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平成27年度 防災訓練(避難訓練等)実施 2015年05月08日(金)12時30分

学校長 訓話

 学校における防災教育の目的は、自らの生命(いのち)を大切にし、他の人々を思いやる心の教育と位置づけ、地域の安全に役立つための防災態勢を理解できることであります。この目的を具体化するための一つとして、安全行動ができる防災訓練が必要なのです。
 生徒一人ひとりが、自分の身を自分の努力によって守ること(自己責任による自助の考え方)と、普段から顔を合わせているクラスの仲間が互いに協力し合いながら、防災活動に取り組むこと(助け合いという共助の考え方)が必要です。そして、この「自助」・「共助」に学校の危機管理体制という「公助」が有機的に繋がることにより、被害を最小限にとどめることが出来るのです。特に、クラスメートや仲間が協力し合う体制をつくったり、そうした活動、つまり「共助」は、自主防災活動の中核です。
 先ずは、災害・防災の正しい知識を習得することから始まるわけですが、その前に日々の学校という生活空間について、防災の視点から避難経路等を確認しておかなければなりません。そして、何より「人を知る」ことが重要な鍵を握っています。つまり、クラスの人数など、誰がいないとか、そのような関係をつくっておくことが大切となります。
 今回の防災訓練は、地震を想定した避難訓練です。したがって、直ちに安全な場所への避難が必要になります。この訓練における注意点は、以下の通りです。
  ①避難指示の伝達
  ②避難生徒人数の確認
  ③安全な避難方法と避難経路の確認
 本当に地震など災害が発生した時、正確で迅速な情報の収集と伝達活動が欠かせません。いかに冷静沈着な行動がとれるかということです。万が一にそなえ、今日の防災訓練が意義あるものとなりますよう願っております。
 本日、お釈迦様の誕生をお祝いする花まつりの行事を一ヶ月遅れで営みました。
 私たちの人生は、何が起こるかわかりません。この世の中はどんなことが起こっても不思議ではないのです。仏教というのは、思いもよらぬ災難が来ないように祈る宗教ではありません。どんな思いがけない災難にも耐え、それを乗りこえていく正しい智慧の眼を開かせるのです。これが「仏さまの『智慧』」です。
 東日本大震災から4年、今年は阪神淡路大震災から20年がたちましたが、今なお、苦しみや悲しみの中で生活されている方々に「慈しみ寄り添う心」『慈悲』の心をしっかりと持ちましょう。そして、時間とともに記憶から薄れつつありますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。
 今こうして今日という日が迎えられていることを、心から「ありがたい」と感謝いたしましょう。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年05月01日(金)08時10分

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五月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成27(2015)年度 仏参【4月】 校長講話 2015年04月24日(金)12時30分

