HEIAN BLOG 校長 BLOG

記事一覧

祝 龍谷大学付属平安中学校 第67回卒業証書授与式 2014年03月15日(土)13時08分

学校長式辞

 春のお彼岸を目の前にし、少し開花の遅れていた校庭の紅梅も見事に花を咲かせ、春の訪れを感じる今日の佳き日、龍谷大学付属平安中学校の第67回卒業証書授与式を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派社会部部長、龍谷大学副学長、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、親和会・平安会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜りましたことに衷心より御礼を申し上げます。
 また、保護者のみなさま、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。
卒業生34名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 それでは、私からみなさんに贈る言葉として、昨日の終業式にお話しました「雑談の大切さ」のおさらいを少ししておきましょう。
 私たちの毎日は、雑談をしながら生きているといっても過言ではありません。言い換えれば、私たちは、ほぼ、100%、雑談によって人とコミュニケーションをとっています。つまり、雑談というのは、人間関係やコミュニケーションにおける〝潤滑油〟の役割を持っています。
 人間関係そのものを〝家〟にたとえると、要件を伝える、意味のある話ができる力、つまり、日本語が、きちんと話せる力が、基礎工事、土台になります。その上に、一個人として必要な、人間性という骨組みがあり、さらに、さまざまな経験を積んで身につけるマナー・人との付き合い方・コミュニケーション能力などで〝家〟が形作られていきます。このマナーや人との付き合い方やコミュニケーション能力というのが、雑談です。これは、私たちの日常に欠かせないものです。なぜなら、それが人間関係を築く礎(いしずえ)となる人間力だからです。この人間力を、学校という集団生活の場で身に付けるのです。
 龍谷大学付属平安中学校で過ごした3年間は、この人間力の土台になる感性、つまり、「こころの知性」を磨いてくれる期間だったのです。
 さて、先週の月曜日から卒業生34人全員と数分間の面談をいたしました。平安中学の3年間を振り返り、今の気持ちは?という質問をさせてもらいました。「いろいろあったけど……」の前置きはあったものの、全員が口を揃えて、「終わってみれば……」「楽しかった」「充実していた」「成長できた」「良き仲間に巡り会えた」「特に担任の先生が私たちと真剣に向き合ってくれた」と言ってくれました。
 私は、本当に心から嬉しく思いました。3日間のみなさんとのお話は、束の間でしたが本当に楽しかったです。みなさん一人一人の顔に、満足感や充実感が漲(みなぎ)っていました。
 少し思い起こしてください。みなさんが入学して間もない頃、私がみなさんにお話ししたことを覚えてくれていますか。仏説阿弥陀経というお経の中の「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」という一節を紹介して、青い色には青い光、黄色い色には黄色い光、赤い色には赤い光、白い色には白い光があるように、どうぞ君たち色の花を咲かせ、光り輝いてくださいと、お話ししたと思います。
 私たちは、とかく人と比較して優劣を付けてしまいます。そして、ついつい自分の都合で人を判断し、人を傷つけ、時には思い上がったり、落ち込んだりします。
 大切なことは、ちょうど、私たちが子どもの頃に口ずさんだ童謡『チューリップのうた』の「赤、白、黄色 どの花見ても きれいだな♪」ということでしょう。つまり、みんな違ってみんな良いということです。
 人は顔かたちがそれぞれ違うように性格も能力もさまざまです。若い人、年老いた人、速い人、遅い人……しかし、その違いによっていのちの優劣はありません。みんな、尊いいのちを生きているのです。阿弥陀さまは、できる、できないの私たちの価値観を超えて、すべてのいのちに喚びかけてくださっています。
 こう考えると、それぞれ違った環境で生まれ、違った環境で育ち、性格も考え方も違う34人が、体育祭や音楽祭やEnglish Day、そして、一昨日の武道・ダンス発表会で見せてくれた見事な団結力や絆というのは、「こころの知性」「こころの幹(き)」が、みなさんの中に育っていることの証しであると思います。こころを開いてものを見ることができるように、仏教的なものの見方ができるように、よく成長してくれました。ありがとう。
 最後に、このあと、平安高等学校に進まれる人、他校へ進学される人がいますが、どうぞ、龍谷大学付属平安中学校で身につけた、素直な心と謙虚な心を持って高等学校でも頑張ってください。
 感性豊かなみなさんに涵養した龍谷大平安の宗教的情操が、こうしてみなさん一人一人にしっかりと染み込んだことをたいへん嬉しく思いますとともに、この心を持ち続けていただくことをお願いしまして、私の式辞といたします。

