【ご案内】
釈尊のことば
本願寺派総合研究所所長 丘山 願海
他の人びとの過ちを見るなかれ。心はきわめて見がたく、
まことに微妙で、欲望のままに動き回る
聡明な人はこの心を制御し、制御された心は幸せをもたらす (ダンマ・パダ36偈)
心の在りよう見つめ、どう制御するか
「心は捉えがたく、軽くたちさわぎ、欲望のままに動き回る」(35偈)、「心は遠くにさすらい、独り動き、姿かたちなく胸の奥深くに潜んでいる」(37偈)と前後にも心について述べられます。
心って、本当に不思議です。喜んだり、悲しんだり、また苦しむ。しかも、悲しもうと思って悲しむわけでなく、喜びたいと思って喜べるわけでもない。自分の心は自分のものでありながら、思い通りにならず、頭で制御することもできません。この偈は、欲望に振り回される心は、見ることもできず、捉えがたく、制御するのがとても難しいと言っています。
私の心って、身体のどこにあるのでしょう?心は、心臓や肺などの身体の一部のような存在ではありません。で、心は「物」でない。空の思想家・龍樹菩薩なら「心という言葉だけがあり、実際には存在しない」といわれるでしょう。実体なきものにしがみつくから苦しみが生じる、というのが思想の根本だからです。でも、デカルトの「我思う、故に我在り」に倣えば、「心が(喜怒哀楽を)感じる、故に心在り」とも言えます。まったく「心は見がたく、微妙で」「捉えがたい」という通りです。私たちが「心」というのは、物的な存在でなく、喜び悲しむ「はたらきそのもの」なのでしょう。
心の在りようを見つめ、どう制御するかを探求してきたのが仏教です。これは人類の精神史でも際だった特色です。そして、人間の心の在りようや欲望の根深さを見抜かれたのが、親鸞聖人なのです。
(「本願寺新報」6月10日(水)掲載)
EQ「こころの知性」
私は,人間の「言動」(言葉と行動)はすべて心の在りように始まると考えています。 仏教では人間の欲望を、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つに分け、三毒の煩悩 (ぼんのう) と言います。いずれも,自己中心の考え,それにもとづく事物への執着心から生ずるものです。つまり,自分の心の在りようを見つめ,その心を、どのようにコントロールするかということです。
心の持ち方,感情を落ち着け,情緒を常に安定したところには,素直な心と謙虚な心が根づきます。その心の在りようをみんなが意識して日々の生活を送れば,本当にすばらしい人間関係や環境が築けるはずです。
(本校 HP 学園紹介 校長挨拶より抜粋)
7月 御命日法要
○ 日時 7月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 佐長 道亮 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。