学校長講話

みなさん、おはようございます。
 さて、昨年度(2014)の生徒手帳には『智慧』という言葉を記させていただきました。今年度(2015)の生徒手帳にしたためさせていただきましたのは『慈悲』です。それでは、智慧と慈悲について、お話させていただきます。
 慈悲とは、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みとなる心で、智慧とは、その相手を救うために心理を深く洞察することです。この私が仏さまの智慧と慈悲を完成していくのではありません。仏さまの智慧と慈悲が私の身の上に届いて内なる心を成長させてくださるのです。その私がどうあるべきかを大切に考えたいものです。と、このような説明になりますが、少し難しいですね。
 もう少しかみ砕いて説明いたしましょう。まず智慧ということですが、智慧の智とは外面がありのままに見えるということです。私たちは、外を見るのも先入観や自分の好き嫌いで見ていますから、ありのままにものが見えていません。おそらく、外面の半分も見えていればいい方かもしれません。
 智慧の慧とは、ものの内面というか、背後がありのままに見えるということです。私たちは、毎日、顔を合せ一緒に住んでいる家族のことも、よく見えていません。私自身を考えても、確かに、子供の身長や体重の成長は見えていても、今、子供が、どんな気持ちで親を見ているのか、どんな思いで日々を送っているのかは、見えていません。夫婦でも、お互いに年を取ったことは見えていても、お互いの思いは、解かっているようで実は解かっていません。
 周りの人が見えないということは、自分もよく見えていないということです。私たちは、とかく、自我に執着してしまいます。自我とは、みなさんがよく言う「自己中」と言っていいでしょう。その自己中心的と言いますか、「我」を通すことだけに力が入り、周りの人の気持ちや思いを受けとることがお留守になっているのです。この「我」こそが、ものを見えなくする諸悪の根源なのです。この「我」が開かれるところに智慧の世界があるのです。「我」が開かれ周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてきますと、自分の非なるところが見えてきます。この自分を非と受け取る心が、慈悲の悲なのです。正に、慈悲の悲という字は、非の下に心と書きますね。
 それでは、智慧の説明にもどりますが、お釈迦様は、悟りをひらかれた体験から、人間が生まれながらに持っている偏った見方や自分独りよがりの考え方ではなく、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されました。その「ありのままの真実」を見ること、それが「智慧」なのです。「ありのままの真実を見ること」と言われても、多くの人は「いったいどういうことなのか」と、思われるでしょう。
 ごくごく分かりやすい例で言いましょう。「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分の利益にならない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、見分けたりするのも、結局は自分というモノサシではかっているのです。
 仏教は、この自分のモノサシ、モノサシは先ほど申しました「自我」にあたります。この自分のモノサシ、「自我」こそあらゆる苦悩を生み出す原因であると考えます。仏の智慧は、自己中心的なものの見方や自分独りよがりの考え方というモノサシを超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあります。
 お釈迦さまは、「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、また、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味をもつものになる」とお示しくださっています。つまり、人間は自分の勝手な思い込み、自分に視点を置き、自分中心にものを見ているに過ぎないのです。
 この智慧のない人間は、常に自分を是とし、他の人を非とします。わかりやすく言いますと、何でも自分が正しく、他人が間違っているとみて、何かあると、他人を裁き、責める生き方しかしません。智慧によって自分の非を知らされた人は、他人を裁いたり、責めたり出来ません。つまり、周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてくると、自分の非なるところが見えてき、自分を非と受け取る心が芽生えてくるのです。だから、あの人も、この人も、私と同じ悲しみをもったお仲間であると手を取り合って行くしかないのです。
 そして、慈悲の慈とは、自分を非と受け取る心によって開けてくる友情というか仲間意識の芽生えということになります。慈は「いつくしむ」と読みますが、自分を高い所において、他人を下に見て手を差し伸べるということではありません。同じような悲しみを共有するお仲間として手を取り合うのが慈です。智慧のない人に本当の慈悲の心はありません。従って、慈悲は智慧によるのです。他人を慈しみ寄り添う心を持ち、共に生きるという「共生(ともいき)」の精神が、みなさんも、この私も、「こころの幹(き)」を育てることに繋がるのだと思います。
 みなさんも、私も、仏の智慧を持って他人に対し、慈悲の心で接することを心掛けたいものです。

