HEIAN BLOG 校長 BLOG

記事一覧

平成28(2016)年度 御命日法要【9月】 2016年09月16日(金)07時45分

【ご案内】
子どもの頃に聞いた話。その時に特別な感銘を受けたわけではないが、どこか心に残っていて、大人になってからあらためて、その言葉の意味に触れることがある。経験を重ねることによって、その言葉がよみがえってくるのだ。
アウトドア愛好家として知られるタレントの清水国明さんの講演を聞いた。浄土真宗の篤信な家庭に育ち、大きな影響を受けたことが内容だった。出身の福井の冬は厳しい寒さで、当時の暖房である囲炉裏を囲みながら、祖父の着物の懐に手足を入れながら暖をとったという。祖父は「国明、おまえが世間からだめだ、役に立たないと言われてもおじいちゃんは味方するからな」といつも優しく語りかけてくれたという。子どもなので意味はよくわからなかったが、大人になってから、「自分の味方がいる。安心できた」と、大きな心の支えになったと語った。
7月26日、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で入居者が元職員によって殺傷される事件が起きた。事件の詳細はこれから明らかにされていくが、抵抗できない障害者の命が、理不尽な理由で奪われたことに、大きな衝撃を受けた。報道では「障害者は役に立たない」というのが動機だったという。
私の都合で命を「役に立つ、立たない」というものさしで測る私の姿に、あらためて気付かされ、忘れてはいけない出来事として心に刻んでいきたい。そして、子や孫に「あんたの味方するからな」と語りかけ、いのちの尊さを伝えていきたい。(I)
(『2016(平成28)年8月20日 本願寺新報 コラム「赤光白光」)より


おかげさまで ~140周年~ ありがとう“感謝”


9月 御命日法要 
○ 日時 9月16日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 藤井和乗 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

2016 中学音楽祭 2016年09月08日(木)16時22分

校長挨拶

 あらためまして、みなさんおはようございます。
 保護者のみなさまにおかれましては、お忙しい中、子どもたちの発表を鑑賞していただくために、朝の早い時間からご来校いただきまして誠にありがとうございます。
 いよいよ中学の三大行事の一つ「音楽祭」がやってきました。4日から創立140周年の記念学園祭がスタートし、本日の中学音楽祭がフィナーレを飾ってくれます。平安中学校の音楽祭も今年で20回を数えます。
 今年度の学園祭のテーマは、~感謝あっての笑顔あり~ 正に、おかげさま、ありがとう、という感謝の心の上に互いに笑顔が溢れるということでありましょう。
 ここに、『おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”』の思いで、クラスや仲間で協力し、達成感の感じられる音楽祭になること、そして、いついつまでも思い出にのこる行事となりますことを心より願っております。
 中学3年生は研修旅行、中学2年・1年生は名古屋・滋賀県とそれぞれに夏期勉強合宿もあり、限られた練習時間だったと思います。
 その限られた時間の中、毎日、校長室にみなさんの爽やかなハーモニーが教室から漏れ聞こえてきておりました。今日は本当に楽しみです。
 それでは、今日までの練習の成果を遺憾なく発揮してください。素晴らしいハーモニーを聴かせてください。

2016 創立140周年記念学園祭  2016年09月04日(日)14時15分

校長挨拶

 暦の上では二十四節気の一つ、草の葉に白い露が結ぶという意味の白露をひかえ、まだまだ残暑の厳しい日が続いています。いよいよ秋の風物詩であります「学園祭」がやってきました。
 9月4日~7日に文化の祭典と体育の祭典が連続日程で実施され、8日に中学の音楽祭が開催されます。高校は「高1合唱コンクール」「高2演劇コンクール」高3は「模擬店」、体育祭では「演舞」を披露してくれますが、今年は、滋賀県彦根の地に「金亀教校」として、1876(明治9)年に創立された本校が、140周年を迎えました「記念学園祭」と位置づけております。
 本校は創立以来、「浄土真宗の精神」を建学の精神として、阿弥陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩まれた親鸞聖人の生き方に学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育てることを目指してまいりました。
 ここに、『おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”』の思いで、クラスや仲間で協力し、達成感の感じられる文化祭・体育祭・音楽祭になること、そして、いついつまでも思い出にのこる行事となりますことを心より願っております。
この意義深い「記念学園祭」をみなさんの手で成功させてください。期待しております。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年09月01日(木)08時00分

