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平成29(2017)年度 龍谷大学付属平安中学校 入学式 2017年04月06日(木)17時17分

学校長式辞

 桜花爛漫の今日の佳き日、本日ここに、龍谷大学付属平安中学校の平成29(2017)年度入学式を挙行いたしましたところ、浄土真宗本願寺派社会部部長 白川了信 様、龍谷大学学長 入澤 崇 様をはじめ、平安同窓会・保護者会の役員の方々、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
 新入生99名のみなさん、龍谷大学付属平安中学校へのご入学、おめでとうございます。新入生の保護者のみなさま、ご子女の晴のご入学を心よりお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 さて、今から6年前の3月11日、東日本大震災が起きました。また、今から22年前の1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きました。時間とともに記憶から薄れてしまいそうになりますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。そして、今こうして今日のこの日が迎えられたことを、心から「ありがたい」と感謝いたしたいと思います。
 それでは私の式辞は、つい先日、頂戴しました一冊の本の内容から少し紹介いたします。「目的が一番、目標が二番」と記されており、こころを磨く、メンタルトレーニングについて、書き出されています。

 メンタル・トレーニングでは、最初に「夢のような目標」を考え、その次に「最低限度の目標」を決め、そこから五十年後、三十年後、十年後、五年後、四、三、二、一年後、さらに半年後、今月、今週、今日の目標まで落としてくることが大事であると書かれています。つまり、何でも長期的に物事を考えて、その上で、今から向かう方向性を考える必要があるというのです。
 大切なことは、「ゴールを決める」ということです。私たちはとかく、今を何とかしようとばかり思い、小手先の変化ばかりを追い求め、うまくいくかいかないかは時の運に任せているように思います。そして、いつも「こんなに頑張っているのに、なんでうまいこといかないんだ」と口癖のように言っています。
 たとえば、みなさんは「旅行に行くときに、まず何を決めますか?」
 当たり前ですが「行き先」と応えるでしょう。
 「そうですね。行き先を決めなかったらスタートからどこに行っていいかわからないですね。では次は?」
 みなさんは「いつ行くか」と応えてくれるでしょう。
 「そうですね。一緒に行く人の予定とかも確認しなければならないし、泊まるところも予約しないといけ ませんね。では次は何を決めますか?」
 今度は「何で行くか? バスとか電車とか」と応えてくれるでしょう。
 「それが方法です。家族と行くのであれば、お金のことも考えて、できるだけ安く行く手段としてバスを 使うかもしれません。また、日程がなくて少しでも早く着きたいと思えば、新幹線や飛行機を利用するか もしれませんね」
 「さて、今の話って、実は、すごく大切な意味が含まれているのですが、それは何だかわかりますか?」
 「それは、目標が決まらないと何も決まらないということです。どこのホテルを予約するのか、バスなのか電車なのか、予算はどれくらいなのか?これらは、目標があるからできることです。つまり、目標を決めるということがとても大切なのです」
 では次に…
 「この旅行は、誰と行きますか?」
 中学生のみなさんなら「家族」と応えるでしょう。
 「もし、みなさんが大人だとして、何の制限もなく旅に行けるとしましょう。場所は宮城県にします。
 さて、みなさんは、どういう目的でそこに行く可能性がありますか?」
 色々考えられますね「仕事、出張、友だちと旅行、新婚旅行もあるかもしれません。ボランティアとして 行きたいと思う人もいるかもしれません」
 「どうでしょうか? 何をしに行くかで、旅行がずいぶん変わってきますね。仕事として行くのか、観光 としていくのか、ボランティアとして行くのか。「宮城県に行く」という目標は同じですが、目的が違う だけで、また交通手段や日程なども変わってくるのです」
 「つまりは、何のためにそれをするのかというのが、一番大切だということです。たとえば、クラブ活動で大会で優勝したいと思ったとしましょう。これは目標です。でもこれだけだったら、たとえばズルいことをして、相手チームが嫌がるような言葉をいっぱい言って精神的に崩してでも勝てばいいんだ、ということになりかねません。でも、これで嬉しいでしょうか?嬉しくなんかないと思います。それよりも、優勝した後、後輩が『先輩みたいなチームになりたいです』という憧れを抱いてくれたり、いままで応援してくれた人が、涙を流して喜んでくれたり、そういうところに優勝の価値があるのではないでしょうか。それが、部活を頑張る目的になるのです。勉強でも同じです。ただ単にテストで百点を取るだけでは弱いです。何のために百点を取るのか? 最初は親に喜んで欲しいでもいいでしょう。しかし、将来の夢に近づけるとか、自分に自信が持てるとか、こういったものを持っている人は、決してぶれることはありません。だから目的が一番で、目標が二番なんです」と、このような内容が記され、さらに次のように続きます。
 そして、目的や目標が決まれば、次は具体的にどうするかを考えましょう。こんなことがよくあります。目的や目標はなかなか立派に立てているのですが、そのために具体的に何をすればいいのかがわからないということもあるでしょう。こういう時は、具体的に紙に書いてみましょう。ただ単に「毎日、数学を頑張る」というような漠然とした予定しか書けない場合は、それをもっと具体的にしましょう。
 毎日、教科書を何ページ学習し、間違えたらどうするのかを具体的に確認する。また、クラブ活動であれば、毎日、腹筋や腕立て伏せを何回するとか、できなかったらどうするのかを具体的に確認し、紙に書いてみることです。
 宿題でもそうです。提出期限のある場合は、その期日から逆算してみることです。とはいうものの、提出日の前日になって、慌てて課題をこなすというケースも多いのではないでしょうか。そんな感じでやると、やり方もいい加減で、中身もいい加減になってしまいます。この時点で、目的は「課題を提出期日に出す」ということになってしまっています。そうなれば、どんなに目的や目標が立派でも、目的がぶれてしまっていますから、その目的や目標は達成されないことになります。
 だから、逆算をして計画を立てる力がとても大切なのです。たとえば、全部で十枚のプリントを一週間で完成しなければならないとしましょう。そうすると最初の4日間は一日一枚、残りの3日間は一日二枚ずつと決めればいいことになります。もちろん人によって、習い事やクラブ活動などの都合もあるでしょうから、それぞれの計画が必要になります。日曜日はクラブの試合があり、土曜日もその試合に向けての最終調整をしたいと考えたら、5日間で二枚ずつやれば最初の5日間で終わります。
 こうした短い「じかん」を計画性を持ってしっかりと過ごすことで、将来に向けたイメージも育ってくるのです。
 これから大人の階段を一段一段のぼっていくみなさんへ、どうか、常に目的や目標を持ちながら、日々の生活では他人に対して、優しい思いやり溢れることばを口にし、じかんを大切にしながら、それぞれのいのちを磨き輝かせてください。それが「ことば・じかん・いのちを大切に」と申しております龍谷大平安の願いであります。
 我々教職員は、君たちを時には叱り、時には励ましの声を常にかけ続け、特に担任は、みなさん一人一人と膝と膝をつき合わせて、しっかりと関わっていきます。みなさんは、しっかりと「こころの知性」を磨き、人間力を高めるべく心豊かな中学校生活を送られますことをお願いしまして、私の式辞といたします。

