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御礼 平成25(2013)年度 生徒保護者対象学校説明会 2013年06月09日(日)16時22分

本日6月9日(日)午前10時~中学・午後1時~高校の平成25(2013)年度第1回生徒・保護者対象学校説明会を本校講堂にて開催いたしましたところ、中学高校併せて約400組の生徒保護者にご来校いただきました。誠にありがとうございました。取り急ぎ御礼申し上げます。
 ○7月7日(日)オープンキャンパス(中学)13時30分~16時
 ○9月23日(祝)オープンキャンパス(中学・高校)13時~16時
  ご来校いただきますよう心よりお願い申し上げます。

学校長挨拶

 本日は、本校の「2014年度入試の第1回学校説明会」に、たいへんお忙しい中、お越しいただきまして誠にありがとうございます。心より御礼申し上げます。
 さて、明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金(こん)亀(き)教校」として創立されました、本学園も、この5月21日で満137歳になりました。本校は創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操の涵(かん)養(よう)を理想としてきました。「宗教的情操の涵養」というのは少し難しすぎますね。わかりやすく言いましょう。
 本校では、毎朝仏参をおこなっています。仏参は文字どおり仏さまにお参りすることをいいます。
 仏参は「私を救わずにはおけない」という仏の願いを聞かせていただくためにおこなわれるものです。ましてや私の願い事をかなえるためにお参りするのではありません。静(せい)坐(ざ)して、「合掌・礼拝(らいはい)」をおこなう姿は人間の最も美しい姿だといえます。そういう意味でも「仏参」は、自分とむき合う時間と位置づけられるでありましょう。この「仏参」や様々な「宗教行事」を通して、宗教的なものの見方が、自然に心に染み込んでいくのです。そして、仏教的なものの見方ができることと、素直に人の話を聞く姿勢をつくるのです。これが「宗教的情操の涵養」です。
 一般には、知・徳・体がバランスよく保たれることを理想としますが、本校の考え方は、徳育を土台とします。その徳育を龍谷大平安では宗育と言います。こころを一本の幹(き)にたとえると、花や葉は、夢の実現や体力・学力の向上、それを支える枝は、知育と体育、そして、その枝に栄養を運ぶ動脈は人間力です。そして、幹を育てる根から吸収されるすべての栄養源がEQ「こころの知性」であり、このEQ「こころの知性」を磨くのが本校が行う宗育です。
 敢えて、treeやwoodの「木」を使わず、「幹」という漢字に「き」とふりがなをふらせていただいているのは、目に見えない、地面から下の部分を大切にしたいからです。こころを開いてものを見ることができるように、仏教的なものの見方ができるように、みなさんが、そんな人格を形成し、立派な人間になることを願っているのです。
 以上、お話しいたしました「仏教精神に基づく情操教育を行う」という建学の精神を具現化する手立てとして、ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切にと子供たちにもわかりやすい表現に置き換えております。その一つ「ことばを大切に」に焦点を絞ってお話しいたします。
 仏教に布(ふ)施(せ)の行(ぎよう)といって、他の人にものを施したり、教えを説いてあげたりすることがありますが、ものを施すこと以外に、施すことのできるものとして「無(む)財(ざい)の七施(しちせ)」といわれる七つの行いがあります。「無財」とは、お金や品物のことではなく、真(ま)心(ごころ)をもって接することです。その『無財の七施』の中に、心からの優しい言葉をかけていく『言辞施(ごんじせ)』があります。
 みなさん、振り返っていただき、今でも覚えているうれしかったことって何でしょう。悲しかったことって何でしょう
 大好きな友だちから、尊敬する先生から、両親から、あの時、あんなことを言ってもらったとか、あんなひどいことを言われてしまったとか、ということがあると思います。お金や品物をもらったというのもありがたいですが、言葉のプレゼントは相手の心にふかく届き、励まし勇気づけることができます。励ましたい相手、喜ばせたい相手の前で、そっと心を落ち着けて、その人が何をわかって欲しいか、望んでいるか、耳をそばだててみることが大事なのです。自分の言いたいことや自分の聞いて欲しいことでなく、ちょうど、自分が鏡のようになって相手の心を自分に映してみるのです。そして、悲しみや苦しみ喜びをなるべく共感して、心をこめて言葉をかけるのです。心からの優しい言葉は生きる力や勇気を与えます。