ファイル 215-1.pdf

九月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2016年08月01日(月)08時10分

ファイル 214-1.pdf

八月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【7月】 2016年07月15日(金)08時10分

【ご案内】

平成28年7月1日『本願寺新報』に、『平安の願い“三つの大切”』(平成28年4月1日発行)にも載せております『祝婚歌』(吉野弘)が取り上げられておりましたので、一部ご紹介いたします。

■自らの愚かさに気づく
 吉野弘さんの『祝婚歌』という詩があります。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気付いているほうがいい
(中略)
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
(以下略)

 けんかや争いが起こるのは、お互いが「自分が立派で正しく、相手が愚かで間違っている」と思っている時です。自分が間違っているけど、相手に文句を言ってやろうという人はあまりいません。戦争も、正義と正義が戦っているのです。もう少し正確に言うと、自分が正義だと思っているもの同士が戦っているのです。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい」という言葉は、自らの愚かさに気付くことが大切だということを教えてくれます。
 親鸞聖人がお手紙の中で「世のなか安穏なれ」に続いて、「仏法ひろまれ」と言われているのは、仏の教えによって、自らの愚かさ(自己中心性)に気付かされるところにこそ、「世のなか安穏なれ」と願い、その実現に向かって生きる生き方が生まれてくるからなのです。決して、「世のなかが安穏になるよう、みんなが善人になりましょう」と言われているのではありません。
 本当の意味での善人になれない私。煩悩だらけの愚かな人間でしかない私。けれど、そのことに気付いた時、ただの凡夫ではなくなるのです。人間だから仕方がないと開き直るのではなく、自己中心のあり方を申し訳ないこと、悲しいことだと受け止めた時、そこに、新しい世界が開けてくるのです。
(『2016年7月1日本願寺新報「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章』)

おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

7月 御命日法要 
○ 日時 7月15日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 鎌田善弘 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

御礼 龍谷大学付属平安中学校オープンキャンパス 2016年07月03日(日)15時59分

平成28年7月3日(日)中学校のオープンキャンパスを開催いたしましたところ、午後1時半からの全体説明会に約240組総勢約700名のみなさまにご来校いただきまして誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。

学校長挨拶
 みなさん、ようこそ龍谷大平安のオープンキャンパスにお越しいただきました。
 さて、1876年(明治9)年に創立されました本校も、本年5月21日をもちまして満140歳となりました。創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い宗教的情操の涵養を理想としてきました。「宗教的情操の涵養」というのは少し難しすぎるかもしれません。それでは龍谷大平安で何を学ぶのかについて、少しだけお話しさせていただきます。
 さて、みなさんは幼稚園の時に「もしもし亀よ亀さんよ、世界のうちでおまえほど、歩みののろいものはない、どうしてそんなにのろいのか」という歌をうたいましたね。
 そこからまた歌は続きました。「な-んとおっしゃる兎さん、そんならおまえとかけくらべ、向こうの小山の麓まで、どちらが先にかけつくか」という展開になります。
 この続きも、みなさんはご存じですね。「どんなに亀が いそいでも、どうせ晩まで かかるだろ、ここらでちょっと ひとねむり、ぐうぐうぐうぐう ぐうぐうぐうぐう」と兎は油断してしまいます。
 そして、結果は、「これは寝すぎた しくじった、ぴょんぴょんぴょんぴょん、ぴょんぴょんぴょん、あんまり遅い 兎さん、さっきの自慢は どうしたの」ということで、兎が途中で昼寝をしたために追い越されて、亀が先にゴールしてしまいます。
 ということで、この物語は、兎の立場で言えば、自信過剰で思い上がって油断をすると物事を逃してしまうということになります。亀の立場に立てば、歩みが遅くとも一生懸命努力すれば、最終的に大きな成果を得ることができるということになります。つまり、人間あきらめずに頑張ればできる、何事も「為せば成る」ということを教えています。
 これを、少し見方を変えて「浄土真宗の精神」、仏教的なものの見方・考え方をしてみると、どうなるでしょう。どうして、亀は寝ている兎を起こしてあげなかったのかなあ。そして、最終的に兎が、ぴょんと跳ねて先にゴールしたとしても、「兎さん、よかったね」「おめでとう」と声をかけてあげるような気持ちであってほしいということになります。
 自分自身に目を向けてみると、私たち人間は、自己中心的で、自分さえ良ければいいと思う、そんな私の姿が映し出されてきます。実は、この自覚の上に立ってこそ「ありのままの自分をしっかりと見つめる」ことができるようになるのです。勝ち負けや、誰が一番とかではなく、こうした他人に対する思いやりの心、慈しみの心を育てたいというのが龍谷大平安の願いです。
 龍谷大平安で学ぶのは、知識・教養・学問の世界だけではありません。他人に対する思いやりの心を磨くことにあります。今日は限られた時間ではありますが、龍谷大平安をしっかりと見て存分に楽しんでください。本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年07月01日(金)17時00分