今月の言葉《宗教教育係》 2017年04月01日(土)10時00分

ファイル 246-1.pdf

四月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

『子どものいのち』2017(平成29)年3月31日発行 龍谷総合学園学校保護者会連合会編集 より 2017年04月01日(土)09時31分

子どものいのち ―人の育成― 安井大悟 (一部抜粋)

『私たちの道徳』から
 児童生徒が道徳的価値について自ら考え行動できるようになることをねらいとして、『心のノート』から『私たちの道徳』へ改訂されました。この趣旨に照らして新しい教科書では、特に読み物部分を充実させ、〝重点化ページ〟へ導かれるような工夫が盛り込まれました。重点化を図る箇所は次の六点です
・規律ある生活ができ、自分の将来を考えること ─自分を深く見つめて─
・人間関係の理解 ―支え合い共に生きる─
・自他の生命の尊重 ─生命を考える─
・法やきまりの意義の理解 ─一人一人が守るべきものがある─
・主体的に社会の形成に参画すること ─社会に目を向け、社会と関わり、社会を良くする─
・国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けること ─日本人としての自覚をもっ て真の国際人として世界に貢献したい─
 さらに、中学校用教科書には特設ページが加えられました。情報モラルといじめ問題に関してであります。情報モラルについては、情報化の進展に伴い顕在化してきた問題の重大性からであり、「情報化社会の光と影」と題されています。いじめ問題については、二〇一一(平成二十三)年十月に起きた大津いじめ自殺事件を受け、国は二〇一三(平成二十五)年、いじめ防止対策推進法を施行したのですが、いまだにいじめを根絶することはできていません。「どの子どもにも、どの学校でも起こり得るものであるが、人間として絶対に許されないことである」との意識を一人一人に徹底させねばならないという喫緊の課題です。「あなたの身近にいじめはありますか」と題されています。
 ではここで、内容に踏み込んで考察してみたいと思います。はじめに、私がこの教科書の優れた内容に感心した箇所をあげましよう。重点化の三つ日にあたる章「生命を考える」の中にとりあげられた読み物資料で〝二人の弟子〟と題がついています。もう一つは重点化の四つ目の章「一人一人が守るべきものがある」の説み物資料〝二通の手紙〟です。
 〝二人の弟子〟のあらすじは次の通りです。
 仏門で修行する二人の若者、智行と道信は対照的な生き方をします。智行は寺の巌しい修行に耐え抜き僧侶になりました。道信は意志の弱さからか修行を投げ出し女性の元へ身を寄せたのですが捨てられ、結婚した妻も病気で亡くし自殺まで考えたが死にきれず寺に戻ったのでした。寺の住職である上人はそんな道信を許し、再び寺に修行僧として迎え入れます。智行には、上人のこの行為が理解できません。智行はいわば優等生です。しかし、自己にうち克つことができたと自分にうぬぼれを持ち、落ちぶれた道信を見下しているのです。一方の道信は修行に落ちこぼれ、人間臭く、自己の感情にはとても素直で人生の裏表も知り尽くした経験の持ち主でした。人間としての生き方を考えさせる機会を提供したこの読み物の、教材としての活用例はとても広いと感じました。
 〝二通の手紙〟のあらすじはこうです。
 主人公の元さんは動物園の入園係です。定年間際に、退職後も臨時職員として働かないかとの話が持ちあがったそんなある日、小学三年生の女の子が三、四歳の弟の手を引いて、閉園時刻を過ぎて入口に立ちます。今日は弟の誕生日だからキリンやゾウに会わせてやりたいと申し出ます。仕事一途に定年まできた元さんですが、この時ばかりは二人の子どもの要求を聞いて入園させます。
 数日後に元さんに届いた手紙は子どもたちの母からでした。夫が病気に倒れ自分が働きに出たため、約束していた動物園に連れていってやれない状況の中、姉が貯めたお小遣いを握りしめ、弟の誕生日に訪れた動物園に入園させてくれた元さんへの感謝が綴られてました。子どもの心を察することが実際には規則違反にあたるという、社会のしくみや規則の持つ別の一面に気付かせる資料となっています。元さんは、懲戒処分を通告する手紙も一通受けとっていました。時刻を過ぎて大人の引率もなく入園させた点が処分にあたりました。指導資料には、敢えて、〝道徳的葛藤〟という表現がとられています。この資料も、どちらの側に立つかによってその行動評価が分かれる読み物であり、人間としての生き方について考える優れた教材です。
 『心のノート』を教科書としていた時には自分自身の心の記録を残す、いわば心の成長過程を見つめる要素が強かったのに対し、『私たちの道徳』では授業展開の中で意見を出し合い、議論しながら多様な価値観の存在を知る機会を提供する時間へと変化していることを強く感じました。
 実際の授業の中では自分がその立場に置かれた時、どのような道徳的価値観につき動かされ、どのような行動をとるだろうかを考え、意見を発表し、議論する、といった展開が目に浮かびます。この様子は今話題のアクティブ・ラーニングです。
 ここで注意しなければならないと思うことを、二つ述べておきます。
 一つ目は、どちらの側に立つかでクラスが二分され、ともに相手側の意見を尊重し、よき学びに導かれた場合は成果が期待できますが、少数意見が孤立を招き、多数派に迎合した方が生きていきやすいなと感じて持論をとり下げる、あるいは空気を読むことを身につけることにつながるケースです。これははたして、大人社会が多様な価値観の対立を受容し、誠実にそれぞれの価値観に向き合うといった状況にはないこと、さらに国家は、多数派に公共の利益を適用する流れを保守していることから窺えます。
 二つ目は、教科化の先にある評価の問題です。
 平成二十七年七月二十二日道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議報告をもとにポイントを四点に整理しておきます。
 ①数値評価ではなく、児童生徒の学習状況や道徳性に係る成長の様子を把握し、記述による評価を実施すること。
 ②他の児童生徒との比較による評価ではなく、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受けとめて認め、励ます個人内評価(児童生徒のよい点を褒めたり、さらなる改善が  望まれる点を指摘したりするなど、児童生徒の発達の段階に応じ励ましていく評価のこと)として行うこと。
 ③学習活動において児童生徒がより多面的・多角的な見方へと発展しているか、道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかといった点を重視すること。
 ④道徳科の学習活動における児童生徒の具体的な取組状況を、一定のまとまり(年間三十五時間の授業という長い期間)の中で見取ること。
とありました。教員が児童生徒を評価するということは申すまでもなく、可能な限り客観化した評価の基準とその運用方針を確定しておかねばならないものですから、評価する側の教員の負担が心配になりました。加えて仮に評価する教員側の資質が問われるような場面が起こった場合の懸念も拭えません。
 いずれにしても教科道徳では、多様な見方や考え方を尊重しながら心と体の調和のとれた人間育成をめざす指導法の工夫について教材研究することと、道徳的課題にそれぞれの子どもが真摯に向き合い、自らの価値観を形成していく過程を評価することが求められるのです。ゆめゆめ人物評価に陥らないよう留意すべき教員の負担は、相当なものであることは想像に難くありません。

