学校長式辞
春のお彼岸を目の前にし、校庭の紅梅も見事に花を咲かせ春の訪れを感じる今日の佳き日、龍谷大学付属平安中学校の第71回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部部長 白川了信様、龍谷大学副学長 藤原直仁様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、平安同窓会、親和会・保護者会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。
卒業生141名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
さて、みなさんは3年前、小学校を卒業してまだあどけなさが残る1年生として平安の門をくぐられました。入学式の式辞では、みなさんに「大きなことでなくてもいい。人は、日常のささやかな行いによって、喜びの種をまき、花を咲かせることができる」という、お釈迦さまの教えを話しました。
そして、式辞の最後には、金子みすゞさんの詩を紹介いたしました。
よそから来た子は/かわいい子、/どうすりゃ、おつれに/なれよかな。
おひるやすみに/みていたら、/その子は桜に/もたれてた。
よそから来た子は/よそ言葉、/どんな言葉で/はなそかな。
かえりの路で/ふと見たら、/その子はお連れが/出来ていた。
どうして友達になろうか、それぞれの育った環境も言葉も違うから、どんな言葉で話せばいいだろうか、という不安もあるかも知れませんが心配はいりません。ふと見たら、お連れが出来ています。どうか、心が喜ぶ素敵な言葉を使って、優しい思いやり溢れる言葉を口にしてください。このことを心がけていただければ、素晴らしい友、仲間が自然と出来ます。と申しました。どうでしたか?
今年は、141名の生徒がいてくれましたので、昨年の12月から約3ヶ月間にわたり、数分間の面談をいたしました。平安中学の3年間を振り返り、今の気持ちは?という質問をさせてもらいました。みなさん、口を揃えて、「楽しかった」「最初は心配だったけど良い友達ができた」「充実していた」「成長できた」と言ってくれました。中には「色々あったけど…今となってはいい思い出です」と言う生徒や「三年間先生に迷惑ばかりかけてすいませんでした」という生徒もいました。
いずれにしましても、笑みを浮かべて「良き仲間に巡り会えた」「充実していた」そして「楽しかった」と言ってくれたことが、何より本当に心から嬉しく思いました。そして、みなさんの成長がうかがえました。ほんの数分でしたが、みなさんとのお話は本当に楽しかったです。みなさん一人一人の顔に、満足感や充実感が漲っていました。私の方から感謝の言葉を言わせてください。「本当にありがとう!」
さて、みなさんが、高校を卒業される時、同窓会からの記念品として『仏教聖典』をいただくのですが、その中に「ほとけの『おしえ』」について、記されている一節があります。
「第1章 第二節 不思議なつながり」と題された節に次のように記されています。
人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も 経験と知識とによって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。
花は 咲く縁が集まって咲き、葉は 散る縁が集まって散る。ひとり咲き、ひとり散るのではない。
縁によって咲き、縁によって散るのであるから、どんなものも、みなうつり変わる。ひとりで存在するものも、常にとどまるものもない。
という仏教の根本の教え、つまり、「縁起(ご縁)」ということ、「無常」ということが記されています。
龍谷大平安では、こうした宗教教育を育んでまいりました。その宗教的情操教育が少なからずみなさんの心に培われたことが、先月2月20日の本願寺新報『宗門校に学んで』に掲載された記事からうかがえます。それは、本校高校3年生の「世は無常 怠りなく努力」と題した文章で、次のように記してくれています。
3年間を通してよく耳にしたのは、「世は無常である。怠りなく努力せよ」という釈尊のお言葉。仏教の根本的な「無常観」を表している言葉です。
平安高校では仏参や宗教行事、教室に掲示された言葉などさまざまな場面で「無常」を意識することができました。そのおかげで自分の行動に意味や目的を持つようになり、本当に充実した日々を送ることができました。また、悩みを抱えている時や少し浮かれている時には、「永遠に続かない」と自分に言い聞かせ、前向きに進むことができたように思います。
これから大学生、社会人と自由に時間の使い方を選ぶことができるようになる前に、このような貴重な経験ができたことに感謝しています。卒業後も変わらず、充実した時間を自分で生み出すことができるよう、「無常」という考え方を念頭に置きつつ、怠りなく努力をしていきたいです。
と、このように綴ってくれています。実に龍谷大平安でみなさんが学んだ意義がここにあるのです。
龍谷大平安の3年間は、みなさんの心に「思いやりの心」を育て、そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいとの願いのもとに、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけてきたのです。
私たちの日常を見ますと、学校では多くの知識を増やして成績上位を目指し、会社に勤めると業績を上げてより高い収入と地位を目標とします。そのために、受験戦争など激しい競争社会を生み出してきました。
こうした学歴や出世、収入などは、他人と比較して外から見えるものです。でも、外から見えない「大切なもの」があります。自分の内にある「こころの成長」です。
「こころの成長」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉にもあるように、おのずから他人に対して謙虚になります。
私たちの日常は「すべて他人が悪い」と思い、人の「良さ」や「痛み」に心を向けることなく、自己中心的に暮らしています。「自分は間違っていない、すべて他人が悪い」と思い込んでしまいがちです。
しかし、自他のいのちを見つめはじめれば、自己中心的で傲慢な生き方が、「お陰さま」の中で暮らす柔らかな感謝の暮らしへと変わります。そして、自己を真摯に見つめたとき、自分自身のいたらなさを知り、素直な心と謙虚な心が芽ばえ、ここに「人」としての成長があるのです。
最後に、このあと、平安高等学校に進まれる人、他校へ進学される人がいますが、どうぞ、龍谷大学付属平安中学校で身につけた、素直な心と謙虚な心を持って高等学校でも頑張ってください。龍谷大平安が涵養したこの「こころ」を基盤にして、未来に羽ばたかれんことを心より念じ、私の式辞といたします。