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平成28年度 平安保護者会 役員会(本部役員・クラス理事) 2016年06月06日(月)22時04分

校長挨拶

 平安保護者会本部役員、クラス理事のみなさまにおかれましては、平素は何かと学園に対しましてご理解とご協力を賜りまして心より御礼申し上げます。
 ところで、みなさんは、ACジャパン(旧、公共広告機構)が行っている「やわらかいこころをもちましょう!」という全国キャンペーンをご存知ですか?
テレビやラジオのCMで吹石一恵さんがナレーションをつとめられ相田みつをさんの詩が朗読されます。お手元にお配りしております書をご覧ください。

セトモノとセトモノと
ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どっちかやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう
そういうわたしはいつもセトモノ

 現代社会は複雑化、また多様化しています。特に、見ず知らずの人同士が集まる公共の場ではさまざまな「イライラ」を感じることがあります。それが、このCMにありますように交差点の横断歩道をわたる時に、たまたま肩と肩がぶつかった。「イライラ」が、睨み合いになるケースがあります。
 どうでしょう。ちょっとしたことが、許せる気持ちが、世の中に少し足りていないかもしれませんね。このCMは、やわらかいこころ、おおらかな気持ちでいることの大切さをメッセージしているのでしょう。ただ、注目していただきたいのは、最後のフレーズです。
 相田みつをさんは、「そういうわたしはいつもセトモノ」と括っておられます。相田みつをさんは、禅についても仏教についても深く学ばれた方で、きわめてシンプルな詩をたくさん作っておられます。「そういうわたしはいつもセトモノ」というフレーズは、いろいろな解釈はあるかも知れませんが、私は、ここに「浄土真宗の精神」があると考えています。
 自分が自分がに執着するばかりに素直になれずにいる私。少しばかり優位に立ったからといって謙虚さを忘れる私。私たち人間は、残念ながら、自己中心性を離れられない煩悩の塊であります。相田みつをさんは、何を隠そう自分自身に目を向けておられるのではないでしょうか。
 「そういうわたしはいつもセトモノ」という言葉に、この私の姿が映し出されています。その自覚の上に立つから「ありのままの自分を真摯に見つめる」ことができるようになるのです。これが「建学の精神」の教えるところであります。
 本日は、みなさまと教職員とが忌憚のない意見交換をして有意義な時間がもてれば幸いと存じます。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年06月01日(水)07時54分

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六月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

宗祖降誕会・開校記念式(創立140年) 2016年05月21日(土)17時59分

講堂にて宗祖親鸞聖人の生誕を祝う降誕会ならびに開校記念式を執り行いました。
浄土真宗本願寺派布教師高澤恒雄先生より浄土真宗のみ教えから阿弥陀様の思いについてのお話を聴聞いたしました。
阿弥陀様は「私があなたのためにがんばるから、私にまかせなさい」とおっしゃるのだとお話しくださいました。
高校1年生456名は全国の宗門関係学校の学生・生徒と一緒に宗祖降誕奉讃法要に参拝いたしました。

平成28(2016)年度 御命日法要【5月】  2016年05月16日(月)17時55分

【ご案内】

4月の御命日法要でご紹介いたしました、本願寺派保育連盟 教育原理委員長 丁野(ようの)恵鏡(えきょう)さんの『お父さん、お母さんへのメッセージ』から、宗教的な環境によって育まれる「まことの保育」を、一部改変して記させていただきます。