ファイル 212-1.pdf

七月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

御礼 第1回 学校説明会(高校受験生対象) 2016年06月19日(日)16時04分

2016年6月19日(日)午後1時から本校講堂におきまして『第1回高校受験対象学校説明会』を開催いたしましたところ雨でお足もとの悪い中、約350組の生徒・保護者のみなさまにご来校いただき心より御礼申し上げます。

学校長挨拶

 本日は本校の「2017年度入試の第1回学校説明会」に、お足元の悪い中、たくさんの方にお越しいただきまして誠にありがとうございます。
 さて、明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立されました本校も、本年5月21日をもちまして満140歳となりました。創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操の涵養(かんよう)を理想としてきました。
 本年2016(平成28)年、本校が創立140周年を迎えるにあたり『建学の精神』を広く深く伝えたいとの願いのもとに「平安の願い“三つの大切”」という冊子を作成いたしました。
 私の方からは、本校の教育理念について少しお話しさせていただきます。
 本校の「建学の精神」は、「浄土真宗の精神」です。浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの全てを迷いから悟りへと転換させたいという阿弥陀仏の誓願に他なりません。
 本校は、この阿弥陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩まれた親鸞聖人の生き方に学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育てます。
 このことを実現するための日常の心得として「ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切に」という3つの「大切」を掲げています。これらはみな、建学の精神あってこその心であり、生き方です。
 まず、「ことばを大切にする生き方」とは「素直な心と謙虚な心を持って常に心を調えるようにしなさい」ということです。人の言葉と行動というものは、すべて心の在り方より起こります。
 仏教では、人間には根本的に煩悩という悪い心があり、これらの心が起こることによって苦しみが生ずると説きました。「口は災いの元」という言葉があるように、自分本位の考え方から発せられた言葉は諍(いさか)いを起こし、言葉による暴力が高じると、殴る蹴る、ついには殺(あや)めるといった愚かな行動まで引き起こしてしまいます。
「ことばを大切にする生き方」とはつまり、自分の心の在り方を見つめ、その心をどのようにコントロールしていくかということに他なりません。
 次に、「じかんを大切にする生き方」とは「今日なすべきことを明日にのばしてはいけない。今という時間を大切にしなさい」ということです。世の中は無常であるのに、明日があると思うばかりに今なすべきことを先のばしにし、後悔する。私たちにも、そんな経験があります。
「今」は「今」しかない。仏教はその「今」をどう生きるかを問い、人としての一瞬を悔いなく生きる道を示した教えなのです。
 三つめの「いのちを大切にする生き方」とは「預かったいのちを磨きなさい」ということです。私たちの「いのち」は、実は預かりものです。
 多くの命の恵みをいただいて生かされている「いのち」であり、父や母などの多くの人たちに願われ支えられた「いのち」であり、かつまた阿弥陀さまの願いのかけられた尊い「いのち」であるというのが、私たちの「いのち」の在り方です。その「いのち」は、一たび失ったら、もう二度と取り戻すことのできない「いのち」でもあります。だからこそまた、尊いのです。
 仏さまから預かった大事な「いのち」と思えたとき、仏さまを悲しませない生き方をしようと考えるようになります。それが、「自らの人間性を磨いていく」ということであり、ありとあらゆる「いのち」を尊ぶ生き方です。
 阿弥陀仏の本願は『南無阿弥陀仏』という「ことば」となり、「必ず救いとるぞ」と呼びかけてくださり、ついには、私たちに無限の「いのち」を恵み与えてくださることに気づいた時、「今」という「じかん」を大切に生きる道がまた、私たちの前に開かれてくるのです。
 生徒たちにそんな人間に育ってほしいと心から願い「平安の願い“三つの大切”」としたことであります。
 こうした心の教育を「こころの幹(き)」として教育の根幹に据えて進学校化への改革も着実に進めており、確かな手応えも感じております。今後も今までにもまして、進化させ、しっかりと充実させていきたいと思っております。
 このあと、具体的に説明いたしますので、よくお聞きになって、是非とも学校選びの一番に本校をあげていただきますよう切にお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。
 本日は、お忙しい中、お越しくださいまして誠にありがとうございます。

