3月
今月の言葉・・・各クラス教室掲示
今月の聖語・・・学校正門聖語版
学校長式辞
暦の上では、二十四節気の一つ啓蟄(けいちつ)を目の前に控え、寒さも漸(ようや)く峠を越えたようであります。校庭には二本の紅梅がありますが、今日の佳き日に合わせたかのようにほころびを見せ、春の訪れを感じる季節となりました。本日ここに、龍谷大学付属平安高等学校の 第67回卒業証書授与式 を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派総務山階照雄様、龍谷大学学長赤松徹眞様、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、親和会・平安会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜りましたことに、理事長とともに、衷心より御礼を申し上げます。
保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。卒業生472名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
さて、昨年、みなさんの高校3年生という時間は、実に思い出深い一年間でしたね。まず、硬式野球部の選抜大会初優勝から始まり、西本願寺の「御影堂」と「阿弥陀堂」が国宝に、ご門主が第25代専如ご門主に法統が継承されました。特に、硬式野球部の偉業は、みなさんが一生の思い出として語れるものとなりましたね。私たちにとってもたいへん誇りに思います。そして、この上ない喜びであります。
それでは、私からみなさんに贈る言葉として、1月23日の終業式の話をおさらいしておきましょう。
私たちは、日々を健やかに過ごしたいと誰もが願っています。しかし、そもそも「健やか」とか「健康」とは、どういうことかとなりますと、なかなか答えるのが難しいです。それは、医学的なものだけでなく、メンタルヘルスの問題である「心の病」があるからです。こうしたものの多くが、日常的なストレスから、生ずるような社会になってしまいました。
そこで、ある医療社会学者が、「SOC(首尾一貫感覚)」に注目されました。
首尾一貫感覚「SOC」には、三つの要素があると言われています。すなわち「理解可能感」「処理可能感」「有意義感」です。簡単に言うと、「わかる感」「できる感」「やるぞ感」です。
一つ目の(わかる感)とは、自分の置かれている状況を、一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であるとみなす感覚のことです。
二つ目の(できる感)とは、少々困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進めるだけの能力が自分にはそなわっているという感覚のことです。
三つ目の(やるぞ感)とは、今やっていることが、自分の人生にとって意義のあることであり、時間や労力などを費やす価値があるという感覚です。
ということでおわかりのように、いずれも根拠はないけれど自分に自信が持てるということであり、この世の中に対する基本的信頼感でもあります。つまり、自分を(わかるぞ)、自分で(できるぞ)、よし(やるぞ)と自分で「感じられる」ことが大切なのであります。要するに、気持ちの持ちよう、心の有りよう、ということになりますね。
では、どうすればSOCを高めることが出来るかというと、まず言えることは、さまざまな状況において、自分自身で判断し、自ら進む方向性を自分で決めるように意識することです。ただし「なんでもかんでも、自分で決める」という意味ではありません。積極的に行くか、流れに任せるかの選択も含めて自分から意識的に行なうという意味です。このような選択の場面では、自分で出来ることを見極めつつ、積極的に適度なストレスを引き受けていくことも、SOCを高めるには大切なことです。その際、一つはっきり言えることは、このSOCを高めるには、人間関係が重要であるということです。
みなさん、振り返ってみて学校行事やクラブ活動を思い出すと、そのこと自体を成功させることが「しんどい」というよりは、むしろ、クラスやクラブでの人間関係を上手く持って行く方が「しんどかった」のではないですか。困った時や自分一人で理解できない状況を迎えた時、一人孤立したままではSOCを高めることは非常に難しく、「困った」とか「大変だ」と言い合える仲間がいるというだけで、乗り越えやすさは格段に違ったのではないでしょうか。
人間関係そのものを家にたとえれば、基本的生活習慣が、土台・基礎工事になります。その上に、社会人として必要な人間性という骨組みがあり、さらに、社会的経験を積んで身につけるマナー、人との付き合い方、コミュニケーション能力で〝家〟が形作られていきます。