1、私たちは、すぐに他人と比較したり、また区別や差別をして、子どもの平等のいのちが見えなくなっていきます。阿弥陀さまのまなざしは、一人ひとりのいのちを平等に見ておられます。そして誰一人見捨てることなく、全てを等しく救いとってくださるのです。子どもが「お母さーん」と呼ぶのは、こころの中のお母さんが子に呼ばしめているのと同じように、私が「南無阿弥陀仏」と如来さまのお名前を称えるのは、こころの中の如来さまが「私の名を呼んでね」と、私に呼ばしめてくださるのです。阿弥陀さまは目には見えないけれど、常に私に寄り添い、共に悲しみ共によろこんでいてくださいます。
2、一粒のお米ができるまでには太陽や水、土など自然の恵みがなくてはなりません。多くの労働力もいります。私たちはそのお米のいのちをいただいて生きています。しかし、ややもするとそうしたことをすっかり忘れ、あたり前であるかのように日常を生きているのではないでしょうか。静かに自己を省みますと、多くの生きものの犠牲と、自分以外の目には見えない大きなはたらきによって生かされていることに気づかされます。あたりまえと生きている私は、決してあたりまえではなかったのです。「ごめんなさい」と自己を省み、「ありがとう」と精いっぱいいのちを輝かせ、社会のために自分のできることを奉仕する生き方を目指しましょう。
3、人間は自己中心の物差しで他人の話を聞いてしまいます。子どもは自分が見たり聞いたりした感動を、信頼する大人に聞いてほしいと思っています。ところが大人は、「子どもは幼稚であり未完成であるから」とか、「将来のために正しい指導をしなければならない」などと、子どもの話を十分聞かないで、一方的に自分の思いや考えを子どもに押しつけたりします。その結果、子どもが感動したこと、想像や夢が壊され、かえって子どもの心に欲求不満が沈殿してしまいます。子どもと真剣に向き合い、子どものお話にじっと耳を傾けて、できればそのつぶやきを書きとどめることを心がけましょう。
4、子どもは大人に比べてはるかに純真です。大人は「疑ってはいけない」といわれても、容易に信じることができません。裏切られたり、だまされた経験もあります。しかし子どもは、小さければ小さいほど経験が浅く、従って裏切られた経験もなく、なんでも無条件で信じます。生まれたばかりの赤ちゃんは、無意識のうちにお母さんや周りの大人を受け入れ、全面的に信じて生きています。信じなければ生きられません。だから赤ちゃんの目は澄みきって感動的です。そして大人は、子どもの無心な姿に心が洗われ、生きる活力をもらうのです。大人は、子どもを仏の子として敬わなければなりません。互いに敬い助け合い、そしてつながりあって、仲良くすることの素晴らしさを感じて育ち合っていきたいものです。                      (『本願寺新報 2015年(平成27年)4月10日』より)

おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

5月 御命日法要 
○ 日時 5月16日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 中森寿樹 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

平成28(2016)年度 防災訓練(避難・実技訓練)実施 2016年05月02日(月)12時08分

学校長訓話

 このたびの熊本地震により、犠牲となられたみなさまに哀悼の意を表しますとともに、被災されたすべてのみなさまに対し、心よりお見舞い申し上げます。九州地方では、今もなお余震が続き、不安と恐怖の中で多くのみなさまが、避難生活を余儀なくされている状況に直面し、心が痛む思いであります。
 さて、学校における防災教育の目的は、自らの生命(いのち)を大切にし、他の人々を思いやるこころの教育と位置づけ、地域の安全に役立つための防災態勢を理解できることであります。この目的を具体化するための一つとして、安全行動ができる防災訓練が必要です。
 生徒一人ひとりが、自分の身を自分の努力によって守ること(自己責任による自助の考え方)と、普段から顔を合わせているクラスの仲間が互いに協力し合いながら、防災活動に取り組むこと(助け合いという共助の考え方)が必要です。そして、この「自助」・「共助」に学校の危機管理体制という「公助」が有機的に繋がることにより、被害を最小限にとどめることが出来るのです。
 とくに、クラスの仲間が協力し合う体制をつくったり、そうした活動、つまり「共助」は、自主防災活動の最も大切なことです。
 今回の防災訓練は、地震を想定した避難訓練です。したがって、直ちに安全な場所への避難が必要になります。この訓練における注意点は、①避難指示の伝達  ②避難生徒人数の確認③安全な避難方法と避難経路の確認 の3点です。
 地震など災害が発生した時には、正確で迅速な情報の収集と伝達活動が欠かせません。また、いかに冷静沈着な行動がとれるかということです。万が一にそなえ、今日の防災訓練が意義あるものとなりますよう願っております。
 本日、お釈迦様の誕生をお祝いする花まつりの行事を約一ヶ月遅れで営みました。私たちの人生は、何が起こるかわかりません。この世の中はどんなことが起こっても不思議ではないのです。仏教というのは、思いもよらぬ災難が来ないように祈る宗教ではありません。どんな思いがけない災難にも耐え、それを乗りこえていく正しい「仏さまの『智慧』」の眼を開かせたいものです。
 先にも申しましたが、東日本大震災から5年、阪神淡路大震災から21年がたち、この度は熊本地震で多くの方々が被災され、避難生活を余儀なくされ、今なお、苦しみや悲しみの中で生活されている方々に「慈しみ寄り添う心」をしっかりと持ちましょう。
 今こうして今日が迎えられていることを、心から「ありがたい」と感謝いたしましょう。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年05月01日(日)17時47分