平成27(2015)年度 御命日法要【4月】 2015年04月16日(木)17時59分

【ご案内】

 ご承知のとおり、龍谷大学付属平安高等学校・中学校の「建学の精神」は、ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切にです。ことばは「お名号」のことで、じかんは「無常」のことで、この世のありとあらゆるものは時々刻々と移り変わることを意味しています。いのちは「お浄土」のことです。これを中学生にも高校生にもわかりやすい形でことば・じかん・いのちの三つを大切にということで示しています。説明は、いのち・じかん・ことばの順でします。
 まず、いのちについて説明します。私のいのちを考えてみますと、前生(生まれる前)・今生・後生(死んでから)と分けられます。その中で、私たちは、今生(こんじょう)だけをいのちと考えがちです。しかし、私は今生の限りある有限の生物的な生命を過ごしているにすぎないのです。父や母や祖父母などこの先祖のだれが欠けても生まれてこなかったいのちなのです。そう考えるとき、どうして私の誕生があったのかという前生(ぜんしょう)と、死んだあとはどこへ行くのかという後生(ごしょう)と、つまり、私たちのいのちは今生だけの限りある、そこで終わるいのちではなく、阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るのです。真実(まこと)の世界に生まれかわる、つまり、お浄土に往(い)って生まれる浄土往生なのです。
 次に、じかんについて説明します。先ほど言いました私たちは阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るということに気づくのは、今をおいてほかにはありません。時間とは無常です。諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日、もっと言うなら、今、すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。(仏の教えではなく仏に成る教えです)
 最後に、ことばについて説明します。では、後生(ごしょう)は往生浄土と、どなたが決めてくださったのでしょうか? それは阿弥陀如来になられる法蔵菩薩さまの18番目の本願に「衆生(しゅじょう)を仏にせずにはおれない」で約束されています。私たちは弥陀の号(みな)である南無阿弥陀仏を呼ぶのです。声に出すのです。実は仏さまの「おはたらき」により私の口を通して号を称えさせてくださっているのです。この声を私は耳で聞きます。これが「聞法(もんぼう)」なのです。
以上をまとめますと、いのちを大切にする生き方は、すなわち、じかんを大切に生きる姿そのものであります。そして往生は臨終によって定まるのではなく、信ずる心「信心」が定まる時に定まるわけですから、私の口を通して発することばこそ、本当に大事にしなければならないのです。
 本校の建学の精神をご説明し、平成27年度最初の御命日法要にあたり、あらためて「いのちの大切さ」を考えさせてもらいました。
                       燧土勝徳

4月 御命日法要 
○ 日時 4月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 学校長
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

