子どものいのち ―人の育成― 安井大悟 (一部抜粋)
『私たちの道徳』から
児童生徒が道徳的価値について自ら考え行動できるようになることをねらいとして、『心のノート』から『私たちの道徳』へ改訂されました。この趣旨に照らして新しい教科書では、特に読み物部分を充実させ、〝重点化ページ〟へ導かれるような工夫が盛り込まれました。重点化を図る箇所は次の六点です
・規律ある生活ができ、自分の将来を考えること ─自分を深く見つめて─
・人間関係の理解 ―支え合い共に生きる─
・自他の生命の尊重 ─生命を考える─
・法やきまりの意義の理解 ─一人一人が守るべきものがある─
・主体的に社会の形成に参画すること ─社会に目を向け、社会と関わり、社会を良くする─
・国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けること ─日本人としての自覚をもっ て真の国際人として世界に貢献したい─
さらに、中学校用教科書には特設ページが加えられました。情報モラルといじめ問題に関してであります。情報モラルについては、情報化の進展に伴い顕在化してきた問題の重大性からであり、「情報化社会の光と影」と題されています。いじめ問題については、二〇一一(平成二十三)年十月に起きた大津いじめ自殺事件を受け、国は二〇一三(平成二十五)年、いじめ防止対策推進法を施行したのですが、いまだにいじめを根絶することはできていません。「どの子どもにも、どの学校でも起こり得るものであるが、人間として絶対に許されないことである」との意識を一人一人に徹底させねばならないという喫緊の課題です。「あなたの身近にいじめはありますか」と題されています。
ではここで、内容に踏み込んで考察してみたいと思います。はじめに、私がこの教科書の優れた内容に感心した箇所をあげましよう。重点化の三つ日にあたる章「生命を考える」の中にとりあげられた読み物資料で〝二人の弟子〟と題がついています。もう一つは重点化の四つ目の章「一人一人が守るべきものがある」の説み物資料〝二通の手紙〟です。
〝二人の弟子〟のあらすじは次の通りです。
仏門で修行する二人の若者、智行と道信は対照的な生き方をします。智行は寺の巌しい修行に耐え抜き僧侶になりました。道信は意志の弱さからか修行を投げ出し女性の元へ身を寄せたのですが捨てられ、結婚した妻も病気で亡くし自殺まで考えたが死にきれず寺に戻ったのでした。寺の住職である上人はそんな道信を許し、再び寺に修行僧として迎え入れます。智行には、上人のこの行為が理解できません。智行はいわば優等生です。しかし、自己にうち克つことができたと自分にうぬぼれを持ち、落ちぶれた道信を見下しているのです。一方の道信は修行に落ちこぼれ、人間臭く、自己の感情にはとても素直で人生の裏表も知り尽くした経験の持ち主でした。人間としての生き方を考えさせる機会を提供したこの読み物の、教材としての活用例はとても広いと感じました。
〝二通の手紙〟のあらすじはこうです。
主人公の元さんは動物園の入園係です。定年間際に、退職後も臨時職員として働かないかとの話が持ちあがったそんなある日、小学三年生の女の子が三、四歳の弟の手を引いて、閉園時刻を過ぎて入口に立ちます。今日は弟の誕生日だからキリンやゾウに会わせてやりたいと申し出ます。仕事一途に定年まできた元さんですが、この時ばかりは二人の子どもの要求を聞いて入園させます。
数日後に元さんに届いた手紙は子どもたちの母からでした。夫が病気に倒れ自分が働きに出たため、約束していた動物園に連れていってやれない状況の中、姉が貯めたお小遣いを握りしめ、弟の誕生日に訪れた動物園に入園させてくれた元さんへの感謝が綴られてました。子どもの心を察することが実際には規則違反にあたるという、社会のしくみや規則の持つ別の一面に気付かせる資料となっています。元さんは、懲戒処分を通告する手紙も一通受けとっていました。時刻を過ぎて大人の引率もなく入園させた点が処分にあたりました。指導資料には、敢えて、〝道徳的葛藤〟という表現がとられています。この資料も、どちらの側に立つかによってその行動評価が分かれる読み物であり、人間としての生き方について考える優れた教材です。
『心のノート』を教科書としていた時には自分自身の心の記録を残す、いわば心の成長過程を見つめる要素が強かったのに対し、『私たちの道徳』では授業展開の中で意見を出し合い、議論しながら多様な価値観の存在を知る機会を提供する時間へと変化していることを強く感じました。
実際の授業の中では自分がその立場に置かれた時、どのような道徳的価値観につき動かされ、どのような行動をとるだろうかを考え、意見を発表し、議論する、といった展開が目に浮かびます。この様子は今話題のアクティブ・ラーニングです。