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五月
 今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
 今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成28(2016)年度 仏参【4月】 校長講話 2016年04月27日(水)09時15分

みなさん、おはようございます。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 みなさんご存知の「平家物語」冒頭であります。あまりにも有名な部分でありますので、みなさんもその意味はよくご存知だろうと思いますが、あらためまして現代語訳しておきましょう。
 祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはないという響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。思い上がって得意になっている人も、その栄華は長くは続かない。それはちょうど、覚めやすいと言われている春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も最終的には滅んでしまう。まったくもって風の前にさらされて散っていく塵と同じである。
 仏教の根本的な考え方に『三法印』と言って「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つがあります。平家物語の冒頭は、「諸行無常」の理をあらわしており、あらゆるものは、一瞬の間にも変化をくり返していてとどまることがないということを言っています。
 それでは、あらためまして確認しておきましょう。みなさんは、平安の「建学の精神」はと尋ねられたら「ことば・じかん・いのちを大切に」と応えるでしょう。少し違います。「建学の精神」は、「浄土真宗の精神」です。宗祖親鸞聖人のみ教えがあってこその日常の心得として、「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけているのだということを知っておいてください。
 さて、始業式でもお話いたしましたが、本年、本校が創立140周年を迎えるにあたり作成いたしました「平安の願い“三つの大切”」をみなさんにもお配りしたことでありますが、読んでくれましたか?始業式では「ことばを大切にⅠ・Ⅱ」の内容をお話いたしましたので、今日は「じかんを大切にⅠ・Ⅱ」という中学生向けと高校生向けの文章の内容を確認しておきましょう。
 まずは、中学の新入生に向けた文章です。

 いきなりですが質問です。「86400秒」、これは何を示していると思いますか。これは1日24時間を秒数で示したものです。
 では次の質問です。「1095日」、これは何を示していると思いますか。これは、3年間を日数で示したものです。
 1日は86400秒。86400秒と聞くと、とても長いように思えますが、気づけばあっという間に1日は過ぎてしまいます。そして、その1日1日が積み重なれば、3年間で1095日となるのです。みなさんが、卒業するころには、おそらく「早かったなあ」と感じることだろうと思います。
 浄土真宗の第8代宗主の蓮如上人というお方は、次のような言葉を残されました。
 いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。 (『御文章』)
「人が、1万歳まで生きたということは、聞いたことがない。一生はすぐに過ぎてしまう」という意味です。
「一生過ぎやすし」と言われたところで、ピンとこないかもしれません。しかし、みなさんが今まで過ごしてきた学校生活のなかでも、「もう過ぎてしまったか」と思う場面が、きっとあったはずです。その延長にあるのが、「一生過ぎやすし」なのです。
 時間は止まることなく、まるで、川の流れのように過ぎていきます。当たり前のことですが、過去に戻ることはできません。そう考えると、今日という1日や、今という時間は、人生のなかで再び過ごすことができない、大切な時間だと感じませんか。あと戻りできない時間だからこそ、尊く、貴重なものだと言うことができると思います。
 そして、時間と同じく、私たちを含めたすべてのものは、変化していきます。それを仏教では、「無常」といいます。だから、みなさんも、時間が流れていくように、常に変化しているのです。
 平安の言うところの「今という時間」「青春という時間」「人生という時間」という3つの時間を大切にしてください。みなさんにとって、この3つは、どれもかけがえのない大切な時間です。