―道徳教育と宗教教育─
 なぜ道徳教育はこのように変化してきたのでしようか。理由は簡単です。道徳教育は時代とともに、国家体制とともに社会の変化に応じて、場合によっては為政者により変化する性質のものだからです。〝忠義や孝行〟はかつて日本の道徳における基本的徳目でありました。今や死語に近いといったら言い過ぎになるでしようか。教育の指導要領が変わり、教育内容が変わり、教育法も変わり道徳教育も変化するのです。道徳教育と宗教教育は、依って立つところが全く違いますので、相容れない場面が現実のものとなります。その特徴的なものを挙げます。
 生命の扱いに関してです。『私たちの道徳』の重点化の三つ目「生命を考える」の章に生命を「偶然性」「有限性」「連続性」の三つの観点から捉える、が出てまいります。この三つの観点は『心のノート』の教科書から踏襲されてきたわが国の道徳教育における生命の捉え方だろうと思っています。
 生徒たちに生命のかけがえのなさを語りかけ、自らの生命を愛しみ、他者の生命を尊び、あるいは生き物の死に涙する。生命を尊ぶという人としての感情を、ここでしっかりと胸に刻み直したい(指導資料より)
とあります。まず「連続性」に関して考えてみます。
 家族との結びつきや脈々と続くであろう生命の環の一つである(指導資料より)
との立場に立ちながら「偶然性」と「有限性」の観点が出てくるところに、私は違和感を抱きました。そこで、この違和感はどこから生じたものかを考えてみました。それは宗教心からだとわかりました。私たち宗門校では、宗教的情操を涵養する教育を建学の精神に据えていることはこれまでにも述べてきたところです。「生命」を考えることは宗教心ととても深く繋がっています。とりわけ仏教における「生命]の受け止め方について、素晴らしい文章に出会いましたので紹介いたします。
 生命(いのち) いのち。寿命。生物を生物たらしめている原動力。物事の最も大切な部分という意味が生命という言葉にはあります。しかし、最近、「いのち」と「生命」を使い分けることが多くなりました。どういうことかといいますと、「生命」という時は、この肉体を肉体たらしめている原動力ということで、この肉体がこの世に存在している間に限定して使っているのです。これに対して、「いのち」という時には、肉体がこの世に誕生する前の過去、この世に存在する現在、この肉体が消滅した未来を貫いて、私を私たらしめるものという意味です。私という存在は、この世に肉体がある時だけの存在ではないのです。この世に肉体がある時だけの存在ということになりますと、無から私という有が誕生し、私という有が無になるということになります。私にはわからないだけで、私は私として過去にも未来にも存在するのです。それが「いのち」という考え方です。(仏教伝道協会 沼田智秀会長 心のかけはしカード№320より)
 真宗大谷派(東本願寺)が、親鷲聖人七五〇回御遠忌のテーマに掲げたスローガンは、端的に「いのち」を受け止めておりました。
 今、いのちがあなたを生きている
です。とっても明解ですね。沼田会長の言葉をお借りするなら、私の目には見えない、わからない部分の連続性(脈々と続くであろう生命の環の一つ)を、さらに深めていける授業展開が宗教の時間だからこそできるような心強さを覚えました。真宗大谷派のスローガンは、私に与えられた今という瞬間の大事さ、加えて現代人のいのちの私有化に対する警鐘を、易しい言葉で語りかけていると思います。
 ところで三つの観点の残る二つ、「偶然性」「有限性]でありますが、宗教的情操教育の立場から、「必然性」「無限性」と教えたいと思います。全く正反対の捉え方になりますので解説しておきます。
 道徳教育では「今、自分がここに生きていることの偶然性」を説きます。「星の数ほどの偶然があって、私が今ここにいることの不思議」と語られるのです。宗教教育、特に仏教の立場では全く偶然ではありません。因縁生起を略して縁起といいますが、あらゆる存在は互いに関係しあっているという宇宙的真理から考えると、私が今ここにいることは「必然」なのです。
 この縁起の道理は仏教思想の基本に据えられておりますから、「おかげさま」の感謝や[報恩」の奉仕が宗教的情操の具現化として生じてくるのであります。
 さらに「いのち」を道徳教育では、「いつか終わりがあること、すなわち有限性」と捉えています。「自分の生命にもいつか終わりがやってくる。かけがえのない私の人生を輝かせて…」と続きます。宗教教育とくに仏教では、前述の沼田会長の言葉と真宗大谷派のスローガンをもう一度思い出してほしいのです。仏教では、私の身体の中を「無限のいのち」が今、私を生かして通り過ぎていくと考えているのです。肉体は私のものです。そして有限です。この肉体の有限性といのちの無限性を混同しない方がよいと思います。

─宗教的情操は─
 前文〝はじめに〟で述べました通り、私たち龍谷総合学園では「人の育成」をめざしております。各加盟学園はそれぞれに建学の精神を謳っていますが、宗教的情操を涵養する教育目的が共通の心柱として貫かれているのです。さて情操ですが、「人の情的動きが最も安定した状態にあり、しかも持続できること。文化的、社会的価値を具えた複雑で高次な感情」との定義が示す通り、情操教育を受けることによって人間は、創造的で批判的な心情や、積極的自主的な態度、また豊かな感受性や自己表現力、および道徳的意識や宗教的な価値観などを養うことができます。すなわち、国が勧める道徳教育とは違った立場から、児童、生徒、学生に宗教教育ができることが我が宗門校の特微であり、私学としての宗門校の存立意義であります。
 「他人に迷惑をかけてはいけない」これは、道徳教育に貫かれている社会生活上の基本徳目の一つでしよう。教科書『私たちの道徳』では、重点化四つ目の章「一人一人が守るべきものがある ─社会に生きる一員として―」に取り上げられています。「他人の迷惑を考えず自分勝手な行動をとる人ばかりになったら…」として、公徳心、社会連帯の大切さ、他者への配慮や思いやりが扱われています。
 中学生が、社会の一員としての生活の仕方について自覚を深めるため法律やきまりの意義を理解し、社会の秩序や規律を高めるように努めようと教える箇所であります。また指導書には家庭ぐるみ一緒に話し合うことを勧め、社会全体に目を向けることが大切としています。他者への配慮や思い遣りのあふれる行為について、気付いたことを話し合おうと勧めているのです。異論など全くありません。道徳的にみて、社会のあるべき方向を示しています。道徳とは公の秩序です。人として守るべき行為の基準を示しています。人間社会の規範意識なのです。社会という集団の中で生きていくためには、お互いにそうありたいと思っておりますが、仏教的には全く違います。
 私という存在は、この世で迷惑をかけずに生きていくことなどできないと考えるのです。そして、これが、ありのままの人間の姿なのです。そういう自分を知ることから仏数は出発しています。
 宗教は宇宙の真理を追究している(『ほんとうの宗教とは何か 青の巻』ひろさちや著 ビジネス社刊)
と、ひろさちやさんの著書にあります。道徳的価値は、そういえば時代や国家体制の変化に伴い変わるのに対し、宗教的価値は不変ですね。確かに今から二五〇〇年前、お釈迦さまは人類誕生以来の真理をお悟りになり、人類に仏教を説いてくださいました。加えて、自己中心の心から離れることができずに迷い続けている私を、その私のままでお浄土へ導いてくださる仏さまのおはたらきがあると教えてくださった方が親鷲聖人でありました。
 私は失敗ばかり繰り返す人間なのです。愚かさ弱さを持っています。「ありがとう」と言ってはまた迷惑をかける存在です。いい子になるために道徳教育が進められているようですが、いい子になれないのが私なのです。そういう私であることを認めて生きていくことを、「あるがままに私を見る」と言います。
 「そんなに背伸びをしなくていいからね。私のありのままの姿をしっかり見つめよう」と宗教の時間に教えます。こういう視点を、仏さまの「智慧」から学びます。
 「いじめ」が社会問題になっています。涙も出ないくらい苦しんで自死することを選んだ子どものほとんどが、「ボク、もうガンバレません。ありがとう。さようなら」と遺書に綴っているのです。なぜ、傍にいる大人はガンバレとしか言えないのでしようか。彼(彼女)はそんなに強い子ではありません。他者の痛みに同化し「辛いよね、悲しいよね」と一緒に涙する人が身近にいてくれたなら、自死を一つでも止めることができたかもしれないと思うのです。この心は、仏さまの「慈悲」から学ぶことができます。
 前述の「縁起の理」からは無限のいのちを学びました。永い永いいのちの繋がりの中の今を担当している私のことです。多くのいのちに支えられ、他人にうんと迷惑をかけて生きています。迷惑をかけることでお世話になって、それでたくさんの人と繋がりを持っているじゃないですか。これを仏教では「縁」と言うのです。「ご縁ですね」と、ともに繋がって、ともに生きることを教えています。