祝 龍谷大学付属平安高等学校 第66回卒業証書授与式 2014年03月01日(土)12時40分

学校長式辞

 暦の上では、二十四節気の一つ啓蟄を目の前に控え、寒さも漸く峠を越えたようであります。校庭には二本の紅梅がありますが、今日の佳き日に合わせたかのようにほころびを見せ、春の訪れを感じる季節となりました。本日ここに、龍谷大学付属平安高等学校の 第66回卒業証書授与式 を挙行するにあたり、浄土真宗本願寺派総長、龍谷大学学長、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、親和会・平安会の役員のみなさま、多数のご来賓のご臨席を賜りましたことに、衷心より御礼を申し上げます。
 保護者のみなさまには、ご子女の晴の卒業式典にご列席賜りましたことに、祝意ならびに謝意を表します。誠におめでとうございます。卒業生396名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 それでは、私からみなさんに贈る言葉として、1月24日の終業式にお話ししました「雑談の大切さ」のおさらいをしておきましょう。(「雑談力が上がる話し方」斎藤孝より)
 私たちの毎日は、雑談をしながら生きているといっても過言ではありません。言い換えれば、私たちは、ほぼ、100%、雑談によって人とコミュニケーションをとっているのです。それなのに、最近は〝要件しか話せない〟あるいは〝要件もろくに話せない〟若者が増えています。「要件さえ伝われば、それでいいじゃないか」とおっしゃる方も多いでしょう。確かにそれはそうでしょう。しかし、「要件しか話せない」のでは、世の中を渡っていくことはできません。
 私たちの会話には「要件を伝える会話」と「それ以外の会話」の二種類がありますが、この「要件以外の話」つまり、雑談ということになりますが、これが最も大切なのです。
 では、この雑談が持つ意味とは何でしょうか。それは、これから先、相手との関係をスムーズに運ぶための〝地ならし〟的役割です。雑談というのは、人間関係やコミュニケーションにおける〝水回り〟的な役割を持っています。わかりやすく言えば、みなさんがよく言う「空気読めよ!」の〝空気〟これを作るものが雑談です。その場にいる人たちと同じ空気を共有するため、場の空気を作るために雑談があるのです。
 人間関係そのものを家に例えれば、要件のある、意味のある話ができる力、あるいは日本人として日本語がきちんと話せる力が土台・基礎工事になります。その上に、一個人、社会人として必要な人間性という骨組みがあり、さらに、さまざまな社会的経験を積んで身につけるマナー、人との付き合い方、コミュニケーション能力などで〝家〟が形作られていきます。このマナーや人との付き合い方やコミュニケーション能力というのは、私たちの日常に必要不可欠なものです。それが、人間関係を築く礎となる人間力だからです。この人間力を、学校という集団生活の場で身に付けるのです。
 例えると、外観に直接は表れてこないけれど、建物にとって欠かせないのが水回り。ここが詰まったままでは、どこか苦しくて居心地の悪い家になってしまうでしょう。雑談とは、家における水回りのごとく、人間関係を気詰まりなく、スムーズに動かしていくために不可欠なコミュニケーションのファクターなのです。
 龍谷大平安での3年間・6年間で、その土台になる感性、つまり、「こころの知性」をしっかりと磨いてくれたと思っております。
 どうぞ、外観には直接は表れてこないけれど、建物にとって欠かせない〝水回り〟にあたる雑談、人間関係を気詰まりなく、スムーズに動かしていくために必要なコミュニケーションの要素である雑談の大切さを覚えておいてください。われわれは一人では生きていけない、他に支えられて生かされているからこそ、人と人との関係性を何よりも大切にしなければならないのですよ。
 最後に、みなさんの卒業アルバムに、平安の三つの大切「ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切に」という言葉に添えて『煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我』という言葉をしたためさせてもらいました。これは、私たちが、日々お勤めする『正信念仏偈』の中の、七高僧のお一人、源信和尚(かしよう)の述懐の箇所にある一節であります。
――悲しいかな、煩悩のためにわが眼はおおわれてしまって真実の有様を見ることができないですが、よろこばしいかな、如来は大慈悲の心をもって、倦みつかれることなく、常にわが身を照らし続けて下さっているのですよ――
 われわれ凡夫は、煩悩によって本当の姿、真実の姿をついつい見失ってしまいますが、阿弥陀如来は常に私たちを照らして下さっています。そんな中で、私たちは心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定させましょう。すると、素直な心と謙虚な心が根づきます。そんな心のありようを意識して日々の生活を送りましょう。
 次の日本を、そして世界を背負って立つみなさんに、こうして涵養した「宗教的情操」こそが、これからの人生の基盤に据えられることを願っております。
 平安学園は、明治9(1876)年に産声を上げました。創立から数えますとみなさんは136期生ということになります。どうぞ、龍谷大平安で青春を過ごしたことを誇りに、自らのいのちを磨き続ける人生を送られますことを心より念じて、私の式辞といたします。