 優しいの「優(ゆう)」という字は「人」によりそって「憂(うれ)う」と書きます。だから、相手の悲しみを一緒になって悲しむ心、思いやりの心、正に布施の心のことです。逆に、注意をしなければならないのは、不用意に言った言葉に深く傷つけられたり、傷つけたりすることです。肉体の傷は治っても、一生きえない心の傷もあるのです。形あるもの、お金や財産を施すことも尊いですが、大切なものは、目に見えないもの、無形の財産を施せる人になりたいものです。
 これは、財産がなくても、人々に喜びを与えることができるという教えです。「大きなことでなくてもいい。人は、日常のささやかな行いによって、喜びの種をまき、花を咲かせることができる」とお釈迦さまは教えています。逆説的に言いますと「自らの心のあり方を整えなさい」という教えでもあるのではないでしょうか。出逢う人に、温かい気持ちや喜びの種をまく人生を送りたいものです。こう考えると、人生は、自分の心の持ち方次第であるとつくづく感じます。本校が目指す「こころの知性」EQを磨く宗育は、ここにあります。宗教教育、特にこころの教育とは、すぐに答えの出るものではありません。だから、すぐに答えを求めるのではなく、質のいい喜びの種を、子どもたちの在学中にしっかりと蒔くことが大切なのです。
 今、日本の中学生・高校生は、激動する社会の中で、さまざまな不安や悩みを抱えています。かつてなら、「そんなのお前の責任だ!」と言って、済んでいたような「基礎的な問題が解けない」「友達ができない」「将来やりたい事が見つからない」など、現代は、そのような問題につまづく若者が増えております。
 そういう子どもたちに、龍谷大平安としてどのようにサポートできるか徹底して考え、実行に移すというのが、我々の使命だと考えます。
 先にも述べましたが、こころの教育とは、すぐに答えを求めるのではなく、入学「前」から卒業「後」まで、いや、もっと先、生徒一人一人の一生涯を見据えてサポートするということでありましょう。その意味では、心の教育・人づくりとしてのエンロールメント・マネジメントの大切さを感じます。中学・高校の、六年間や三年間に、どれだけの質のいい喜びの種を蒔けるかにかかっています。
 龍谷大平安は、この喜びの種を蒔き、花を咲かせることができるように、しっかりとサポートすることをお約束いたします。
 最後に、今年度で中高一貫コースが3学年そろいました。次年度からは、この中高一貫を「一貫選抜」として新たなスタートを切ります。今までにお話しました教育理念は、龍谷大平安の教育の根幹として、人間力を確実に身につけ、国公立・有名私立大学を目指すコースとして、しっかりと進学校化いたします。
 また、高校におきましては、次年度募集より「選抜特進」「プログレス」「アスリート」として、さらにコースコンセプトの明確化をはかります。
 少しややこしいかもしれませんが、龍谷大学教授陣と本校5教科教員により10年以上にわたる教科ワーキングを経て育て上げた「プログレス」の名称を龍谷大学進学コースと位置づけ、教学面はもとより、今後は施設面も含め、クラブ活動など、龍谷大学との連携を今まで以上に深めていきます。また、国公立大学および有名私立大学進学を目指すコースを「選抜特進」として新たなスタートを切ります。昨年から続く進学校化への改革は着実に進めております。月・水・金の放課後に実施しております「ドラゴンゼミ」も、4月から順調に実施し、今後の模試に、必ず成果が現れると確信しております。そして、アスリートは、従来通り甲子園を目指します。このように、次年度から、高校のコース改編を行ない、それぞれのコースコンセプトに基づき、各コース、しっかりと充実させていきます。
 このあと、スクールライフの説明が終わりましたら、校長補佐の平井正朗が具体的に説明いたしますので、よくお聞きになって、是非とも学校選びの一番に龍谷大平安をあげていただきますよう切にお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。
 本日は、お忙しい中、お出ましいただきまして誠にありがとうございます。

今月の言葉《宗教教育係》 2013年06月01日(土)12時42分

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【六月】今月の言葉…各クラス教室掲示
    今月の聖語…学校正門 聖語板