 そして、高校の新入生に向けた文章では、次のように記しております。

鴨長明は、一瞬一瞬、変化しているのに、同じように見える川の流れを見て、
 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び て、久しくとどまりたるためしなし。 (『方丈記』)
と言いました。時は、刻一刻と過ぎ、同じ時間をもう二度と経験できません。
 大切な人に「じかんを大切に」過ごして欲しいと願っています。目標に向かって、懸命に取り組めていると、「じかんを大切に」できていると感じ、うれしくなります。時には、その場に立ち止まったり、道に迷う時間も大切な時間だと思います。しかし、そのまま何もしないでいる人を見ると、もったいない、何とかしたい、何とかしたらいいのにと思い、「じかんを大切に」と声を掛けたくなります。
 自分自身を振り返ると、何かに失敗したり、うまくいかなかった時、「じかんを大切に」しなければいけないと思い知らされます。試合で敗けた時、もっと練習していたらよかったとか、大切な人を失った時、もっと一緒にいた「じかんを大切に」しておけばよかったと後悔します。そして、同じ失敗をしないようにしたいと強く思います。しかし、失敗した時の気持ちは次第に弱くなり、同じ失敗をしてしまいます。そんなことを何度も何度も繰り返してしまいます。
 親鸞聖人は9歳の春に、「明日ありと思ふ心のあだざくら 夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれたといわれます。明日があると思い咲き誇っている桜の花が、夜中の強い風に吹き散らされてしまうのと同じように、私たちの命も永遠のものではありません。だからこそ、今、しなければならないことがあるということを意味しています。
 また、お釈迦さまは「世は無常である。怠りなく努力をせよ」と遺言されました。すべてはとどまることなく変化していきます。今日の時間の使い方で、いや、たった今、この一瞬の行動で、全く違う明日になるかもしれません。今、私が行うべきことは何でしょうか。みなさんが平安で過ごす学校生活の中で、大きく成長することを願い、「建学の精神」に基づいて、「じかんを大切に」という言葉を掲げています。どうか「じかんを大切に」という願いの中で、充実した学校生活を送ってください。

 とこのようにあります。毎週一回行われます龍谷大平安での仏参で「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまのご本願を鏡として自分を照らしてみる、つまり、仏さまの鏡に照らして自分を見つめてみる大切な時間です。
 この仏参こそ『建学の精神』に触れる機会であり、そういう機会を大切にすることが、何を隠そう私たちの自己中心的な見方を変えていくことになるのです。
 このような機会を得ていくことで、私たちの見方や考え方に自然と変化が出てくるのです。ここに、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みと感じることが出来る、他人への思いやりの心が育まれているのです。
 どうぞみなさん、仏参では、「南無阿弥陀仏」のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただき、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めて日々を送りましょう。その生き方を心がけることが、お互いに敬い合い、助け合いながら、日々の生活を送ることに繋がるのです。
 現在、熊本で甚大な地震が起こっています。あちらこちらで避難指示や避難勧告がでています。私たちに今できることを探して、たとえ何も出来なくても「寄り添う」という気持ちはしっかりと持ちたいと思います。そして、私たちの身にもいつ何時ふりかかってくるかも知れません。事が起きた時に備えて、来る5月2日の防災訓練(避難訓練)にしっかりと取り組みましょう。
 このことをお願いしまして仏参のお話を終わります。

平成28(2016)年度 御命日法要【4月】 2016年04月18日(月)20時26分

【ご案内】
 龍谷大学付属平安高等学校・中学校の「建学の精神」は「浄土真宗の精神」です。浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへと転換させたいという阿弥陀仏の誓願に他なりません。迷いとは、自己中心的な見方によって、真実を知らずに自ら苦しみをつくり出しているあり方です。悟りとは自己中心性を離れ、ありのままのすがたをありのままに見ることのできる真実の安らぎのあり方です。阿弥陀仏の願いに照らされ、自らの自己中心性が顕わにされることにおいて、初めて自分中心の勝手な考え方にとらわれるのではなく、広く柔らかな考え方ができるようになるのです。
 本校は、阿弥陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩まれた親鸞聖人の生き方に学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育てます。このことを実現するための日常の心得として以下の3つの「大切」を掲げています。これらはみな、建学の精神あってこその心であり、生き方です。
   ことばを大切に
     正確な言葉・やさしい言葉・ていねいな言葉
   じかんを大切に
     今という時間・青春という時間・人生という時間
   いのちを大切に
     いただいているいのち・願われているいのち・支えられているいのち