平成27(2015)年度 前期始業式 2015年04月09日(木)15時17分

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 さて、高校生は春休み中、ドラゴンゼミ春期講習や「るり渓少年自然の家」での勉強合宿が行われました。また、選抜大会・全国大会に出場したフェンシング・卓球・硬式野球部・チアダンス・個人で柔道は全国の強豪との対戦、たいへんお疲れ様でした。この大会では、チアダンス部が中学高校共に準優勝という結果をおさめてくれました。よく頑張りました。あとのクラブは残念ながら奮わず、インターハイならびに夏の選手権まで優勝はお預けとなりました。中学生もこの春休み中、勉強やクラブ活動で学校にずっと登校していた人など、様々だと思います。いずれにしましても慌ただしい束の間の春休みだったと思います。
 さて、本日より平成27年(2015)年度がスタートいたします。今春、高校は498名・中学は149名の新入生を迎えて、高校生が1425名・中学生が371名となりました。学校行事など全てにおいて今まで以上に活気溢れる龍谷大平安になることを心より願っています。
 それでは今日は「かしこいと勘違い」と題して「本願寺新報 みんなの法話」に掲載されていました内容を交えながら少しお話をいたします。
 みなさんの生徒手帳に「生徒心得」の礼節として、7つ掲げています。その六つ目に「長上に対しては、常に敬意の念をもって接し、礼を欠くことのないよう心掛け、特に校内校外を問わず、教職員に対する礼を忘れてはならない。」とあります。また、七つ目に「学校への来客に対しては会釈をし、敬意をもってこれを迎え、不快の念を与えないように注意すること。」と記しております。
 龍谷大平安の生徒は、オープンキャンパスや学校説明会はもとより、常日頃から、本当に気持ちよく笑顔で挨拶をしてくれると、多くの来校者から言われ、たいへん嬉しく思います。そのことは、みなさんを褒めたいとも思いますし、挨拶の励行を申しております平安の誇りでもあります。
 これは良いことなのですが、さて、みなさん。親や先生、目上の人に対して、今までに反抗的な態度をとったことはありませんか。親や先生の言われることを、素直に聞かず、反論ばかりしてはいませんか。もう中学生ともなれば、立派に大人の仲間入りをしたと思っていませんか。大人も子どもも一人前の人間として対等であると考えていませんか。確かに「いのち」という観点から見れば、優劣などあるはずがありませんので、大人も子どもも関係なく、人はみな対等と言いますか、等しく平等であります。
 ただ、本当に賢い人は、未成熟な子どもに対しても理解できるよう、会話の程度を下げて話をされます。ところが未熟な者ほど、自分の愚かさを知りません。賢い人と対等に話ができると思ってしまいます。自分も賢くなったと勘違いしてしまうのです。対等になったという思い上がりの心は、賢い人の話を素直に聞くことができません。また、相手を見くだす心にもつながります。
 阿弥陀如来と私の関係も似ていますね。如来さまは、私のことをよくご存知でいらっしゃいます。しかし、私は如来さまのおさとりの世界を量(はか)り知ることができません。そんな私のすべてを見抜き、すべてをお見通しの上で、私にあわせてご用意してくださったおみ法(のり)が「南無阿弥陀仏」なのです。その中身は「わが誓いを信じ念仏せよ。必ず清らかなさとりの世界に生まれさせる」ということなのです。
 しかし私は、如来さまの智慧によって仕上がったおみ法を、自分の思い量らいを持って理解しようとしています。つまり、自分勝手な思いで理解しようとするのですから、わかるはずがありません。さらには対等になった錯覚から、如来さまの仰せを謗(そし)ることにもなります。
 親鸞聖人の師匠である法然上人は「愚者になりて往生す」と言われました。愚か者と思えということではありません。如来さまの側で、この私を愚者と見抜かれての仰(おお)せを、自分勝手な思い込みを雜(まじ)えず、聞こえたままに受け容れるのです、と言われたのです。唯一、その中で愚者の自覚が芽生えていくのでしょう。
 浅はかな私の知恵や努力では、おさとりの世界にはいたれませんが、如来さまの仰せの通りに受け容れていれば、必ず、往き生まれることのできるおみ法なのです。つまり、浄土に往生できるのです。
 自分は賢いと勘違いしている私の思い込みが、如来さまのお救いのみ法を難しくさせているのです。ただただ、如来さまの仰せの通りお念仏申すことが大切なのです。
 少し難しかったかも知れませんが、龍谷大平安の仏参は、そんな私の自惚れの心を「それでいいのかな」「私は強がりを言っているんじゃないかな」と自分に問いかけ、向き合う修練の場です。毎週の仏参や様々な宗教行事を通して、先生方やいろんな方からのお話を聴聞し、自分の心と照らし合わせてください。そして、自分の思い上がりの心に向き合ってください。そんな思いで聴聞(ちょうもん)してくれることを願っています。
 最後に、今年度の生徒手帳には「慈悲」という言葉を記させていただきました。そして、今年度のスローガンを「智慧と慈悲」としました。「慈悲」とは、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みとなる心のことです。他人の心の痛みがわかる優しい人になって欲しいのです。共に生きる者として、互いに、慈しみ寄り添う心を持って学校生活を送ってください。今年度の始まりにあたり、このことをお願いして、式辞といたします。