あとがき
 私の思いを述べて、まとめにかえます。道徳は「人は国家の構成要素の一つ」の概念が根底に据えられることで成り立つ教科なのだ、と最近私は考えるようになりました。それは、組織(集団)の中におけるコミュニケーションの大切さに言及し、最終的には、組織の中で一定方向に誘導され管理される結果になるのではないかとさえ感じています。「道徳は、強い人が弱い人を痛めつける道具」(前出同書より)とひろさちやさんは衝撃的な表現をされましたが、穿った見解だと思います。
 宗門校は「一人ひとりの生き方に重点を置き、その人のいのちを通して世の中を見る」つまり、国家観の前に人間としての生、生きざまに目を向けるところから出発して、国民、国家のあるべき姿を考える教育を実践する学校なのです。人の育成が国民をつくり、国民があってはじめて国家があるという順序で教育を組み立てています。
 例えば、後段でふれた〝他者への配慮や思いやり〟は、道徳だけでなく仏教においても崇高な行為なのであります。ただし、社会のためにとか誰々のために行為すべきではないという点で全く異なることを申しておきます。「無財の七施」や「三輪清浄」には、その行為者に一切のはからいがあってはならないことを前提にしています。しかも、自発的に行動できる心の持ち主の集まりにより社会が構成されることを理想とする立場なのです。
 一、眼施 優しい眼で接すること
 二、和顔施 いつも和やかにおだやかな顔つきで人に対すること
 三、愛語施 やさしく思いやりのある態度と言葉を使うこと
 四、身施 模範的な行動を身をもって実践すること
 五、心施 他人のために心を配り、喜び、悲しみをともにすること
 六、壮座施 他人に座席を譲ること。パスや電車などで他人に座席を譲るような行為
 七、房舎施 他人に雨や風をしのぐ場所を与えること
 宗教は、社会の道徳的価値とは別の価値を持っているのです。人の育成の理念に宗教的情操の涵養を据えるのは、その理由からだと考えております。

※1…無財の七施 仏教用語で地位や財産がなくても心がけ一つで誰もができる布施のこと
※2…三輪清浄 三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、というもの。与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならないのである。
 「2017(平成29)年3月31日『子どものいのち』安井大悟 龍谷総合学園学校保護者会連合会」より

「安井大悟」…相愛中学高等学校校長(本校前校長)・浄土真宗本願寺派浄宗寺住職。

「龍谷総合学園学校保護者会連合会」…浄土真宗本願寺派の関係学校が全国に24学園68校あり、その全加盟校の保護者による組織。ます。その中にはPBA(Pacific Buddhist Academy)といってハワイにも「建学の精神」をともにする学校があります。いずれも仏教の精神、浄土真宗のみ教えを基盤とした宗教的情操教育を行っております。