このマナーや人との付き合い方やコミュニケーション能力というのは、みなさんのこれからの人生において必要不可欠のものです。それが、良好な人間関係を築く礎(いしずえ)となる「人間力」なのです。みなさんの過ごした龍谷大平安での3年間や6年間は、勉強を学ぶことはもちろんですが、それよりも何よりも集団生活の中で人間関係を構築する修練の場だったのです。その土台になる感性、つまり「こころの知性『EQ』」を磨く大切な期間だったのです。これからもSOCを上手く高め、どこででも常に、良好な人間関係を作ってください。
目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の大切さ、それは「こころの知性『EQ』」だったのです。どうぞ、大学やそれから先、社会に出てからも良好な人間関係を築くための「こころの知性」の大切さを覚えておいてください。われわれは決して一人では生きていけません、他に支えられて生かされているからこそ、人と人との関係性を何よりも大切にしなければならないのですよ。
最後に、みなさんの卒業アルバムに、平安の三つの大切「ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切に」という言葉に添えて『煩悩障眼雖不見(ぼんのうしようげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじようしようが)』という言葉をしたためさせてもらいました。
これは、私たちが、日々お勤めする『正信念仏偈』の中の、七高僧のお一人、源信和尚の述懐の箇所にある一節であります。
――悲しいかな、煩悩のためにわが眼はおおわれてしまって真実の有様を見ることができないですが、よろこばしいかな、如来はお慈悲の心をもって、倦(う)みつかれることなく、常にわが身を照らし続けて下さっているのですよ――
われわれ凡夫は、煩悩によって本当の姿、真実の姿をついつい見失ってしまいますが、阿弥陀如来は常に私たちを照らして下さっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると、素直な心と謙虚な心が根づきます。そんな心のありようを意識して日々の生活を送りましょう。
次の日本を、そして世界を背負って立つみなさんに、こうして涵養した「宗教的情操」こそが、これからの人生の基盤に据えられることを願っております。
平安学園は、明治9(1876)年に産声を上げました。創立から数えますとみなさんは137期生ということになります。どうぞ、龍谷大平安で青春を過ごしたことを誇りに、自らのいのちを磨き続ける人生を送られますことを心より念じまして、私の式辞といたします。
English Day Principal greeting
Good morning,everyone.
First of all,I would like to say to parents,“Thank you very much for taking time to come here today.”
Next,to students.English Day has come.
I am really looking forward to watching your performances.
I hope all of you will give us your best performances and have a really good time together.
Thank you.
校長挨拶
あらためまして、みなさんおはようございます。
保護者のみなさまには、週末のたいへんお忙しいところご来校いただきまして誠にありがとうございます。
いよいよEnglishDayの日がきました。今年も、みなさんの素晴らしいパフォーマンスを期待しています。今日までの練習の成果を遺憾なく発揮し、素晴らしい一日になりますことを心から願っています。これで挨拶といたします。
2015/01/15 13:00~ 於、第一会議室
校長より激励
元旦開けの1月2日からセンター試験直前演習が始まりました。その際、『克己心』というたいへん力強い草川先生の書が、前に掲げられました。
この言葉の意味をみなさんはよくご存じだと思いますが、『法句経』に「戦いで百万の敵に 勝つひとよりも ひとりの自己に 克つひとが まことに最上の 勝利者よ」と記されています。【ダンマパダ(法句経)】
この『克己心』の内側にあるものは「自分を高めたい。自分に打ち克ちたい」という熱意です。
センター試験は、クラブ活動で言うと、予選のない全国大会にあたります。ただし、敵という対戦相手はいません。敵は、自分の内なる「不安」とか「焦り」です。どうぞ、自分の内なる「不安」や「焦り」に打ち克って、やるだけのことはやったという自信を持ってセンター試験に挑んでください。
もし、「不安」や「焦り」を少しでも感じた時の打開策を教えます。
さあ、みなさん、「立ち上がって両腕を上げ、大きく伸びをしましょう」。全身が伸びて、体がスッキリしませんか?実は「体と心と呼吸は、繋がっていて、互いに影響し合っている」のです。それが証拠に私たちは、自信があるときや元気なとき、背骨を伸ばしまっすぐ前を見ているでしょ。逆に、不安で落ち込んでいるとき、背骨を丸め、うつむいていることが多いでしょ。