平成27(2015)年度 龍谷大学付属平安高等学校・平安中学校 入学式 2015年04月06日(月)15時06分

学校長式辞

 桜花爛漫の校庭に陽光があふれる今日の佳き日、龍谷大学付属平安高等学校(中学校)の平成27(2015)年度入学式を挙行いたしましたところ、多数のご来賓のご臨席を賜り、衷心より御礼を申し上げます。
 新入生のみなさん、龍谷大学付属平安高等学校(中学校)へのご入学、おめでとうございます。新入生の保護者のみなさま、ご子女の晴のご入学を心よりお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 さて、今から4年と1ヶ月前の3月11日、東日本大震災が起きました。また今年は、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きてからちょうど20年となります。時間とともに記憶から薄れてしまいそうになりますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。そして、今こうして今日のこの日が迎えられたことを、心から「ありがたい」と感謝いたしたいと思います。
 それでは、私の式辞は、龍谷大平安の三つの大切「ことば・じかん・いのち」の「ことば」について少しお話をします。
 みなさんは、毎日どんな言葉を使っていますか?
 PHPという雑誌に掲載されていました、真島みほさんという方の文章を紹介いたします。
 二十年あまりの結婚生活を終えた彼女は、半分以上の聴力を失っていました。左耳はまだ聞き取れていましたが、右耳は既に音を失っていました。聴力を失った原因は定かではありませんが、当時の彼女は身体のあらゆるところに痛みを感じ、眠れず、食べられず、心も極限まで衰弱していました。生きる希望を失い、音まで失いつつありました。
 平成二十二年の春、彼女は、身体障害者手帳六級の交付を受けました。医師の診断は「感音性難聴でこれからも聴力は低下していき、完全に聞こえなくなることもあります」とのことでした。新しい人生を始めたばかりなのに、その言葉によってまた彼女は奈落の底に突き落とされました。けれども、転機はある日突然訪れました。今までは難聴であるということを認めず、聞こえているふりをしていた彼女ですが、仕事の上で支障をきたすことが多くなり、ついに補聴器をつけることになりました。するとどうでしょう。
 初めて補聴器をつけて帰った日のことです。両手を合わせて擦ると、音が聞こえてきました。彼女はたくさんの音を忘れていたのです。風の音、鳥の声、本のページをめくる音などなど。その日は、生まれたての赤ん坊のように、ワクワクし通しだったと言います。そして、大切なことに気付いたのです。彼女の耳が、一番聞いていた音は自分の声だったのです。その時に初めて、彼女は自分が不幸だった原因が解ったような気がしました。彼女は、常に悲観的で、いつも心配事を探し不平不満や愚痴、泣き言を口にしていました。きっと、知らず知らずのうちに人を不愉快にさせていたのでしょう。そして、彼女を大切に思ってくださる人たちにも随分心配をかけてしまったと後悔しました。
 補聴器を通して、はっきりと聞こえてくる自分の声を聞いて、初めて自分の愚かさを知りました。彼女の耳も、今までは、その醜い暗い言葉を聞きたくなかったから聞くのをやめたのでしょう。自分がマイナスの言葉を口にすることで、不幸を招き、心を病み、身体も病んでいったのだと、彼女はそう感じました。