御礼 京都私立中高連合会 カウンセリング研究会公開講演会 2013年05月26日(日)08時10分

5月25日(土)15時より行われました京都私立中高連合会カウンセリング研究会公開講演会に、30名を超えるみなさまに御参加を頂き有難うございました。
このたびの講演会は、「起立性調節障害 ― どのような病態か、遷延する症状とどう向き合うか ―」という題で、済生会吹田病院小児科医師 松島礼子先生にお話をいただきました。
「病状を正しく理解すること」「お薬ばかりでなく、心理・社会的な側面にも焦点をあて、カウンセリングを受けていくこと」「低血圧サポートグループのHPの紹介」など、教員やカウンセラーだけでなく、当事者の保護者も深く学ぶことが出来ました。また講演会終了後も、保護者や教員の個別相談や質問に応えていただきました松島先生に厚く御礼申し上げます。 合掌

高校 校外学習・中学 球技大会 2013年05月24日(金)09時29分

高3 USJ
高2 保津川下り・嵐山嵯峨野散策
高1 京都府笠置 ハイキング・バーベキュー
中学 球技大会 ドッヂボール

平成25年度 龍谷大学付属平安中学校 球技大会
学校長挨拶
 みなさん、おはようございます。いよいよ球技大会の日がやってきました。今日の種目はドッヂボールです。ドッヂボールの発祥はイギリスと言われていますが、その原形は1900~1940年頃のアメリカにあります。当時は『デッドボール』と呼ばれ、円形のコートに、攻撃組と防御組とに分かれて、攻撃組が防御組にボールを当て、「デッド」とするゲームだったようです。当時はいわゆる内野にキャッチは認められず、飛んでくるボールから身をかわすだけでした。
 日本には明治42年に『円形デッドボール』という名前で紹介されました。大正6年、初めて四角いコートが紹介されましたが、この段階でも、内野のボールキャッチは認められていませんでした。そして、大正15年、ドッジボール(ドッジ=DODGEとは身をかわす意味)と改名されました。また、遊戯方法も、より積極的にするため内野がボールをキャッチすることを認め、キャッチした者は、除外されないルールが採用されました。以後さまざまな形式のドッジボールが考案され、全国各地でローカルルールも生まれ、子どもから大人まで幅広く親しまれるようになりました。
 さて、ドッヂボールの特徴は、ボールひとつあれば、いつでも、どこでも、だれとでもできるというもので、これがドッジボールの魅力であり最大の特長です。みんな一緒になってそれぞれの力を精一杯出して戦うこと。その結果、勝利の喜びをともに分かちあえることがこの競技のすばらしさです。ですから、運動があまり得意でない人でも、ヒーローになる事がこのスポーツでは多くあり、勝利至上主義の競技ではなく、みんなで楽しむことを前提としたスポーツマインドを持つスポーツといえます。
 今日は、本当に良いお天気に恵まれました。よって、日中は30℃を超える真夏日になるということです。どうぞ、しっかりと水分をとり熱中対策をし、また、ケガのないように一日楽しんでください。

平成25年度 防災訓練 実施 2013年05月08日(水)12時11分

5月8日(水)京都市下京消防署警防課第一部担当課長(消防司令長)様をはじめ署員の方々のご協力の下、防災訓練を実施しました。今年度は、地震を想定した避難訓練(中高約1600人)及び消火器を使用した消火訓練、AED・担架を使用した救命訓練(中200人)でした。
下京消防署員のみなさまにはたいへんお世話になりありがとうございました。

防災訓練 学校長訓話より

 学校における防災教育は、自らの生命を大切にし、他の人々を思いやる心の教育と位置づけ、地域の安全に役立つための防災態勢を理解できることを目的としています。
 この目的を具体化するために防災教育と、安全行動ができる防災訓練が必要なのです。
 生徒一人ひとりが、自分の身を自分の努力によって守る(自己責任による自助の考え方)とともに、普段から顔を合わせているクラスの仲間が互いに協力し合いながら、防災活動に取り組む(助け合いという共助の考え方)が必要です。そして、この「自助」「共助」に学校の危機管理体制という「公助」が有機的に繋がることにより、被害の軽減を図ることが出来るのです。
 特に、クラスメートや仲間が協力し合う体制や活動、つまり「共助」は、自主防災活動の中核です。
 先ずは、災害・防災の正しい知識を習得することから始まるわけですが、その前に日々の学校という生活空間について、防災の視点から避難経路等を確認しておかなければなりません。そして、何より「人を知る」ことが重要な鍵を握っています。つまり、クラスの人数など、誰がいないとか、そのような関係をつくっておくことが大切となります。
 今回の防災訓練は、地震を想定した避難訓練です。したがって、直ちに安全な場所への避難が必要になります。この訓練における注意点は、①避難指示の伝達 ②避難生徒人数の確認 ③安全な避難方法の訓練 ④避難経路の確認というものでした。
 本当に地震など災害が発生した時、正確で迅速な情報の収集と伝達活動が欠かせません。いかに冷静沈着な行動がとれるかということです。本当に災害が起こっては困りますが、これだけはどうしようもありません。万が一にそなえ、今日の防災訓練が意義あるものとなりますよう願っております。