もし、「不安」や「焦り」を少しでも感じたら、試してみてください。「まっすぐ垂直に立ちます。そして、背中の後ろで手の指を組んで胸を開きましょう。肩甲骨と肩甲骨を真ん中に寄せるようにします」。こうすると明るく前向きな気持ちになり、元気がわいてきます。体の形を変えるだけで、心が自然に変わるのです。
この正しい姿勢がいかに大切かということは、解剖学に基づいたちゃんとした意味があります。骨格と筋肉の配置が整い血流が良くなるので、酸素が肺にたくさん取り入れられるため、細胞が活性化し、勉強や仕事がはかどるのです。(『PHP』12月号より)
「さあ、もう一度伸びをしましょう」。気分はどうですか?「姿勢を正して、胸を開くこと」「深呼吸をすること」、ぜひ試してみてください。
どうぞ、やるだけのことはやったという自信を持って、特に、難しい問題に直面した時ほど、今までの努力を思い出し、それを最大限に発揮してください。
みなさんの健闘を心から念じております。頑張ってください。
平成27年 修正会〔しゅしょうえ〕
2015(平成27)年1月5日 午前10時~ 於、礼拝堂
学 校 長 法 話
新年あけましておめでとうございます。
さて、昨年は、嬉しいことから始まりました。4月2日の硬式野球部の選抜大会初優勝、5月16日に西本願寺の境内に並んで立つ「御影堂」「阿弥陀堂」が国宝に、6月5日第24代即如ご門主がご退任され、翌6日第25代専如ご門主が法統をご継承されました。6月13日に37歳のお誕生日を迎えられた、専如ご門主は、平安中学校・高等学校の卒業生であり、在学中は考古学クラブに所属されておりました。
硬式野球部は、夏にも甲子園に出場してくれ、春夏連覇の夢を見させてくれました。夢は初戦で覚めてしまいましたが、秋の近畿大会でベスト4の成績をおさめてくれましたので、春の選抜大会連覇という夢はつづきます。常連のフェンシング部・チアダンス部、そして、2年連続の剣道部も全国に駒を進めてくれました。吹奏楽部もマーチングで近畿大会銀賞を受賞し、陸上部も室内陸上で日本ジュニア室内陸上に出場してくれます。また卓球部も17年連続選抜大会出場が決まりました。などなど元気な平安がある一方、いろいろな背景による悩みもたくさんあることも事実です。しかしながら、振り返ってみるとたいへん充実した一年であったように思います。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
それでは今日は、「PHP」昨年11月号に掲載されていた筑波大学教授で精神科医の斎藤環さんの文章の内容をご紹介し、「心の健康の育て方」について考えてみたいと思います。
日々を健やかに過ごしたいと誰もが願っています。しかし、そもそも「健やか」とか「健康」とは何か、となると答えるのが難しいです。
医学はこれまで、病気の原因を追及することに汲(きゆう)々(きゆう)としてきました。たとえば感染症の原因は細菌やウィルスですね。ならば、そうした原因を叩けば健康は回復できる。これに限らず、病因をつきとめて取り除くことが伝統的な医学の考え方でした。
心の病にもこの考え方は応用されました。有名なのは「トラウマ」つまり、(心の傷)でしょう。トラウマの問題を解消することで、こころの問題を改善できる、昔から「病は気から」と申します。これはある程度事実ですが、100%確実なわけでもありません。
近年、若い世代を中心に、「新型うつ」と呼ばれる問題が広がっています。小さなストレスから無断欠勤したり、医者から診断書を取り何度も休職を繰り返したりする若者です。ストレスが原因とわかってはいても、どんな仕事にもストレスはつきものですから、それを完全になくすというわけにもいきません。メンタルヘルスの問題の多くが、日常的なストレスから生ずるようになった昨今、もはや精神医療も、原因論ばかりでは十分とは言えません。
医療社会学者A・アントノフスキーは、「SOC(首尾一貫感覚)」に注目されました。
それでは、SOCとはどんなものなのでしょうか。近年、SOCには三つの要素があると言われています。すなわち「理解可能感」「処理可能感」「有意義感」です。
「理解可能感」(わかる感)とは、自分の置かれている状況を一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であるとみなす感覚のことです。実際に、予測や説明が100%可能とは限らなくても、そう「感じられる」ことが大切です。
「処理可能感」(できる感)とは、少々困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進めるだけの能力が自分にはそなわっている、という感覚のことです。問題は、いつも自分一人だけで解決するとは限りません。「どうしようもなければ誰かが助けてくれるだろう」という期待もここに含まれるのです。