平成28(2016)年度 龍谷大学付属平安中学校 後期終業式 2017年03月18日(土)16時40分

学校長式辞
 みなさん、おはようございます。
 昨年は、硬式野球部が選抜大会に出場ということで、「人文字」をつくりましたというご報告をしたのですが、今年は、硬式野球部の甲子園出場はありませんので少し残念です。ですが、フェンシング部の男子が、18年連続21回目・女子が3年連続3回目の選抜大会出場、卓球部の男子が、19年連続25回目・女子が2年連続2回目の選抜大会出場を果たしてくれました。常連のチアダンス部は、世界大会に出場。出場80チームでの予選を通過し、世界で5位という輝かしい成績を残してくれました。ウィンターカップでも高校は団体2位、中学は何と3連覇を達成してくれました。今月末に開催されます全国大会にも中学高校ともに出場してくれます。陸上部では3年生の中村僚真君が日本ジュニア室内陸上競技大会60㍍で日本一に輝いてくれました。ゴルフ部の中野恵里花さんも全国大会に出場してくれます。剣道部の川原誠君が全日本都道府県対抗剣道優勝大会に京都府代表・先鋒として出場してくれます。柔道部の木村朋弥君が全国高等学校柔道選手権大会に無差別級で出場してくれます。これから大会に挑む各クラブの全国での活躍を心より期待いたしております。
 さて、昨年を振り返ってみますと、創立140周年の記念事業ということで、
①4月1日「平安の願い“三つの大切”―建学の精神―」冊子発行
②5月9日「教育講演会(高1対象)」講師:岩室紳也氏 内容:思春期・若者を知るためのシンポジウム
③5月19日「教育講演会(保護者)」講師:桧山進次郎氏 内容:野球人生を支えた”こころ”(演題)
④5月21日 創立140周年記念日・宗祖降誕会
⑤6月16日「教育講演会(高2・3対象)」講師:水谷 修氏
⑥9月4日~8日 創立140周年記念学園祭(文化祭・体育祭・音楽祭(中学))
⑦11月12日「教育講演会(中・高校生)」講師:太田雄貴氏
      14:00 記念式典 15:30~16:30 記念☆生徒パフォーマンス 17:00 記念祝賀会・記念同窓会
 特に中学生のみなさんには、記念式典に参加していただき素晴らしい振る舞いで臨んでくれたことをたいへん嬉しく思います。たくさんの来賓の方々からお褒めの言葉をいただきました。ありがとうございました。
 明治9(1876)年に滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立された平安は126年間男子校でありましたが、2003(平成15)年に男女共学となり、5年後の2008(平成20)年に龍谷大学付属平安中学校・高等学校と校名を変更しました。そして、昨年、めでたく創立140周年を迎え、今春、高校3年生411名が卒業しましたので、平安中学・高校の卒業生総数は約43,000名ということになります。知っておいてください。
 さて、いよいよそれぞれの学年のフィナーレを迎えようとしています。この1年は、みなさんそれぞれにとって成長の1年でしたか。進歩の1年でしたか。
 先日の卒業証書授与式でお話した内容を覚えてくれていますか。大谷光淳ご門主がお書きになった「『ありのままに、ひたむきに』~不安な今を生きる~」というご本から、一つ紹介しましたね。
 これからの時代、人工知能(AI)あるいは人型ロボットの進化で、「人が生きていくこと」の意味が、改めて問われるようになってきます。みなさんが社会に出る頃には、今、人がしている仕事を、ロボットがどんどんこなしていく時代に直面するという内容です。
 現在、人間が開発した人工知能「AI」がますます高度なことを成し遂げようとしています。いったい人間が作り出した機械の頭脳は、いつまでわれわれ人間の手の中にいるのでしょう。機械が人間を操る時代がもうそこまで来ています。
 例えば、みなさんはEyeSight(アイサイト)ってご存知ですか。EyeSightとは「衝突被害軽減ブレーキ」のことです。車内前方に装備されたステレオカメラで前方を監視し、障害物を三次元的に認識することで、自動ブレーキ、クルーズコントロール等を制御する「運転支援システム」のことです。
 このことについても、ご門主さまは、昨年11月12日の創立140周年記念式典で触れられました。みなさんは、式典に参加してくれていたので覚えてくれていますね。
 人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは私たち人間には心がある、だからこそ宗教を持つということである。人工知能の全自動の車が動き始めた時、私たち人間は、究極的な選択を迫られることになる。
 それは、全自動で走っている車の前に突然、人が飛び出してきたとき、その車は飛び出してきた人を守るように行動するのか、あるいは、乗っている人を守るように行動するのか、ということを私たち人間が決めなければいけない。すべての人を守ることが出来ない状況をどのようにロボットに行動をさせるのかというそうしたことを、私たちが決めなければいけないということです。
 科学技術の発達した現代であるからこそ、私たち人間の生き方が問われることになります。そして、それは、日々の生活の中で私たちがどのように自分の命の問題を考え、周りの家族の方、友達のことなどを考え生活していくかということにつながります。
 記念式典でおっしゃった「人間とロボットの違いは、私たち人間には心がある、だからこそ宗教を持つということである」というご門主のお言葉は、正に、「IQ」(知能指数)や「SS」(偏差値)のように数字では表すことのできない大切なもの、「EQ」、「こころの知性」、「こころ」を育てることこそが、実は、仏教的なものの見方のできる人間になることです。
 冒頭に申しました「進歩」というのは、学年のフィナーレを迎えて、この1年あるいは2年で、みなさんの「こころ」は、どのように「進歩」したかということです。
 他人と比べて外から見える「進歩」ではなく、外から見えない自分の内側にある「こころの進歩」が大切なのです。「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではなく、自分がいかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、おのずと他人に対して謙虚になります。
 私たちの日常は「すべて他人が悪い」と思い、人の「良さ」や「痛み」に心を向けることなく、自己中心的に暮らしているのです。「自分は間違っていない、すべて他人が悪い」と思い込んでしまいがちなのです。
 学校という学舎(まなびや)は、勉強を学ぶことはもちろんですが、それよりも何よりも集団生活の中で良き友人関係を構築する修練の場です。その土台になる感性、つまり「こころの知性『EQ』」を磨く大切な期間です。それぞれ3年生や2年生に進級しますが、「こころの進歩」を意識して、良好な人間関係を作ってください。
 最後に、このように今年度は、龍谷大平安にとって記念すべき年でありました。目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の大切さ、「こころの知性」の大切さを再確認して、われわれは決して一人で生きているのではなく、他に支えられて生かされているからこそ、人と人との関係性を何よりも大切にしなければならないということを今一度肝に銘じておきましょう。
 そして、今年の3月11日で、東日本大震災からちょうど6年が経ちました。未だ8万人近い人が避難生活を送っておられます。私たちはこのことを決して忘れてはなりません。3月10日から3日間、生徒会執行部とインターアクトクラブが中心となって、京都駅・京都タワー及び中央郵便局前にて募金活動を行ってくれました。何も出来ないかもしれませんが、こうした活動を通して「寄り添う」という気持ちをしっかりと持っていましょう。
 平成28(2016)年度のスローガン
 おかげさまで~140周年~ありがとう“感謝”
 この言葉をもって本年度のフィナーレとしたいと思います。以上、私の式辞といたします。

平成28(2016)年度 龍谷大学付属平安中学校 卒業証書授与式 2017年03月15日(水)16時15分

学校長式辞

 春のお彼岸を目の前にし、校庭の紅梅も見事に花を咲かせ春の訪れを感じる今日の佳き日、龍谷大学付属平安中学校の第70回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部部長白川了信様、龍谷大学副学長池田 勉様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、平安同窓会、親和会・保護者会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
 保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。
卒業生120名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 明治9(1876)年滋賀県彦根の地に「金亀教校」として産声を上げました龍谷大平安も、昨年11月12日にご門主さまご臨席のもと、創立140周年記念式典を挙行させていただきました。その記念すべき年に本校を卒業されますみなさんに、心よりお祝いを申し上げます。
 さて、昨年9月大谷光淳ご門主のお書きになった「『ありのままに、ひたむきに』~不安な今を生きる~」というご本が発行されました。その中で人工知能(AI)に触れられています。少しご紹介いたします。

 これからの時代、人工知能あるいは人型ロボットの進化で「人が生きていくこと」の意味が改めて問われるようになってくる。おそらく、いまの四十代半ばから下の人たちにとっては、社会の中で今、人がしている仕事を、ロボットがどんどんこなしていく時代に直面し、それは、極めて現実的な問題になるという話です。
 人間関係の悩み一つをとっても、携帯電話のなかった時代と今とでは違い、携帯電話を通話目的だけで使っている人と、不特定多数の人とつながるツールとして使っている人とでは、かかえる問題が違います。
 特に、情報源は、新聞・テレビ、本しかなかった私たちと違い、若い世代の人たちの情報源は、インターネットという媒体に変化し、人との交流にはSNSを使う人が増えています。当然、そこで起こり得るのは不特定多数の人との交流が招く問題などです。そう考えれば、こうした、SNSなどのツールをどう上手く活用するかを考えていかなければならないということです。
 人工知能(AI)の話に戻りますと、人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは、私たち人間には心があるということです。だからこそ宗教を持つということでありましょう。
 科学技術の発達した現代であるからこそ、私たち人間の本当の意味での生き方が問われることになります。そして、それは、日々の生活の中で、私たちがどのように自分の命の問題を考え、周りの家族の方、友達のことなどを考え生活していくかということにつながっていくことになります。と、このような内容です。

 日常生活の中で、悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私たちにとって、お釈迦さまは「必ず救い取るぞ」という阿弥陀さまのご本願をお説きくださり、人が人として生きる道をお示しくださいました。その教えを受けて真実の人生を歩まれた親鸞聖人は、阿弥陀さまのご本願を聞きひらいた時、自己を真摯に見つめ、かけがえのない「いのち」を大切に生きていく道が開かれてくると教えてくださいました。
 龍谷大平安の3年間は、みなさんの心に「思いやりの心」を育て、そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいとの願いのもとに、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけてきたのです。
 ここで、前門さまの著述『人生は価値ある一瞬(ひととき)』というご本の中から「こころの進歩」と題された内容を紹介します。