◎龍谷大学付属平安高等学校・中学校~「徳育(宗育)」の具現化
 本校では、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけています。
 ことばは「お名号」のこと、じかんは「無常」のことで、この世のありとあらゆるものは時々刻々と移り変わることを意味しています。いのちは「お浄土」のことです。これを中学生にも高校生にもわかりやすい形でことば・じかん・いのちの三つを大切にということで示しています。いのち・じかん・ことばの順で説明いたします。
 まず、いのちについて説明します。私のいのちを考えてみますと、前生(生まれる前)・今生・後生(死んでから)と分けられます。その中で、私たちは、今生(こんじょう)だけをいのちと考えがちです。しかし、私は今生の限りある有限の生物的な生命を過ごしているにすぎないのです。父や母や祖父母などこの先祖のだれが欠けても生まれてこなかったいのちなのです。そう考えるとき、どうして私の誕生があったのかという前生(ぜんしょう)と、死んだあとはどこへ行くのかという後生(ごしょう)と、つまり、私たちのいのちは今生だけの限りある、そこで終わるいのちではなく、阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るのです。真実(まこと)の世界に生まれかわる、つまり、お浄土に往(い)って生まれる浄土往生なのです。
 次に、じかんについて説明します。先ほど言いました私たちは阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るということに気づくのは、今をおいてほかにはありません。時間とは無常です。諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日、もっと言うなら、今、すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。(仏の教えではなく仏に成る教えです)
 最後に、ことばについて説明します。では、後生は往生浄土と、どなたが決めてくださったのでしょうか? それは阿弥陀如来になられる法蔵菩薩さまの18番目の本願に「衆生(しゅじょう)を仏にせずにはおれない」で約束されています。私たちは弥陀の号(みな)である南無阿弥陀仏を呼ぶのです。声に出すのです。実は仏さまの「おはたらき」により私の口を通して号を称えさせてくださっているのです。この声を私は耳で聞きます。これが「聞法(もんぼう)」なのです。
 以上をまとめますと、いのちを大切にする生き方は、すなわち、じかんを大切に生きる姿そのものであります。そして往生は臨終によって定まるのではなく、信ずる心「信心」が定まる時に定まるわけですから、私の口を通して発することばこそ、本当に大事にしなければならないのです。

…… おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”……

4月 御命日法要 
○ 日時 4月18日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 学校長
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

平成28(2016)年度 前期始業式(高校) 2016年04月11日(月)10時17分

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 3月9日の終業式のあと、全体としては春休みに入ったわけですが、選抜特進と一貫選抜のみなさんは、ドラゴンゼミ春期講習や勉強合宿が行われました。その間、ご承知の通り硬式野球部が第88回選抜大会でベスト4まで勝ち上がりましたが、準決勝戦で奈良の智辯学園に最終回逆転サヨナラ負けを喫して、甲子園99勝で戦いを終えました。88回大会は智辯学園の初優勝で幕を閉じました。平安の甲子園100勝は夏までお預けです。
 また、同じく選抜大会や全国大会に出場されましたフェンシング・卓球・チアダンス・陸上・ゴルフ・競技かるたの出場選手も全国の強豪との対戦、たいへんお疲れ様でした。この大会では、どのクラブもよく頑張りましたがあと少し奮わずということで、インターハイならびに夏の各大会での活躍を願っているところであります。いずれにしましても慌ただしい束の間の春休みだったと思います。
 さて、本日より平成28年(2016)年度がスタートいたします。今春456名の新入生を迎えて高校生が1350名ということになります。また、終業式でも触れましたが、本年5月21日「龍谷大平安」は満140歳となります。その開校記念日を皮切りに全ての学校行事は140周年の記念行事となります。そして、11月12日(土)、ご門主様のご臨席を賜り、記念式典を挙行いたします。みなさんにも何かとご協力をお願いすることとなりますが、何とぞ宜しくお願いします。この記念すべき年、学校行事なども色々と趣向を凝らしていただき、特別な年と位置づけ、活気溢れる龍谷大平安の1年間であることを心より願っています。
 それでは、私の式辞は、本年2016(平成28)年、本校が創立140周年を迎えるにあたり『建学の精神』を広く深く伝えたいとの願いのもとに作成しました「平安の願い“三つの大切”」から「ことばを大切にⅡ」という高校生向けの文章の内容を少しご紹介いたします。