 それからです。マイナスの言葉は口に出さず、前向きな言葉、褒める言葉、感謝の言葉を常に使うように心がけました。そうすると、不思議なのですが、嬉しいことがたくさん起きるようになったのです。向上心を持った尊敬できる人たちと出逢い、新しい友人も増えました。彼女は今、昔がウソのように、毎日笑顔で明るく楽しく暮らしています。日々、感謝の気持ちでいっぱいですと言われています。
(「大人になる君たちへ伝えたいこと 心が喜ぶ明るい言葉を 真島みほ」より)
 これから大人の階段を一段一段登っていくみなさんへ。どうか、心が喜ぶ素敵な言葉を使ってください。優しい思いやり溢れる言葉を、口にしてください。言葉には、自分を幸せに導く素晴らしい力があります。それが音を失いつつある彼女からのメッセージであるとともに「ことばを大切に」と申しております龍谷大平安の願いでもあります。
 最後に、金子みすゞさんの「転校生」という詩を紹介いたします。

よそから来た子は/かわいい子、/どうすりゃ、おつれに/なれよかな。
おひるやすみに/みていたら、/その子は桜に/もたれてた。
よそから来た子は/よそ言葉、/どんな言葉で/はなそかな。
かえりの路で/ふと見たら、/その子はお連れが/出来ていた。

 新入生のみなさんは、あちらこちらから、縁あってこの龍谷大平安に入学なさいました。どうして友達になろうか、それぞれの育った環境も言葉も違うから、どんな言葉で話せばいいだろうか、という不安もあるかも知れませんが、この詩にあるように心配はいりません。ふと見たら、お連れが出来ています。
 先にも申しましたが、どうか、心が喜ぶ素敵な言葉を使って、優しい思いやり溢れる言葉を口にしてください。このことを心がけていただければ、素晴らしい友、仲間が自然と出来ます。
 みなさんがご入学なさった龍谷大平安は、明治9年滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立しました。本年5月21日で満139歳となります。その長い歴史の中で、変わらないものが、建学の精神にもとづいた、「こころの教育」です。仏教的なものの見方ができる、人づくりであります。
 本校では、一般的に『徳育』と呼ばれる心の教育を『宗育』と呼びます。それは、本校の宗教的情操教育が、仏教精神をもとにした宗教的な視点と、素直に人の話を聞く姿勢を大切にするからです。
 ご本尊であります、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)は、常に私たちを照らしてくださっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると「素直な心」と「謙虚な心」が根づきます。そんな、心のありようを意識して日々の生活を送ってください。
 私たち教職員は、みなさんを時には叱り、時には励ましの声を、常にかけ続け、特に、担任は、みなさん一人一人と膝と膝をつき合わせて、しっかりと関わっていきます。みなさんは、しっかりと「こころの知性」を磨き、人間力を高めるべく心豊かな中学校生活を送られることをお願いしまして、私の式辞といたします。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年04月01日(水)08時00分