ここで注意しなければならないと思うことを、二つ述べておきます。
一つ目は、どちらの側に立つかでクラスが二分され、ともに相手側の意見を尊重し、よき学びに導かれた場合は成果が期待できますが、少数意見が孤立を招き、多数派に迎合した方が生きていきやすいなと感じて持論をとり下げる、あるいは空気を読むことを身につけることにつながるケースです。これははたして、大人社会が多様な価値観の対立を受容し、誠実にそれぞれの価値観に向き合うといった状況にはないこと、さらに国家は、多数派に公共の利益を適用する流れを保守していることから窺えます。
二つ目は、教科化の先にある評価の問題です。
平成二十七年七月二十二日道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議報告をもとにポイントを四点に整理しておきます。
①数値評価ではなく、児童生徒の学習状況や道徳性に係る成長の様子を把握し、記述による評価を実施すること。
②他の児童生徒との比較による評価ではなく、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受けとめて認め、励ます個人内評価(児童生徒のよい点を褒めたり、さらなる改善が 望まれる点を指摘したりするなど、児童生徒の発達の段階に応じ励ましていく評価のこと)として行うこと。
③学習活動において児童生徒がより多面的・多角的な見方へと発展しているか、道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかといった点を重視すること。
④道徳科の学習活動における児童生徒の具体的な取組状況を、一定のまとまり(年間三十五時間の授業という長い期間)の中で見取ること。
とありました。教員が児童生徒を評価するということは申すまでもなく、可能な限り客観化した評価の基準とその運用方針を確定しておかねばならないものですから、評価する側の教員の負担が心配になりました。加えて仮に評価する教員側の資質が問われるような場面が起こった場合の懸念も拭えません。
いずれにしても教科道徳では、多様な見方や考え方を尊重しながら心と体の調和のとれた人間育成をめざす指導法の工夫について教材研究することと、道徳的課題にそれぞれの子どもが真摯に向き合い、自らの価値観を形成していく過程を評価することが求められるのです。ゆめゆめ人物評価に陥らないよう留意すべき教員の負担は、相当なものであることは想像に難くありません。
―道徳教育と宗教教育─
なぜ道徳教育はこのように変化してきたのでしようか。理由は簡単です。道徳教育は時代とともに、国家体制とともに社会の変化に応じて、場合によっては為政者により変化する性質のものだからです。〝忠義や孝行〟はかつて日本の道徳における基本的徳目でありました。今や死語に近いといったら言い過ぎになるでしようか。教育の指導要領が変わり、教育内容が変わり、教育法も変わり道徳教育も変化するのです。道徳教育と宗教教育は、依って立つところが全く違いますので、相容れない場面が現実のものとなります。その特徴的なものを挙げます。
生命の扱いに関してです。『私たちの道徳』の重点化の三つ目「生命を考える」の章に生命を「偶然性」「有限性」「連続性」の三つの観点から捉える、が出てまいります。この三つの観点は『心のノート』の教科書から踏襲されてきたわが国の道徳教育における生命の捉え方だろうと思っています。
生徒たちに生命のかけがえのなさを語りかけ、自らの生命を愛しみ、他者の生命を尊び、あるいは生き物の死に涙する。生命を尊ぶという人としての感情を、ここでしっかりと胸に刻み直したい(指導資料より)
とあります。まず「連続性」に関して考えてみます。
家族との結びつきや脈々と続くであろう生命の環の一つである(指導資料より)
との立場に立ちながら「偶然性」と「有限性」の観点が出てくるところに、私は違和感を抱きました。そこで、この違和感はどこから生じたものかを考えてみました。それは宗教心からだとわかりました。私たち宗門校では、宗教的情操を涵養する教育を建学の精神に据えていることはこれまでにも述べてきたところです。「生命」を考えることは宗教心ととても深く繋がっています。とりわけ仏教における「生命]の受け止め方について、素晴らしい文章に出会いましたので紹介いたします。