今月の言葉《宗教教育係》 2014年02月28日(金)19時22分

ファイル 106-1.pdf

三月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

English Day 校長挨拶 2014年02月22日(土)17時22分

Good morning, everyone.
First of all, I would like to say to the parents,“Thank you very much for being with us to see our students' performances.”
English Day, the last one of the three big events of Heian, has come, just following our Sport Day and our Music Festival.
Students, I know all of you practiced very hard, and I hope you will make the best use of your efforts and Perform as well as you can.
Thank you.
Katsunori Suido

今月の言葉《宗教教育係》 2014年02月01日(土)11時33分

ファイル 104-1.pdf

二月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平安学園 関東同窓会・硬式野球部関東OB会 総会・懇親会 開催 2014年01月26日(日)15時30分

平成26年1月25日(土)KKRホテル東京に於いて、16:30~硬式野球部関東OB会総会、17:00~関東同窓会平成25年度総会、18:00~合同の懇親会が開催されました。懇親会では、昨年に引き続き前日24日に第86回選抜高校野球大会に2年連続38回目の出場が決定しており、この度の甲子園は春夏通算70回目となるということで、本校にとって節目の甲子園大会である喜びを噛みしめ、楽しい一時を過ごさせていただきました。お世話いただきました同窓のみなさまに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

祝 第86回選抜高校野球大会出場 決定 2014年01月24日(金)16時00分

本日、15時30分頃、選抜選考委員会より電話をいただき、本校が第86回選抜高校野球大会の出場校に推薦されたとの連絡を受けました。2年連続38回目の選抜大会出場は、夏の選手権出場32回と合わせて「春夏通算70回目の甲子園」となります。ご声援の程宜しくお願い申し上げます。

大学入試センター試験 出陣式 2014年01月17日(金)13時28分

2014年度 センター試験 出陣式          2014/01/17 13:00~ 於、第一会議室

校長より激励
 元旦開けの1月2日からセンター試験直前演習が始まりました。その際、『克己心』というたいへん力強い草川教頭の書が、前に掲げられました。
 この言葉の意味をみなさんはよくご存じだと思いますが、『法句経』に「戦いで百万の敵に 勝つひとよりも ひとりの自己に 克つひとが まことに最上の 勝利者よ」と記されています。