 わたしたちは、生まれたときから常に、「進歩」することを生活の原理としています。学校では、多くの知識を増やして成績上位を目指し、会社に勤めると、業績を上げてより高い収入と地位を目標とします。 
 近代の日本人を導いてきたのは、この「進歩」の思想で、確かに優れた点もたくさんありました。しかし、他方では、受験戦争など激しい競争社会を生み出してきたのも事実です。
 こうした学歴や出世、収入などは、他人と比較して外から見える「進歩」だとすれば、同じ「進歩」でも、外から見えない「進歩」があります。自分の内面における「こころの進歩」です。
 「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という箴言(しんげん)にもあるとおり、おのずから他人に対して謙虚になります。
 とはいえ、人間はなかなか自分を正しく見られません。ともすると、よい点は過大に認め、悪い点は割り引いて見るなど、自分に甘く、他人に厳しくなりがちです。自分のほんとうの姿は無意識に見ないようにしてしまうからで、それだけに、「こころの進歩」を意識して生きる必要があるのです。と記されています。

 私たちの日常は「すべて他人が悪い」と思い、人の「良さ」や「痛み」に心を向けることなく、自己中心的に暮らしています。「自分は間違っていない、すべて他人が悪い」と思い込んでしまいがちです。
 しかし、自他のいのちを見つめはじめれば、自己中心的で傲慢な生き方が、「お陰さま」の中で暮らす柔らかな感謝の暮らしへと変わります。そして、自己を真摯に見つめたとき、自分自身のいたらなさを知り、素直な心と謙虚な心が芽ばえ、ここに「人」としての成長があるのです。
 さて、約3週間にわたり卒業生のみなさんと数分間の面談をいたしました。平安中学の3年間を振り返り、今の気持ちは?という質問をさせてもらいました。みなさん、口を揃えて、「楽しかった」「充実していた」「成長できた」「良き仲間に巡り会えた」と言ってくれました。中には「色々あったけど…今となってはいい思い出です」と言う生徒や「三年間先生に迷惑ばかりかけてすいませんでした」という生徒もいました。
 いずれにしましても、笑みを浮かべて「充実していた」と言ってくれたことが、何より本当に心から嬉しく思いました。そして、みなさんの成長がうかがえました。ほんの数分でしたが、みなさんとのお話は本当に楽しかったです。みなさん一人一人の顔に、満足感や充実感が漲っていました。私の方から感謝の言葉を言わせてください。「本当にありがとう!」
 最後に、このあと、平安高等学校に進まれる人、他校へ進学される人がいますが、どうぞ、龍谷大学付属平安中学校で身につけた、素直な心と謙虚な心を持って高等学校でも頑張ってください。龍谷大平安が涵養したこの「こころ」を基盤にして、未来に羽ばたかれんことを心より念じ、私の式辞といたします。

