきたい、いや書きたくないのですが、なかなか思うようにはいきません。必ず死はきます。この世の縁がいつ終わるかわからないまま、日々を慌ただしく過ごしているのが私です。その死というものに「おそれなくても大丈夫だよ」と知らせてくださるのが阿弥陀さまです。
 阿弥陀さまは私に、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」すくい取って決して捨てないと、はたらいてくださっています。どこからやって来て、どこに行くのかもわからない私に、必ず浄土に生まれさせると願われ、はたらいてくださっているのが阿弥陀さまです。その願いは「ナモアミダブツ」のよび声となって、私にはたらいてくださっているのです。このいのちの問題の解決を、お寺に行き、聞法・聴聞するのです。
それでは、私のいのちはどこから来たのでしょう。
 自分の幼い日の話をする時、「私が物心ついた頃」という言葉をよく使いますね。多くの人にとって自分の記憶の最も古いことは、この「物心がついた頃」ではないでしょうか。その物心ついた頃のことでも、いざ思い出そうとするとあやふやになってしまいがちです。
 もっといえば、私が母親のお腹にいた頃、そして「オギャーッ」と生まれてきて、自然に母乳をもらって育った頃など、記憶にはありません。つまり「物心ついた頃」よりもっと前から、私のいのちがありました。
 ですから、物心がつくまで私のいのちがどのように成長したのかということや、私のいのちがどこから来たのかということは、正直いって自分ではわからないのです。もっといえば、私のいのちは私以外の人に支えられてきたいのちであるのです。
 今、生活している毎日を振り返ってみましょう。私たちは、食事をしなければ生きていけないように、1日たりとも他のいのちをとらずには生きていくことはできないいのちです。私のいのちは、多くのいのちとみなさまのおかげによって存在するいのちです。
 食事だけではありません。普段、私は何気なく生活していますが、その一つ一つを「ご縁」という仏教の目で見ると気付くことがたくさんあります。多くのおかげがあり、生かされている、支えられている私のいのちだったのです。
次に、浄土に生まれるとはどういうことなのでしょうか。どこか違う場所に生まれるということでしょうか。
 浄土に生まれるということは、生きとし生けるものすべての幸せを実現するために活動する、智慧と慈悲をそなえた「仏」になるということです。そんなことが私にできるのでしょうか。だっていつも私は、自分を中心にして「あの人は好き」「あの人は嫌い」「あの人はいい人」「あの人は悪い人」などと分別しています。実は「愛」も「憎しみ」も同じこと、自分を中心にして考える中で生まれる心なんです。その愛憎にゆれる心を転換させ、自分の利益しか考えなかった私を、智慧と慈悲の仏に転換すること、それが浄土に生まれるということなのです。
 浄土真宗では、「自分で仏になりなさい」とはいいません。だって、自分の心の中を見ると、とてもとても無理なんですから。その私の救いを実現させようと、阿弥陀さまはさとりの世界、つまり、お浄土から迷いの世界に「ナモアミダブツ」のよび声となってはたらきかけ、私たちをさとりの世界へと生まれさせてくださるのです。これが浄土真宗でいう「本願他力」です。その世界に生まれると即座に、智慧と慈悲が完成され、苦しみ迷っている人を救い続ける仏に転換するのです。つまり、その世界に生まれて初めて成仏するのです。
我々がいつも申しております、手を合わせることの大切さからはじまり、今日は、私の「今を生きる」いのちについて考えてきました。
 それでは、浄土への道を歩むことと「今を生きる」ということは、どう関係するのでしょうか。
 今まで自己中心のものの見方しかできず、迷い苦しんでいた私たちが、阿弥陀さまのはたらき、これを本願力と言いますが、この本願力を聞き、浄土への道を歩ませていただいていることは、自己中心の人生観を少しずつ方向転換していくことです。阿弥陀さまの慈悲の光に照らされるということは、阿弥陀さまと真逆な生き方しかできない自分の姿が知らされるということです。
 阿弥陀さまの本願の中に「わが国に生まれるとおもいなさい」とあるのは、私はひとりで寂しく死んでいくのではなく、阿弥陀さまのさとりの世界である浄土に生まれていくことだと思いなさいという意味です。この願いを聞く時がそのまま、阿弥陀さまのはたらきにしたがって私が方向転換させられる時なのです。
 自己中心の人間の考えや行動は、「私の思い通りになる人生」を限りなく求めていくことにほかなりません。でも、「実はそれが一番私を苦しめているのですよ」と、阿弥陀さまは気付かせてくださるのです。阿弥陀さまはこの自己中心的な考え方を、人々の幸せを願うことに少しずつ転換していきなさいと、わが親のように私を育ててくださるのです。
 私たちは手を合わせることで、自己中心的な私に気付かされる道を教えていただきます。ぜひご家庭においても、お仏壇に向かい合掌・礼拝をしていただきたいと思います。
 家庭では、一番近くにいる家族だからこそ、つい言い過ぎたりして相手を傷つけてしまいがちです。でも、この家庭こそが、私という存在を教えてくれる場所でもあり、阿弥陀さまの慈悲のこころをいただき生活する道場でもあるのです。今を生きる私の人生は、阿弥陀さまの真実を確かめていく道、阿弥陀さまのよび声を聞き、仏となる道なのです。と考えると、浄土へ向かう人生は、今を生きることと深くつながっているということであります。
 本年も宜しくお願い申し上げます。

                龍谷大学付属平安中学高等学校 校長 燧 土 勝 徳