【訳】ダンマパダ(法句経)
   戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

 この『克己心』の原点とは、自分の力はまだまだ不十分だという自覚ですが、世の中で成功している人は、必ずと言っていいほど強い『克己心」を持っています。それは『克己心』の内側にあるものが「自分を高めたい。弱い自分に打ち克ちたい」という熱意だからです。どうぞ、自分の内なる「不安」や「焦り」に打ち勝って、やるだけのことはやったという自信を持ってセンター試験に挑んでください。
 クラブ活動で言うと、センター試験は、予選のない全国大会にあたります。ただし、敵というか対戦相手はいません。実は、それは自分の内に「不安」とか「焦り」という形で存在するのです。この「不安」や「焦り」は、君たちの考える力を邪魔します。そして、本当の実力を発揮させてくれません。
 どうぞ、やるだけのことはやったという自信を持って、特に、難しい問題に直面した時ほど、その不安に負けないこと、沈み込んだり、落ち込んだりしないことが大切です。
 自信を持って、自分自身に打ち勝って、今までの努力を最大限に発揮してください。
 みなさんの健闘を心から念じております。頑張ってください。

平成26年 修正会〔しゅしょうえ〕 2014年01月06日(月)17時00分

平成26年 修正会〔しゅしょうえ〕
                2014(平成26)年1月6日 午前10時~ 於、礼拝堂
学 校 長 法 話

新年あけましておめでとうございます。
今日は、2013(平成25)年8月1日(木)の「本願寺新報」に掲載されていた内容をご紹介し、「生きるということ」について考えてみたいと思います。
 みなさんと一緒に、自分のいのちを見つめてみましょう。阿弥陀さまやお浄土の温もりが伝わってきます。
では、どこから来たのかわからないけれど、生かされ、支えられているこの私のいのちは、いったいどこへ向かっているのでしょうか。「独りで生まれ、独りで死んでいく」という言葉が『仏説無量寿経』というお経にあります。家族や友だちに囲まれてワイワイガヤガヤと過ごし、永遠にずっと生きていたという私の思いが、必ず打ち砕かれることを教えてくださる言葉です。たったひとり、何もわからずに生まれてきたように、この世の縁がつきたならば、死んでいかなければならない。それが私という存在です。死んでいかなければならないのですが、その日がいつのことなのかはわかりません。スケジュール帳に自分の死ぬ日は記せません。できればずっと遠くに追いやっておきたい、いや書きたくないのですが、なかなか思うようにはいきません。必ず死はきます。この世の縁がいつ終わるかわからないまま、日々を慌ただしく過ごしているのが私です。その死というものに「おそれなくても大丈夫だよ」と知らせてくださるのが阿弥陀さまです。
 阿弥陀さまは私に、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」すくい取って決して捨てないと、はたらいてくださっています。どこからやって来て、どこに行くのかもわからない私に、必ず浄土に生まれさせると願われ、はたらいてくださっているのが阿弥陀さまです。その願いは「ナモアミダブツ」のよび声となって、私にはたらいてくださっているのです。このいのちの問題の解決を、お寺に行き、聞法・聴聞するのです。
それでは、私のいのちはどこから来たのでしょう。
 自分の幼い日の話をする時、「私が物心ついた頃」という言葉をよく使いますね。多くの人にとって自分の記憶の最も古いことは、この「物心がついた頃」ではないでしょうか。その物心ついた頃のことでも、いざ思い出そうとするとあやふやになってしまいがちです。
 もっといえば、私が母親のお腹にいた頃、そして「オギャーッ」と生まれてきて、自然に母乳をもらって育った頃など、記憶にはありません。つまり「物心ついた頃」よりもっと前から、私のいのちがありました。
 ですから、物心がつくまで私のいのちがどのように成長したのかということや、私のいのちがどこから来たのかということは、正直いって自分ではわからないのです。もっといえば、私のいのちは私以外の人に支えられてきたいのちであるのです。