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四月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

第87回選抜高等学校野球大会出場 壮行会 2015年03月17日(火)17時48分

 お陰さまで、本校硬式野球部が第87回選抜高等学校野球大会に出場いたします。3年連続39回目、春夏通算72回目の甲子園出場となります。その壮行会が本日午後4時15分より国宝となりました本願寺阿弥陀堂にて挙行されました。お忙しい中、ご列席いただきました皆々様に心より御礼申し上げます。
 大会は、今月21日に開幕され、初戦は大会三日目(23日)第3試合(14:00)~浦和学院と対戦いたします。
 開会式では、紫紺の大優勝旗を持って先頭で行進いたします。
ご声援の程宜しくお願い申し上げます。

平成26(2014)年度 龍谷大学付属平安中学校 卒業証書授与式 2015年03月14日(土)14時06分

学校長式辞
 春のお彼岸を目の前にし、校庭の紅梅も見事に花を咲かせ春の訪れを感じる今日の佳き日、龍谷大学付属平安中学校の第68回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部部長 白川了信 様、龍谷大学学長 赤松徹眞 様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、親和会・平安会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜りましたことに、理事長とともに、衷心より御礼を申し上げます。
 また、保護者のみなさま、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。
卒業生65名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 それでは、みなさんに贈る言葉としまして、一つの映画を紹介し、お話しいたします。
 みなさんお馴染みの新垣結衣さん主演の映画『くちびるに歌を』が、先月2月28日に全国でロードショーされました。原作は「乙一」のペンネームでも知られる中田永一さんが、2011年に執筆した同名小説です。
 この小説「くちびるに歌を」ですが、内容は、2008年『NHK全国学校音楽コンクール』の課題曲となったアンジェラ・アキさんの楽曲“手紙 ~拝啓 十五の君へ~”がモチーフとなっています。この歌は、現在中学2年生のみなさんの入学式で少し触れたと思います。そのアンジェラ・アキさんが、合唱コンクールを通して交流した、長崎の五島列島にある若松島の中学生たちとのエピソードを元に書かれたもので、中学校を舞台とした合唱部のお話です。この長崎の五島列島と言いますと、卒業生のみなさんが研修旅行に行った小値賀島があるところですので、四方海に囲まれた素晴らしい風景が目に浮かぶことでしょう。
 主人公の少年少女は卒業生のみなさんと同じ十五歳です。男子嫌いの女の子と、友だちがいない男の子の、ふたつの視点を軸に描いた物語です。
 東京から故郷である長崎・五島列島に中学校の臨時教員として戻ってきたかつての天才ピアニスト・新垣結衣さん扮する柏木ユリを主人公に、合唱部の部員たちの姿が描かれています。その顧問である柏木先生に「15年後の自分」へ手紙を書くという課題を出され、誰にも言えない悩みや秘密を綴るという感動の物語です。
 それでは、みなさんの方がよくご存知かも知れませんが、アンジェラ・アキさんの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の歌詞について、お話しさせていただきます。
 「拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう」で始まります。「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は、誰の言葉を信じて歩けばいいの?」と質問され、「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」と続き、その答えは「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」と述べられています。つまり、「自分を信じ歩けばいい」と答えています。
 そして、「大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど、苦くて甘い今を生きている、人生のすべてに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて、Keep on beliebing」信じ続けて、「いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど、笑顔を見せて 今を生きていこう ~ 拝啓 この手紙読んでいるあなたが、幸せなことを願います」と、励ましのエールを送ってくれています。
 ご本人のコメントによると、みなさんと同じ10代の頃「30歳の自分」に宛てて書いた、未来の自分への手紙が元になっているとのことです。
 今、紹介しました励ましのエール「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」「Keep on beliebing」自分を信じて歩けばいいのです。龍谷大学付属平安中学校で過ごした3年間は、この自分に自信を持てることの根拠となる感性、つまり「こころの知性(EQ)」を磨いてくれる期間だったのです。
 さて、先週と先々週の二週間にわたり卒業生65人全員と数分間の面談をいたしました。平安中学の3年間を振り返り、今の気持ちは?という質問をさせてもらいました。全員が申し合わせたかのように、口を揃えて、「楽しかった」「充実していた」「成長できた」「良き仲間に巡り会えた」と言ってくれました。中には「小学校時代は人前で話すのが苦手だったけど、人前に出ても緊張しなくなった」と言う生徒や最後に何か言っておきたいことはないかと尋ねますと「三年間迷惑をかけてすいませんでした」と言う生徒もいました。素直にすいませんと言えることがとても嬉しかったです。
 いずれにしましても、満面の笑みを浮かべて「楽しかった」と言ってくれたことが何より、本当に心から嬉しく思いました。1日10人前後6日間のみなさんとのお話は、束の間でしたが本当に楽しかったです。みなさん一人一人の顔に、満足感や充実感が漲(みなぎ)っていました。私の方から感謝の言葉を言わせてください。「本当にありがとう!」
 最後に、このあと、平安高等学校に進まれる人、他校へ進学される人がいますが、どうぞ、龍谷大学付属平安中学校で身につけた、素直な心と謙虚な心を持って高等学校でも頑張ってください。
 感性豊かなみなさんに涵養した龍谷大平安の宗教的情操が、こうしてみなさん一人一人にしっかりと染み込んだことをたいへん嬉しく思います。この龍谷大平安が涵養した「こころの知性(EQ)」を基盤にして、未来に羽ばたかれんことを心より念じ、私の式辞といたします。