平成28(2016)年度 御命日法要【6月】 2016年06月15日(水)20時57分

【ご案内】

『2016(平成28)年5月1日(日曜日)本願寺新報 第3234号』より

「いのちの栞」   龍谷大学非常勤講師 小池秀章

 自ら仏に帰依したてまつる
 自ら法に帰依したてまつる
 自ら僧に帰依したてまつる 「三帰依文」

■何を依りどころに生きるか
仏教の3つの宝
 仏教には大切なものが三つあり、三宝と呼んでいます。
 三宝とは「仏法僧」の三つのことで、「仏」は仏さま(真実に目覚めた者)のこと、「法」は仏さまの教えのこと、「僧」は仏さまの教えに従って生きる人たちのことです。この三宝によって仏教が成立することから、古くから大切にされてきました。
 そして、その三宝に帰依する(依りどころとする)ことを「三帰依」と言います。釈尊在世の当時は、「三帰依文」をとなえることによって、仏教教団への入門が許されていました。仏さまの教えを聞こうとする人は、まず、この三宝に帰依することが大切になります。
 では、三宝に帰依するとは、本質的にはどのようなことを意味するのでしょう。それは、自分の生きる依りどころ、物事の判断基準(ものさし)を三宝におくということなのです。 相田みつをさんの言葉に、
そんかとくか
人間のものさし
うそかまことか
仏さまのものさし
があります。私たちは普段、損か得かのものさしで物事を判断しています。しかし、仏さまは、嘘か真かのものさしで物事を判断するのです。自分の損得に関係なく真実を求めて生きる。それが三宝に帰依する意味なのです。
 つまり、三宝を依りどころにするということは、損得をものさしとする自己中心の生き方から、真実を求めて生きる生き方への転換だと言っていいでしょう。
わが身を知らされ
 ちなみに「仏」は、もともと梵語(昔のインドの言葉)で「ブッダ」、「法」は「ダンマ」、「僧」は「サンガ」と言います。また、「帰依」は梵語で「ナモ」、それが漢訳(音訳)されて「南無」となりました。
 音楽礼拝の「三帰依」
ブッダンサラナン
ガッチャミ
ダンマンサラナン
ガッチャミ
サンガンサラナン
ガッチャミ
 帰敬式の「三帰依文」
  南無帰依仏
  南無帰依法
  南無帰依僧
も、ともに同じ意味なのです。
 普段の生活の中で、三宝を依りどころに生きることを忘れないでいたいものです。


おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

6月 御命日法要 
○ 日時 6月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 楠 深水 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。