 今、生活している毎日を振り返ってみましょう。私たちは、食事をしなければ生きていけないように、1日たりとも他のいのちをとらずには生きていくことはできないいのちです。私のいのちは、多くのいのちとみなさまのおかげによって存在するいのちです。
 食事だけではありません。普段、私は何気なく生活していますが、その一つ一つを「ご縁」という仏教の目で見ると気付くことがたくさんあります。多くのおかげがあり、生かされている、支えられている私のいのちだったのです。
次に、浄土に生まれるとはどういうことなのでしょうか。どこか違う場所に生まれるということでしょうか。
 浄土に生まれるということは、生きとし生けるものすべての幸せを実現するために活動する、智慧と慈悲をそなえた「仏」になるということです。そんなことが私にできるのでしょうか。だっていつも私は、自分を中心にして「あの人は好き」「あの人は嫌い」「あの人はいい人」「あの人は悪い人」などと分別しています。実は「愛」も「憎しみ」も同じこと、自分を中心にして考える中で生まれる心なんです。その愛憎にゆれる心を転換させ、自分の利益しか考えなかった私を、智慧と慈悲の仏に転換すること、それが浄土に生まれるということなのです。
 浄土真宗では、「自分で仏になりなさい」とはいいません。だって、自分の心の中を見ると、とてもとても無理なんですから。その私の救いを実現させようと、阿弥陀さまはさとりの世界、つまり、お浄土から迷いの世界に「ナモアミダブツ」のよび声となってはたらきかけ、私たちをさとりの世界へと生まれさせてくださるのです。これが浄土真宗でいう「本願他力」です。その世界に生まれると即座に、智慧と慈悲が完成され、苦しみ迷っている人を救い続ける仏に転換するのです。つまり、その世界に生まれて初めて成仏するのです。
我々がいつも申しております、手を合わせることの大切さからはじまり、今日は、私の「今を生きる」いのちについて考えてきました。
 それでは、浄土への道を歩むことと「今を生きる」ということは、どう関係するのでしょうか。
 今まで自己中心のものの見方しかできず、迷い苦しんでいた私たちが、阿弥陀さまのはたらき、これを本願力と言いますが、この本願力を聞き、浄土への道を歩ませていただいていることは、自己中心の人生観を少しずつ方向転換していくことです。阿弥陀さまの慈悲の光に照らされるということは、阿弥陀さまと真逆な生き方しかできない自分の姿が知らされるということです。
 阿弥陀さまの本願の中に「わが国に生まれるとおもいなさい」とあるのは、私はひとりで寂しく死んでいくのではなく、阿弥陀さまのさとりの世界である浄土に生まれていくことだと思いなさいという意味です。この願いを聞く時がそのまま、阿弥陀さまのはたらきにしたがって私が方向転換させられる時なのです。
 自己中心の人間の考えや行動は、「私の思い通りになる人生」を限りなく求めていくことにほかなりません。でも、「実はそれが一番私を苦しめているのですよ」と、阿弥陀さまは気付かせてくださるのです。阿弥陀さまはこの自己中心的な考え方を、人々の幸せを願うことに少しずつ転換していきなさいと、わが親のように私を育ててくださるのです。
 私たちは手を合わせることで、自己中心的な私に気付かされる道を教えていただきます。ぜひご家庭においても、お仏壇に向かい合掌・礼拝をしていただきたいと思います。
 家庭では、一番近くにいる家族だからこそ、つい言い過ぎたりして相手を傷つけてしまいがちです。でも、この家庭こそが、私という存在を教えてくれる場所でもあり、阿弥陀さまの慈悲のこころをいただき生活する道場でもあるのです。今を生きる私の人生は、阿弥陀さまの真実を確かめていく道、阿弥陀さまのよび声を聞き、仏となる道なのです。と考えると、浄土へ向かう人生は、今を生きることと深くつながっているということであります。
 本年も宜しくお願い申し上げます。

                龍谷大学付属平安中学高等学校 校長 燧 土 勝 徳

今月の言葉《宗教教育係》 2014年01月06日(月)09時24分

ファイル 98-1.pdf

一月
今月の言葉 ・・・ 各クラス掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門掲示板