平成28(2016)年度 龍谷大学付属平安高等学校 第1・2学年後期終業式 2017年03月10日(金)14時47分

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 昨年は、この式の後「人文字」にご協力いただいたのですが、今年は、硬式野球部の甲子園出場はありませんので少し残念です。ですが、フェンシング部の男子が、18年連続21回目・女子が3年連続3回目の選抜大会出場、卓球部の男子が、19年連続25回目・女子が2年連続2回目の選抜大会出場を果たしてくれました。常連のチアダンス部は、世界大会に出場。出場80チームでの予選を通過し、本戦で5位という輝かしい成績を残してくれました。ウィンターカップでも高校は団体2位、中学は3連覇を達成してくれました。今月末に開催されます全国大会にも中学高校ともに出場してくれます。陸上部の中村僚真君も日本ジュニア室内陸上競技大会60㍍で日本一に輝いてくれました。ゴルフ部の中野恵里花さんも全国大会に出場してくれます。剣道部の川原誠君が全日本都道府県対抗剣道優勝大会に京都府代表・先鋒として出場してくれます。柔道部の木村朋弥君が全国高等学校柔道選手権大会に無差別級で出場してくれます。これから大会に挑む各クラブの全国での活躍を心より期待いたしております。
 さて、昨年を振り返ってみますと、創立140周年の記念事業と銘打ってたくさんのことをしました。
①4月1日「平安の願い“三つの大切”―建学の精神―」冊子発行
②5月9日「教育講演会(高1対象)」講師:岩室紳也氏 内容:思春期・若者を知るためのシンポジウム
③5月19日「教育講演会(保護者)」講師:桧山進次郎氏 内容:野球人生を支えた”こころ”(演題)
④5月21日 創立140周年記念日・宗祖降誕会
⑤6月16日「教育講演会(高2・3対象)」講師:水谷 修氏
⑥9月4日~8日 創立140周年記念学園祭(文化祭・体育祭・音楽祭(中学))
⑦11月12日「教育講演会(中・高校生)」講師:太田雄貴氏
      14:00 記念式典 15:30~16:30 記念☆生徒パフォーマンス 17:00 記念祝賀会・記念同窓会
 11月12日には多くの文化系クラブにたいへんお世話になりました。特に、吹奏楽部には祝賀会・同窓会にも演奏いただき本当にお世話になりました。この場をお借りして、みなさんに感謝申し上げます。
 みなさんが、直接知らなかった事業も含めてたくさんの催しをしてきました。明治9(1876)年に滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立された平安は126年間男子校でありましたが、2003(平成15)年に男女共学となり、5年後の2008(平成20)年に龍谷大学付属平安中学校・高等学校と校名を変更しました。そして、昨年、めでたく創立140周年を迎えたのです。3年生の411名が3月1日に卒業しましたので、平安中学・高校の卒業生総数は約43,000名ということになります。知っておいてください。
 いよいよそれぞれの学年のフィナーレを迎えようとしています。この1年は、みなさんそれぞれにとって成長の1年でしたか。進歩の1年でしたか。
 今日は、高校3年生の終業式や卒業証書授与式でも、お話した内容なのですが、昨年9月PHP研究所から発行されました、大谷光淳ご門主著述の「『ありのままに、ひたむきに』~不安な今を生きる~」から、一つご紹介させていただきます。
 これからの時代、人工知能(AI)あるいは人型ロボットの進化で、「人が生きていくこと」の意味が、改めて問われるようになってきます。おそらく、いまの四十代半ばから下の人たちにとっては、自分たちの仕事に影響する極めて現実的な問題になると思います。若い人の場合は、社会の中で今、人がしている仕事を、ロボットがどんどんこなしていく時代に直面するわけです。
 人間関係の悩みにしても、携帯電話のなかった時代とある時代とではやはり違います。携帯電話(スマートフォン)が普及した現代の日本でも、通話目的だけで使っている人と、不特定多数の人とつながるツールとして使っている人とでは、かかえる問題が違います。
 特に、私より若い世代の人たちの情報源は、新聞・テレビ・本という媒体からインターネットという媒体に変化し、人との交流には、インターネットによるコミュニケーションの手段であるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使う人が増えています。そこで起こる不特定多数の人との交流が招く問題などを考えれば、SNSなどのツールをどう上手く活用するかを考えていかなければなりません。
 時代の変化とともに、特に若い人のかかえる悩みは変化していくということを、もっと意識していく必要があるのではないかと思います。
 とこのように記されています。
 現在、人間が開発した人工知能「AI」がますます高度なことを成し遂げようとしています。いったい人間が作り出した機械の頭脳は、いつまで人類の手の中にいるのでしょう。機械が人間を操る時代がもうそこまで来ています。
 例えば、みなさんはEyeSight(アイサイト)ってご存知ですか。EyeSightとは「衝突被害軽減ブレーキ」のことです。車内前方に装備されたステレオカメラで前方を監視し、障害物を三次元的に認識することで、自動ブレーキ、クルーズコントロール等を制御する「運転支援システム」のことです。
 実は、ご門主さまは、昨年11月12日の創立140周年記念式典でのお言葉の中でも人工知能について言及されました。式典でお話になった内容はこのようなものです。
 人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは私たち人間には心がある、だからこそ宗教を持つということでありましょう。新聞によりますと、人工知能の全自動の車が動き始めた時、私たち人間は、究極的な選択を迫られることになります。
 それは、全自動で走っている車の前に突然、人が飛び出してきたとき、その車は飛び出してきた人を守るように行動するのか、あるいは、乗っている人を守るように行動するのか、ということを私たち人間が決めなければいけない。すべての人を守ることが出来ない状況をどのようにロボットに行動をさせるのかということを私たちが決めなければいけません。
 科学技術の発達した現代であるからこそ、私たち人間の生き方が問われることになります。そして、それは、日々の生活の中で私たちがどのように自分の命の問題を考え、周りの家族の方、友達のことなどを考え生活していくかということにつながります。
 その背景には、必ず宗教が必要になります。浄土真宗のみ教えを建学の精神とする龍谷大学付属平安高等学校・中学校、これからも建学の精神を大事にされ、多くの生徒やその保護者に対し、浄土真宗のみ教えと宗教をもとにした教えを伝えていただくことを切にお願い申し上げます。 というお言葉でありました。
 日常生活の中で、悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私たちにとって、お釈迦さまは「必ず救い取るぞ」の阿弥陀さまのご本願をお説きくださり、人がひととして生きる道をお示しくださいました。その教えを受けて、真実の人生を歩まれた親鸞聖人は、阿弥陀さまのご本願を聞きひらいた時、自己を真摯に見つめ、かけがえのない「いのち」を大切に生きていく道が開かれてくると教えてくださいました。
 龍谷大平安の願いは、みなさんの心に「思いやりの心」を育て、「自制・協力・調和の心」を育む。そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいというものです。それを、具体的に日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけているのです。
 記念式典でのご門主のお言葉、「人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは、私たち人間には心がある、だからこそ宗教を持つということでありましょう」正に、「IQ」(知能指数)や「SS」(偏差値)のように数字では表すことのできない大切なもの、「EQ」、「こころの知性」、「こころ」を育てることこそが、実は、仏教的なものの見方のできる人間を育てることであり、それが本校の「徳育」に他ならないのです。
 学校という学舎(まなびや)は、勉強を学ぶことはもちろんですが、それよりも何よりも集団生活の中で良き友人関係を構築する修練の場です。その土台になる感性、つまり「こころの知性『EQ』」を磨く大切な期間です。それぞれ3年生や2年生に進級しますが、「こころの進歩」を意識して、良好な人間関係を作ってください。
 最後に、このように今年度は、龍谷大平安にとって記念すべき年でありました。目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の大切さ、「こころの知性」の大切さを再確認して、われわれは決して一人で生きているのではなく、他に支えられて生かされているからこそ、人と人との関係性を何よりも大切にしなければならないということを、今一度確認しておきましょう。
 そして、明日3月11日は、東日本大震災からちょうど6年となります。未だ8万人近い人が避難生活を送っておられます。私たちはこのことを決して忘れてはなりません。本日から3日間、生徒会執行部が中心となって、京都駅・京都タワー及び中央郵便局前にて募金活動を行います。何も出来ないかもしれませんが、こうした活動を通して寄り添う気持ちはしっかりと持っていましょう。ご協力の程よろしくお願いします。
 平成28(2016)年度のスローガン
 おかげさまで~140周年~ありがとう“感謝”
 この言葉をもって本年度のフィナーレとしたいと思います。以上、私の式辞といたします。