 「南か北か、どちらが暖かいですか?」
 南が暖かいと答えたいところですが、北が暖かいと言う人がいたら、あなたならどうしますか。
 「南が暖かいに決まっているじゃないか。そんなことも知らないのか」
 そうした厳しい言葉を発してしまうかもしれません。そもそも日本は北半球にありますので、赤道に近づくほど気温は高くなり、南が暖かいことは正しいでしょう。
 しかし、南半球に住む人はおそらく北が暖かいと答えます。赤道は北の方角にあるからです。したがって、この「正しさ」は北半球に住む人たちだけのものであって、場所や立場によって変わるのです。
 正しいと思って言ったが、強い口調で言ったために相手を追い詰めて気まずくなってしまった。親切のつもりで言ったことがおせっかいだった。などなど、良かれと思って発した一言で相手を困らせることはよくあります。言葉に関するトラブルは絶えません。
 実は、その原因の1つは自分が正しいと思い込むことなのです。すこし考えてみましょう。
 仏教では正しいことであっても自分の立場にこだわることは、愚かなことだとされます。もしそれが受け入れられなければいらだった口調になったり、立場にこだわるあまり不用意に主張をぶつけてしまい、相手との関係を悪くさせることがあります。結果、苦悩を生み出すことになるからです。引っ込みがつかず「ごめん」の一言が言えなければ、ますます関係が悪くなり自らの心を悩ますことにもなりかねません。
 問題なのは、私たち人間が自分ではその愚かさになかなか気づけないことです。詩人の吉野弘さんが次のような一節を書かれています。

 ただしいことを言うときは、少しひかえめにするほうがいい。
 ただしいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと、気づいているほうがいい。(『祝婚歌』)

 ここでは正しいことを言うとき、相手を傷つけてしまうかもしれないと自覚することが大切だと述べられます。
 仏さまの教えは鏡にたとえられます。教えを通して、自分のありのままの姿が明らかになるからです。自分のあり方を学ぶことで、相手を思いやる心を育み、人との関係を良好に保つことにもつながるのです。「建学の精神」を通して「ことばを大切に」できる人へとお育てをいただくことで、心豊かな学校生活を送ることができるのです。

 とこのように記しております。どうか、心が喜ぶ素敵な言葉を使ってください。優しい思いやり溢れる言葉を、口にしてください。言葉には、自分を幸せに導く素晴らしい力があります。それが「ことば・じかん・いのちを大切に」と申しております龍谷大平安の願いでもあります。
 ご本尊であります、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)は、常に私たちを照らしてくださっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させ、「素直な心」と「謙虚な心」、そんな、心のありようを意識して、おかげさまで~ありがとう“感謝”、の心を持って日々の生活を送ってください。
今年度の始まりにあたり、このことをお願いして、式辞といたします。