生命(いのち) いのち。寿命。生物を生物たらしめている原動力。物事の最も大切な部分という意味が生命という言葉にはあります。しかし、最近、「いのち」と「生命」を使い分けることが多くなりました。どういうことかといいますと、「生命」という時は、この肉体を肉体たらしめている原動力ということで、この肉体がこの世に存在している間に限定して使っているのです。これに対して、「いのち」という時には、肉体がこの世に誕生する前の過去、この世に存在する現在、この肉体が消滅した未来を貫いて、私を私たらしめるものという意味です。私という存在は、この世に肉体がある時だけの存在ではないのです。この世に肉体がある時だけの存在ということになりますと、無から私という有が誕生し、私という有が無になるということになります。私にはわからないだけで、私は私として過去にも未来にも存在するのです。それが「いのち」という考え方です。(仏教伝道協会 沼田智秀会長 心のかけはしカード№320より)
真宗大谷派(東本願寺)が、親鷲聖人七五〇回御遠忌のテーマに掲げたスローガンは、端的に「いのち」を受け止めておりました。
今、いのちがあなたを生きている
です。とっても明解ですね。沼田会長の言葉をお借りするなら、私の目には見えない、わからない部分の連続性(脈々と続くであろう生命の環の一つ)を、さらに深めていける授業展開が宗教の時間だからこそできるような心強さを覚えました。真宗大谷派のスローガンは、私に与えられた今という瞬間の大事さ、加えて現代人のいのちの私有化に対する警鐘を、易しい言葉で語りかけていると思います。
ところで三つの観点の残る二つ、「偶然性」「有限性]でありますが、宗教的情操教育の立場から、「必然性」「無限性」と教えたいと思います。全く正反対の捉え方になりますので解説しておきます。
道徳教育では「今、自分がここに生きていることの偶然性」を説きます。「星の数ほどの偶然があって、私が今ここにいることの不思議」と語られるのです。宗教教育、特に仏教の立場では全く偶然ではありません。因縁生起を略して縁起といいますが、あらゆる存在は互いに関係しあっているという宇宙的真理から考えると、私が今ここにいることは「必然」なのです。
この縁起の道理は仏教思想の基本に据えられておりますから、「おかげさま」の感謝や[報恩」の奉仕が宗教的情操の具現化として生じてくるのであります。
さらに「いのち」を道徳教育では、「いつか終わりがあること、すなわち有限性」と捉えています。「自分の生命にもいつか終わりがやってくる。かけがえのない私の人生を輝かせて…」と続きます。宗教教育とくに仏教では、前述の沼田会長の言葉と真宗大谷派のスローガンをもう一度思い出してほしいのです。仏教では、私の身体の中を「無限のいのち」が今、私を生かして通り過ぎていくと考えているのです。肉体は私のものです。そして有限です。この肉体の有限性といのちの無限性を混同しない方がよいと思います。
─宗教的情操は─
前文〝はじめに〟で述べました通り、私たち龍谷総合学園では「人の育成」をめざしております。各加盟学園はそれぞれに建学の精神を謳っていますが、宗教的情操を涵養する教育目的が共通の心柱として貫かれているのです。さて情操ですが、「人の情的動きが最も安定した状態にあり、しかも持続できること。文化的、社会的価値を具えた複雑で高次な感情」との定義が示す通り、情操教育を受けることによって人間は、創造的で批判的な心情や、積極的自主的な態度、また豊かな感受性や自己表現力、および道徳的意識や宗教的な価値観などを養うことができます。すなわち、国が勧める道徳教育とは違った立場から、児童、生徒、学生に宗教教育ができることが我が宗門校の特微であり、私学としての宗門校の存立意義であります。
「他人に迷惑をかけてはいけない」これは、道徳教育に貫かれている社会生活上の基本徳目の一つでしよう。教科書『私たちの道徳』では、重点化四つ目の章「一人一人が守るべきものがある ─社会に生きる一員として―」に取り上げられています。「他人の迷惑を考えず自分勝手な行動をとる人ばかりになったら…」として、公徳心、社会連帯の大切さ、他者への配慮や思いやりが扱われています。
中学生が、社会の一員としての生活の仕方について自覚を深めるため法律やきまりの意義を理解し、社会の秩序や規律を高めるように努めようと教える箇所であります。また指導書には家庭ぐるみ一緒に話し合うことを勧め、社会全体に目を向けることが大切としています。他者への配慮や思い遣りのあふれる行為について、気付いたことを話し合おうと勧めているのです。異論など全くありません。道徳的にみて、社会のあるべき方向を示しています。道徳とは公の秩序です。人として守るべき行為の基準を示しています。人間社会の規範意識なのです。社会という集団の中で生きていくためには、お互いにそうありたいと思っておりますが、仏教的には全く違います。
私という存在は、この世で迷惑をかけずに生きていくことなどできないと考えるのです。そして、これが、ありのままの人間の姿なのです。そういう自分を知ることから仏数は出発しています。
宗教は宇宙の真理を追究している(『ほんとうの宗教とは何か 青の巻』ひろさちや著 ビジネス社刊)