平成28(2016)年度 龍谷大学付属平安高等学校 卒業証書授与式 2017年03月01日(水)12時30分

学校長式辞

 三寒四温と申しますが、一雨ごとに気温が上がり、日差しも徐々に暖かくなってまいりました。校庭には、二本の紅梅がありますが、そのうちの一本が、今日の佳き日に合わせたかのように開花し春の訪れを感じる季節となりました。
 本日ここに龍谷大学付属平安高等学校の第69回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部賛事 辻本順爾 様、龍谷大学学長 赤松徹眞 様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、平安同窓会、親和会・保護者会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
 保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。卒業生411名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 明治9(1876)年滋賀県彦根の地に「金亀教校」として産声を上げました龍谷大平安も、昨年11月12日にご門主さまご臨席のもと、創立140周年記念式典を挙行させていただきました。その記念すべき年に卒業されますみなさんに、心よりお祝いを申し上げます。本日411名が巣立たれますので、この140年間の卒業生は 約43,000名 となります。そして、卒業生のみなさんは、創立から数えますと139期生ということになります。
 さて、ちょうど1年前の卒業証書授与式、みなさんの先輩たちには「ワトソン」という人型ロボットのお話をいたしました。みなさんには、1月20日の終業式で、人工知能(AI)のお話をいたしました。正に、科学が、私たち人間が発する言葉の意味も理解し、対応できるまでに進化してきました。
 終業式の式辞で大谷光淳ご門主のお書きになった「『ありのままに、ひたむきに』~不安な今を生きる~」という御本の内容に触れましたが、覚えてくれているでしょうか。
 これからの時代、人工知能あるいは人型ロボットの進化で「人が生きていくこと」の意味が改めて問われるようになってくる。おそらく、いまの四十代半ばから下の人たちにとっては、社会の中で今、人がしている仕事を、ロボットがどんどんこなしていく時代に直面し、それは、極めて現実的な問題になるという話です。
 人間関係の悩み一つをとっても、携帯電話のなかった時代と今とでは違い、携帯電話(スマートフォン)を通話目的だけで使っている人と、不特定多数の人とつながるツールとして使っている人とでは、かかえる問題が違ってきています。
 特に、情報源は、新聞・テレビ、本しかなかった私たちと違い、若い世代の人たちの情報源は、インターネットという媒体に変化し、人との交流にはSNSを使う人が増えています。当然、そこで起こり得る問題は、不特定多数の人との交流が招く問題などです。そう考えれば、こうした、SNSなどのツールを、どううまく活用するかを考えていかなければならないということです。
 人工知能(AI)の話に戻りますと、人間とロボットの違いは何であるのか。その違いは、私たち人間には心があるということです。だからこそ宗教を持つということでありましょう。
 科学技術の発達した現代であるからこそ、私たち人間の本当の意味での生き方が問われることになります。そして、それは、日々の生活の中で、私たちがどのように自分の命の問題を考え、周りの家族の方、友達のことなどを考え生活していくかということにつながっていくことになります。
 日常生活の中で、悩みや苦しみを抱えながら生きていかなければならない私たちにとって、お釈迦さまは「必ず救い取るぞ」の阿弥陀さまのご本願をお説きくださり、人がひととして生きる道をお示しくださいました。その教えを受けて、真実の人生を歩まれた親鸞聖人は、阿弥陀さまのご本願を聞きひらいた時、自己を真摯に見つめ、かけがえのない「いのち」を大切に生きていく道が開かれてくると教えてくださいました。
 龍谷大平安の3年間・6年間は、みなさんの心に「思いやりの心」を育て、「自制・協力・調和の心」を育む。そんな豊かな心をもった人間に育ってほしいとの願いのもとに、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけてきたのです。
 ここで、前門さまの著述『人生は価値ある一瞬(ひととき)』という御本の中から「こころの進歩」と題された内容を紹介します。
 わたしたちは、生まれたときから常に、「進歩」することを生活の原理としています。学校では、多くの知識を増やして成績上位を目指し、会社に勤めると、業績を上げてより高い収入と地位を目標とします。近代の日本人を導いてきたのはこの「進歩」の思想で、確かに優れた点もたくさんありました。しかし、他方では、受験戦争など激しい競争社会を生み出してきたのも事実です。
 こうした学歴や出世、収入などは、他人と比較して外から見える「進歩」だとすれば、同じ「進歩」でも、外から見えない「進歩」があります。自分の内面における「こころの進歩」です。
 「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という箴言にもあるとおり、おのずから他人に対して謙虚になります。
 とはいえ、人間はなかなか自分を正しく見られません。ともすると、よい点は過大に認め、悪い点は割り引いて見るなど、自分に甘く、他人に厳しくなりがちです。自分のほんとうの姿は無意識に見ないようにしてしまうからで、それだけに、「こころの進歩」を意識して生きる必要があると思います。
 と記されています。正に、自分中心にしか見ることが出来ない愚かな自分への気づきではないでしょうか。
 みなさんが今日、受け取られます卒業アルバムに、平安の三つの大切「ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切に」という言葉に添えて『煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我』という言葉をしたためさせてもらいました。
 これは、私たちが、日々お勤めする『正信念仏偈』の中の一節であります。
――悲しいかな、煩悩のためにわが眼はおおわれてしまって真実の有様を見ることができないですが、よろこばしいかな、如来はお慈悲の心をもって、倦みつかれることなく、常にわが身を照らし続けてくださっているのですよ――
 自己中心的なものの見方や考え方しかできない私たちであります。その中で本当の姿、真実の姿をついつい見失ってしまい、物事をありのままに受け容れることができなくなり、だから、色々なことで悩み苦しみます。それでも、阿弥陀如来は常に私たちを照らしてくださっています。阿弥陀さまははたらき続けていてくださいます。
 安心して、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させることを心がけましょう。すると、素直な心と謙虚な心が根づくのです。そんな心のありようを意識して、日々の生活を送りましょう。
 次の日本を、そして世界を背負って立つみなさんに、こうして涵養した「宗教的情操」こそが、これからの人生の基盤に据えられることを願っております。どうぞ、龍谷大平安で青春を過ごし、卒業生になることに誇りをもってください。それこそが、伝統につながっていくということを知っておいてください。そして、その伝統だけが重要なのではなく、みなさん一人ひとりが、その伝統の最前列にいることを意識することが大切なのだということをしっかりと自覚し、自らのいのちを磨き続ける人生を送られますことを心より念じまして、私の式辞といたします。

今月の言葉《宗教教育係》 2017年03月01日(水)08時12分

ファイル 236-1.pdf

三月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

EnglishDay 2016 2017年02月20日(月)16時27分

English Day  Principal greeting

Good morning, everyone.
To all the parents, thank you very much for coming today.
It is time for English Day, the final event of HEIAN's 140th anniversary year.
This year's final big event will start soon.
I'm looking forward to your wonderful performances.
I really hope that you'll do your best and we can have a good day together.
Thank you.


校長挨拶
 みなさんおはようございます。
 保護者のみなさまには、たいへんお忙しい中ご来校いただきまして誠にありがとうございます。
 創立140周年という記念すべき年のフィナーレを飾る「EnglishDay」の日がやってきました。
 今年度の集大成とも言える最後の行事がまもなく開幕します。みなさんの素晴らしいパフォーマンスを期待しています。今日までの練習の成果を遺憾なく発揮し、素晴らしい一日になりますことを心から願っています。

平成28(2016)年度 御命日法要【2月】 2017年02月16日(木)08時10分

【ご案内】

青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 
赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)   『仏説阿弥陀経』

■それぞれが光り輝く世界

お経は「真実」説く
 『仏説阿弥陀経』というお経に、極楽浄土について説かれています。それによると、極楽浄土には、綺麗な池があって、池の底には、金の砂が敷き詰められている。そして、池には、大きな蓮の花が咲いていて、青色の蓮の花は青い光を放ち、黄色の蓮の花は黄色い光を放ち、赤色の蓮の花は赤い光を放ち、白色の蓮の花は白い光を放ち、よい香りを漂わせている。それが極楽浄土だというのです。
 このような話をすると、すぐに「極楽浄土なんて本当にあるんですか」と言う人がいますが、極楽浄土は「あるか、ないか」と問うのではなく、「どのような世界か」ということを聞くことが大切なのです。
 また、お経には「事実」が説かれているのではく、「真実」が説かれているということも忘れてはならないでしょう。『阿弥陀経』の教説も、青色の蓮の花が青い光を放っているという事実が説いているのではなく、私が私色に、あなたがあなた色に、それぞれがそれぞれに光り輝く世界、それが真実の世界であり、極楽浄土というさとりの世界だということを説いているのです。

生老病死にも光
 ある方が、
「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」の「青黄赤白」の所を「生老病死」の漢字と入れ替えて、「生色生光 老色老光 病色病光 死色死光」と味わわれました。生が生のまま光り輝き、老が老のまま光り輝き、病が病のまま光り輝き、死が死のまま光り輝く。
それがさとりの世界であり、真実の世界なのです。
 このようなさとりの世界について聞けば聞くほど、私のあり方がそうなっていないことに気づかされます。いい・悪い、好き・嫌いと周りのいのちを分け隔てして傷つけたり、老い・病み・死んでいくことはダメになることだと悩み苦しんだり。
 み教えを聞くということは、さとりの世界とはどのような世界かということを聞かせてもらうことであり、その世界が今の私の人生を支え、真実に導いてくださるのです。すべてのものが光り輝き、人生のすべてが光り輝く、そんな世界に出遇わせていただきましょう。

(『本願寺新報』2016(平成28)年11月1日「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章)

おかげさまで ~140周年~ ありがとう“感謝”

2月 御命日法要 
○ 日時 2月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 佐長道亮 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。