平成26(2014)年度 龍谷大学付属平安高等学校 後期終業式 2015年03月09日(月)13時47分

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 さて、昨年を振り返ってみますと嬉しいことがたくさんありました。まず、4月2日の硬式野球部の選抜大会初優勝であります。これはなかなか経験のできることではありません。第86回大会の初優勝ですから、それもみなさんの在学中に硬式野球部が果たした結果ですから、硬式野球部はもちろん、みなさんも私たちにとっても、たいへん誇らしいことです。
 続いて、5月16日に西本願寺の境内に並んで立つ重要文化財であった「御影堂」と「阿弥陀堂」が国宝になりました。そして、6月5日第24代即如ご門主がご退任され、翌6日、第25代 専如ご門主が法統をご継承されました。
 一週間後の6月13日37歳のお誕生日を迎えられた専如ご門主は、平安中学校・平安高等学校の卒業生であり、在学中は考古学クラブに所属されておりました。
 また、硬式野球部は夏にも甲子園に出場してくれ、春夏連覇の夢を見させてくれました。夢は初戦で覚めてしまいました。しかし、ご存知のように、この春の選抜大会も3年連続39回目春夏通算72回目の甲子園に出場してくれます。選抜大会の連覇という夢はつづきます。先日は人文字のご協力ありがとうございました。
 また、昨年夏は、常連のフェンシング部・チアダンス部、そして、2年連続の剣道部も全国に駒を進めてくれました。吹奏楽部もマーチングで近畿大会銀賞を受賞し、名実共に龍谷大平安の大フィーバーの一年でありました。
 そして、今年2015年に入って、陸上部が室内陸上で日本ジュニア室内陸上に出場してくれ、フェンシング部が18年連続、卓球部が17年連続、柔道部も90㎏級で1年の林 蒼太君が選抜大会に出場してくれます。さらに、みなさんの後輩、中学のチアダンス部が、ダンスドリル・ウィンターカップにおいて、団体総合で日本一に輝いてくれました。みなさんの活躍はめざましいものであります。元気な龍谷大平安の一年でした。
 それでは、三年生の卒業式にお話しました内容をご紹介いたします。
 私たちは、日々を健やかに過ごしたいと誰もが願っています。しかし、そもそも「健やか」とか「健康」とは、どういうことかとなりますと、なかなか答えるのが難しいです。それは、医学的なものだけでなく、メンタルヘルスの問題である「心の病」があるからです。こうしたものの多くが、日常的なストレスから、生ずるような社会になってしまいました。
 そこで、ある医療社会学者が、「SOC(首尾一貫感覚)」に注目されました。
 首尾一貫感覚「SOC」には、三つの要素があると言われています。すなわち「理解可能感」「処理可能感」「有意義感」です。簡単に言うと、「わかる感」「できる感」「やるぞ感」です。
一つ目の(わかる感)とは、自分の置かれている状況を、一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であるとみなす感覚のことです。
 二つ目の(できる感)とは、少々困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進めるだけの能力が自分にはそなわっているという感覚のことです。
 三つ目の(やるぞ感)とは、今やっていることが、自分の人生にとって意義のあることであり、時間や労力などを費やす価値があるという感覚です。
 ということでおわかりのように、いずれも根拠はないけれど自分に自信が持てるということであり、この世の中に対する基本的信頼感でもあります。つまり、自分を(わかるぞ)、自分で(できるぞ)、よし(やるぞ)と自分で「感じられる」ことが大切なのであります。要するに、気持ちの持ちよう、心の有りよう、ということになりますね。
 では、どうすればSOCを高めることが出来るかというと、まず言えることは、さまざまな状況において、自分自身で判断し、自ら進む方向性を自分で決めるように意識することです。ただし「なんでもかんでも、自分で決める」という意味ではありません。積極的に行くか、流れに任せるかの選択も含めて自分から意識的に行なうという意味です。このような選択の場面では、自分で出来ることを見極めつつ、積極的に適度なストレスを引き受けていくことも、SOCを高めるには大切なことです。その際、一つはっきり言えることは、このSOCを高めるには、人間関係が重要であるということです。
 みなさん、高2は2年間、高1は1年間を振り返ってみて、学園祭などの学校行事やクラブ活動を思い出してください。そうすると、そのこと自体を成功させることが、「しんどかった」というよりは、むしろ、クラスやクラブでの人間関係を上手く持って行く方が「しんどかった」のではないですか。困った時や自分一人で理解できない状況を迎えた時、一人孤立したままではSOCを高めることは非常に難しく、「困った」とか「大変だ」と言い合える仲間がいるというだけで乗り越えやすさは格段に違ったのではないでしょうか。
 人間関係そのものを家にたとえれば、基本的生活習慣が、土台・基礎工事になります。その上に、社会人として必要な人間性という骨組みがあり、さらに、社会的経験を積んで身につけるマナー、人との付き合い方、コミュニケーション能力で〝家〟が形作られていきます。
 このマナーや人との付き合い方やコミュニケーション能力というのは、みなさんの今後に必要不可欠のものです。それが、良好な人間関係を築く礎(いしずえ)となる「人間力」なのです。学校という学舎(まなびや)は、勉強を学ぶことはもちろんですが、それよりも何よりも集団生活の中で人間関係を構築する修練の場です。その土台になる感性、つまり「こころの知性『EQ』」を磨く大切な期間です。これから、それぞれ3年生や2年生に進級しますが、SOCを上手く高め、良好な人間関係を作ってください。
 目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の大切さ、それは「こころの知性『EQ』」です。どうぞ、集団の中での良好な人間関係を築くための「こころの知性」の大切さを、覚えておいてください。われわれは決して一人では生きていけません、他に支えられて生かされているからこそ、人と人との関係性を何よりも大切にしなければならないのですよ。
 このことをお伝えして私の式辞といたします。