と、ひろさちやさんの著書にあります。道徳的価値は、そういえば時代や国家体制の変化に伴い変わるのに対し、宗教的価値は不変ですね。確かに今から二五〇〇年前、お釈迦さまは人類誕生以来の真理をお悟りになり、人類に仏教を説いてくださいました。加えて、自己中心の心から離れることができずに迷い続けている私を、その私のままでお浄土へ導いてくださる仏さまのおはたらきがあると教えてくださった方が親鷲聖人でありました。
私は失敗ばかり繰り返す人間なのです。愚かさ弱さを持っています。「ありがとう」と言ってはまた迷惑をかける存在です。いい子になるために道徳教育が進められているようですが、いい子になれないのが私なのです。そういう私であることを認めて生きていくことを、「あるがままに私を見る」と言います。
「そんなに背伸びをしなくていいからね。私のありのままの姿をしっかり見つめよう」と宗教の時間に教えます。こういう視点を、仏さまの「智慧」から学びます。
「いじめ」が社会問題になっています。涙も出ないくらい苦しんで自死することを選んだ子どものほとんどが、「ボク、もうガンバレません。ありがとう。さようなら」と遺書に綴っているのです。なぜ、傍にいる大人はガンバレとしか言えないのでしようか。彼(彼女)はそんなに強い子ではありません。他者の痛みに同化し「辛いよね、悲しいよね」と一緒に涙する人が身近にいてくれたなら、自死を一つでも止めることができたかもしれないと思うのです。この心は、仏さまの「慈悲」から学ぶことができます。
前述の「縁起の理」からは無限のいのちを学びました。永い永いいのちの繋がりの中の今を担当している私のことです。多くのいのちに支えられ、他人にうんと迷惑をかけて生きています。迷惑をかけることでお世話になって、それでたくさんの人と繋がりを持っているじゃないですか。これを仏教では「縁」と言うのです。「ご縁ですね」と、ともに繋がって、ともに生きることを教えています。
あとがき
私の思いを述べて、まとめにかえます。道徳は「人は国家の構成要素の一つ」の概念が根底に据えられることで成り立つ教科なのだ、と最近私は考えるようになりました。それは、組織(集団)の中におけるコミュニケーションの大切さに言及し、最終的には、組織の中で一定方向に誘導され管理される結果になるのではないかとさえ感じています。「道徳は、強い人が弱い人を痛めつける道具」(前出同書より)とひろさちやさんは衝撃的な表現をされましたが、穿った見解だと思います。
宗門校は「一人ひとりの生き方に重点を置き、その人のいのちを通して世の中を見る」つまり、国家観の前に人間としての生、生きざまに目を向けるところから出発して、国民、国家のあるべき姿を考える教育を実践する学校なのです。人の育成が国民をつくり、国民があってはじめて国家があるという順序で教育を組み立てています。
例えば、後段でふれた〝他者への配慮や思いやり〟は、道徳だけでなく仏教においても崇高な行為なのであります。ただし、社会のためにとか誰々のために行為すべきではないという点で全く異なることを申しておきます。「無財の七施」や「三輪清浄」には、その行為者に一切のはからいがあってはならないことを前提にしています。しかも、自発的に行動できる心の持ち主の集まりにより社会が構成されることを理想とする立場なのです。
一、眼施 優しい眼で接すること
二、和顔施 いつも和やかにおだやかな顔つきで人に対すること
三、愛語施 やさしく思いやりのある態度と言葉を使うこと
四、身施 模範的な行動を身をもって実践すること
五、心施 他人のために心を配り、喜び、悲しみをともにすること
六、壮座施 他人に座席を譲ること。パスや電車などで他人に座席を譲るような行為
七、房舎施 他人に雨や風をしのぐ場所を与えること
宗教は、社会の道徳的価値とは別の価値を持っているのです。人の育成の理念に宗教的情操の涵養を据えるのは、その理由からだと考えております。
※1…無財の七施 仏教用語で地位や財産がなくても心がけ一つで誰もができる布施のこと
※2…三輪清浄 三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。
「2017(平成29)年3月31日『子どものいのち』安井大悟 龍谷総合学園学校保護者会連合会」より
「安井大悟」…相愛中学高等学校校長(本校前校長)・浄土真宗本願寺派浄宗寺住職。
「龍谷総合学園学校保護者会連合会」…浄土真宗本願寺派の関係学校が全国に24学園68校あり、その全加盟校の保護者による組織。ます。その中にはPBA(Pacific Buddhist Academy)といってハワイにも「建学の精神」をともにする学校があります。いずれも仏教の精神、浄土真宗のみ教えを基盤とした宗教的情操教育を行っております。