「有意義感」(やるぞ感)とは、今やっていることが、自分の人生にとって意義のあることであり、時間や労力など、一定の犠牲を払うにあたいすることであるという感覚です。必ずしもその「意義」をはっきり説明できなくても構いません。ある種の感情や信念のもとでは、「いずれその意義がはっきりするに違いない」という感覚もまた、「有意義感」に含まれるでしょう。
おわかりのように、いずれも厳密には根拠のない自信であり、この「世界」に対する、基本的信頼感でもあります。
SOCが形成される上では、子ども時代の養育環境がとても大きな意味を持ちます。では、不幸な生い立ちゆえに十分なSOCが形成されなかった人はどうしようもないのでしょうか。そんなことはありません。SOCは、生涯にわたり発達し成熟していく感覚とみなされています。つまり日常生活の習慣を少し工夫することでも、SOCを高めることは十分に可能なのです。では、どうすれば、SOCを高めることが出来るかについて考えてみたいと思います。
まず言えることは、さまざまな状況において、自分自身で判断し、自ら方向性を選択するように意識することです。ただし「なんでも自分で決める」という意味ではありません。積極的に行くか、流れに任せるかの選択も含めて意識的に行なう、という意味です。
こうした選択の場面では、許容できる範囲のストレスをひきうけてみることも意味があります。ノーストレスの環境はSOCを低下させ、成長を妨げます。自分に可能な範囲をみきわめつつ、積極的に適度なストレスを引き受けていくことは、SOCの向上に大いに貢献するでしょう。
処理可能感(できる感)については、「記録」が重要になってくると思います。体重を記録するだけでダイエットになるように、自分自身の行動を詳しく記録することは、もっとも簡(かん)便(べん)にやる気を継続する方法です。継続が大変かも知れませんが、長く続けられれば、確実にSOCを高めてくれることでしょう。
引きこもり問題を見ても、彼らの多くは、SOCが非常に低く、ごく小さなストレスからも、大きなダメージを受けてしまうことが多いのです。彼らの回復過程を見てみると、一つはっきり言えることは、SOCを高めるには人間関係が重要であるということです。
親密で安定した人間関係は、SOCを構成する三つの要素を、いずれも高めてくれます。困難な状況、理解不可能な状況も、孤立したままでSOCを高めることは難しく、「困った」「大変だ」と言い合える仲間がいるというだけで、乗り越えやすさは、格段に違ってくるでしょう。
この感覚は、良好な人間関係のもとでこそ、成熟していく可能性を持ちます。心の健康を保つ秘訣は、実は身近な人間関係にあったのです。我々も良好な人間関係を保ちたいものですね。
龍谷大学付属平安中学校・高等学校 校長 燧土勝徳
本日2014年12月7日(日)第4回生徒保護者対象学校説明会(【中学】午前10時~【高校】午後1時~)を開催いたしましたところ【中学】約150組【高校】約450組の受験生・保護者にご来校いただきまして誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。
学校長挨拶
今日12月7日は暦の上では「大雪」であり、本当に寒さが厳しくなってまいりました。本日は本校の「2015年度入試の学校説明会」にお越しいただきまして誠にありがとうございます。
さて、明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立されました本学園も今年139年目に入りました。そして創立以来、今日まで138年間、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操の涵養(かんよう)を理想とし徹底した仏教教育を貫いております。これを「建学の精神」と言いますが、中学生にも高校生にもわかりやすく、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切に」と申しております。
この『三つの大切』の中の「いのちを大切に」という言葉に付記しております「いただいている・願われている・支えられている」という言葉には、私たちは「生きている」のではなく、実は「生かされている」という意味が込められています。ところが、わたしもみなさんも「生かされている」ということには、なかなか気づけないものですね。
浄土真宗本願寺派では「食事のことば」を定めております。私たちが食前に申します【食前のことば】には「多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」とあります。
この「多くのいのち」という表現には、多くの動植物のいのちをいただかなければ生きていけない私たちのあり方への「慚愧(ざんき)」の思いが込められています。慚愧とは、難しい言葉ですが「自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること」ですから、多くのいのちをいただいてしか生きることのできないこの私を恥ずかしく思うことであります。