平成28(2016)年度 龍谷大学付属平安高等学校・中学校 入学式 2016年04月07日(木)12時29分

学校長式辞

 春爛漫の今日の佳き日、本日ここに、龍谷大学付属平安高等学校の平成28(2016)年度入学式を挙行いたしましたところ、浄土真宗本願寺派総務 霍野廣紹 様、龍谷大学学長 赤松徹眞 様をはじめ、平安同窓会・保護者会の役員の方々、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
新入生456名のみなさん、龍谷大学付属平安高等学校へのご入学、おめでとうございます。
~以下、中学入学式/式辞内容~
 新入生119名のみなさん、龍谷大学付属平安中学校へのご入学、おめでとうございます。新入生の保護者のみなさま、ご子女の晴のご入学を心よりお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 さて、今から5年前の3月11日、東日本大震災が起きました。また、今から21年前の1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きました。時間とともに記憶から薄れてしまいそうになりますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。そして、今こうして今日のこの日が迎えられたことを、心から「ありがたい」と感謝いたしたいと思います。
 それでは、私の式辞は、本年2016(平成28)年、本校が創立140周年を迎えるにあたり『建学の精神』を広く深く伝えたいとの願いのもとに作成しました「平安の願い“三つの大切”」から「ことばを大切にⅠ」という中学生向けの文章の内容を少しご紹介いたします。

ひとつのことばで けんかして
ひとつのことばで なかなおり
ひとつのことばで 頭が下がり
ひとつのことばで 心が痛む
ひとつのことばで 楽しく笑い
ひとつのことばで 泣かされる
ひとつのことばは それぞれに
ひとつのことばを 持っている
ひとつのことばは 大切に
ひとつのことばは 美しく (「ひとつのことば」)

 詩人の北原白秋さんが作ったとされる「ひとつのことば」という詩です。みなさんは、家族の人たちをはじめ、学校の先生や友だちと会話をするとき、きちんと言葉を選んで使っていますか。この詩で言われているように、自分が発したひとつの言葉で、相手とけんかになることがあります。しかし、相手が親しい関係であれば、「ごめん」の一言でなかなおりすることができます。それだけ口から発せられる言葉の力は大きく、ひとつの言葉であっても、相手を笑わせ喜ばせることもできれば、泣かせ悲しませてしまうこともあるのです。
 お釈迦さまは、次のようにお説きになりました。

 人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り 割くのである。(『ブッダのことば』)

 「口の中に斧がある」というのは、言葉のことを指しています。相手が嫌がるような悪口を言うことによって、言葉という見えない斧が自分の心をも傷つけているということです。それは相手の心も傷つけることになり、どれだけ言葉の力が大きいかがわかります。普段から汚い言葉や乱暴な言葉を使わないように意識することを心がければ、まわりの人の心も自分自身の心も傷つかずにすむのではないでしょうか。
 人と会話をするときは「正確な言葉」を使い、思いやりのある心で「やさしい言葉」をかけ、「ていねいな言葉」を使う。平安では「建学の精神」のもと、この3つのキーワードを大切にしています。
 これらのキーワードを心に留めて、これから始まる生活のなかで、相手を思いやる気持ちを大切に、たくさんの新しい友だちと良い関係を作っていってください。
 と記しています。これから大人の階段を一段一段登っていくみなさんへ。どうか、心が喜ぶ素敵な言葉を使ってください。優しい思いやり溢れる言葉を、口にしてください。言葉には、自分を幸せに導く素晴らしい力があります。それが「ことば・じかん・いのちを大切に」と申しております龍谷大平安の願いでもあります。
 新入生のみなさんは、あちらこちらから、縁あってこの龍谷大平安に入学なさいました。どうして友達になろうか、それぞれの育った環境も言葉も違うから、どんな言葉で話せばいいだろうか、という不安もあるかも知れませんが心配はいりません。先にも申しましたが、みなさんはこれからも、心が喜ぶ素敵な言葉を使って、優しい思いやり溢れる言葉を口にしてください。このことを心がけていただければ、素晴らしい友、仲間が自然と出来ます。
 ご本尊であります、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)は、常に私たちを照らしてくださっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると「素直な心」と「謙虚な心」が根づきます。そんな、心のありようを意識して、おかげさまで~ありがとう“感謝”、の心を持って日々の生活を送ってください。
 私たち教職員は、みなさんを時には叱り、時には励ましの声を、常にかけ続け、特に、担任は、みなさん一人一人と膝と膝をつき合わせて、しっかりと関わっていきます。みなさんは、しっかりと「こころの知性」を磨き、人間力を高めるべく心豊かな中学校生活を送られることをお願いしまして、私の式辞といたします。