また「みなさまのおかげ」という表現には、食事に携わる人々のご苦労に対する「感謝」の思いが込められています。この【食前のことば】は食事が空腹を満たすだけではなく食事というめぐみを通して、私たちのいのちを支えているものへの「ご縁」を知らせていただいています。
このように、多くのいのちによってめぐまれた私の人生ですから、ご報謝(ほうしや)させていただく決意が生まれます。もちろん、食事だけではありません。普段、私たちは何気なく生活していますが、その一つひとつを「ご縁」というまなざしから見れば、そこに多くの「おかげ」や「ご恩」があり、私のいのちが支えられていることが見えてきます。だから「生きている」のではなく「生かされている」と見るのです。
ここに、一般的な見方と仏教的な見方の違いがあるのです。
普段、自分の人生は自分で生きているとしか考えませんが「お念仏の世界があるよ」「仏さまの世界が真実の世界なんだよ」とわかったとき、今までは「自分が生きている」と思っていたのですが「自分で生きているんじゃない、仏さまの手のひらの中で生かさせていただいているんだ」とわかるのです。
このように思えることは、視点の大きな転換です。ここに仏教的な見方のすばらしさがあるのです。この考え方こそ、龍谷大平安がみなさんに願っていることであります。
このような考え方、この精神は、私が常々生徒たちに言っている「EQ](心の知能指数)です。いつまでも、親や先生を頼らず、自分の「心」は、自分自身でしっかりと磨きなさいと言っている『こころの知性』のことです。
心を一本の幹(き)に例えた時に土の中にあって、目に見えない根っこの部分を磨くことが「平安の心の教育」だと考えています。
これを龍谷大平安では「宗育」と申しておりますが、この「宗育」があってこそ、根っこから吸収されるすべての栄養源「EQ]こころの知性を人間力として枝に運ぶことが出来るのです。
さて、龍谷大平安は、面倒見のいい学校だということをあちらこちらから言われ、たいへん嬉しく思っております。しかし、私はもう一歩先に行きたいと考えています。と言いますのは、面倒見がいいと言っても、乳幼児には乳幼児の、小学生には小学生の年齢に応じたケアがあって、中学生や高校生にとっては面倒見の良さは「分かるまで教える」ことではないと思います。
中学生・高校生の年齢には「わかろうとする心をつくる、その手伝いをする」ことが面倒見がいいということだと考えます。本当の意味で真の自立をさせるために、龍谷大平安は、面倒見の良さは変わりませんが「上質の面倒見の良さ」を提供することをお約束いたします。
このあと、具体的に説明いたしますので、よくお聞きになって、是非とも学校選びの一番に本校をあげていただきますよう切にお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。
ごあいさつ
暦の上では二十四節気の一つ「小雪(しょうせつ)」を迎え、北国から雪の便りが届く頃となりました。陽射しが弱くなり、紅葉が散りはじめ、京都ではこの頃から次第に冷え込みが厳しくなってきます。
全国の高校生のみなさん、ようこそ京都にお集まりくださいました。1964年に京都市で開催されたのが始まりであります本集会も、今年第50回という節目を迎えました。
さて、人権とは、人間一人一人の持つ権利であり、その個々の権利には、決して優劣や軽重はないはずなのですが、今日、全国各地で児童生徒をめぐって生じている様々な事態に鑑みる時、人間の生命がかけがえのないものであるということをあらためて考える必要があるのではないでしょうか。
まず、学校教育における人権教育では、生徒一人一人が人権の意義やその重要性についての正しい知識を十分に身につけると共に、日常生活の中で人権上問題のあるような出来事に接した際には直感的にその出来事はおかしいと思う感性や、日常生活において人権への配慮がその態度や行動に現れるような人権に対する感覚を身につけることが最も大切なことであると考えます。
具体的には、人権が擁護され実現されている状態を感知して、これを望ましいものと感じる感覚や、反対にこれが侵害されている状態を感知して、それを許せないとするような感覚を持つことです。こうした感覚を持つことこそ、人権への意識の芽生えになるのです。それが、自分の人権と共に他者の人権を守るような行動にも繋がるのです。
つまり、私たちの周りの様々な人間関係や各々のコミュニティの持つ雰囲気そのものが、人権教育の基盤をなすことを忘れてはなりません。この基盤の一つが、「平和・人権・民主主義を考える全国高校生集会」です。半世紀にわたり、全国の高校生一人一人の意識と努力により育まれてきたものが、ここに凝縮されています。三日間の日程で開催されます本集会が、学習と交流を深める意義あるものとなりますことを心より願っております。
実行委員長 燧土勝徳(龍谷大学付属平安高等学校長)