 本日、お釈迦様の誕生をお祝いする花まつりの行事を一ヶ月遅れで営みました。そのお釈迦様が「大きなことでなくてもいい、人は、日常のささやかな行いによって、喜びの種をまき、花を咲かせることができる」と、教えてくださっています。これは、財産がなくても、人々に喜びを与えることができるという教えです。
 みなさんには、先日の仏参でお話ししました『無財の七施』が、正にこの教えです。
 東日本大震災から二年あまりたちましたが、今なお、苦しみや悲しみの中で生活されている方々に「寄り添う心」をしっかりと持ちましょう。そして、時間とともに記憶から薄れつつありますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。今こうして今日が迎えられていることを、心から「ありがたい」と感謝いたしましょう。

平成25年度 仏参講話 中学、高校1・2・3年 2013年05月02日(木)09時57分

平成25(2013)年度

 明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立された、本校は、今年5月21日で満137歳になります。創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳(うた)い、宗教的情操の涵養(かんよう)を理想としてきました。では、宗教的情操の涵養を、具体的に説明しましょう。
 本校では、毎朝仏参をおこなっています。仏参は、文字どおり仏さまにお参りすることをいいます。では、なぜ仏参をおこなうのでしょう。
 私は毎日食事をします。多くのいのちを殺して食べています。それを教えてくれるのが「いただきます」という言葉です。ある幼稚園児が「ぼくの家は給食費を払っているから、いただきますなんて手を合わせなくてもいいんだ」と言って、幼稚園の先生を困らせたそうです。園長先生は「実は私たち一銭も払っていないんです。確かにお金を払っていますが、それはお米やお魚、お肉を扱う人間の手間賃と経費です。私たちは牛さんや豚さんたちには一銭も払ってませんし、海に行ってお魚に餌をあげていません。だから、ごめんなさい、あなたのいのちを殺していただきますと言うのです」と教えてくれました。
 だから、「ごめんなさい」と謝らなければならないのは私のほうです。仏さまのみ教えに生かされるとき、「いただきます」「ごめんなさい」という生き方が恵まれるのです。
 仏参は「私を救わずにはおけない」という仏さまの願いを聞かせていただくためにおこなわれるものです。ましてや私の願い事をかなえるためにお参りするのではありません。静坐(せいざ)して、「合掌・礼拝(らいはい)」をおこなう姿は人間の最も美しい姿だといえます。
 そういう意味でも「仏参」は、自分とむき合う時間と位置づけられるでありましょう。この「仏参」をはじめ様々な「宗教行事」を通して、宗教的なものの見方が、私たちの心に、自然に染み込んでいくのです。こうして、仏教的なものの見方ができることと、素直に人の話を聞く姿勢が自然に身についてくるのです。これこそが「宗教的情操の涵養」なのです。
 先日、京都女子中学校・高等学校の前校長先生から「薫習(くんじゆう)」と題された御本を頂戴いたしました。その中のお話を一つ紹介いたします。

  自然の中で 雨が降るように
  人生の中でも 雨が降る
  そんな時
  あなたを頼ってきた人に
  雨やどりをさせてあげられる強さを
  育てていってほしい
           「心にしみた忘れられない言葉」より

 雨にぬれて困っている人に、そっと傘をさしかけてあげる人はいますか。
 両やどりをさせてあげられる軒先のような人はいますか。

 仏教に布施(ふせ)の行(ぎよう)といって、他の人にものを施したり、教えを説いてあげたりすることがあります。しかし、ものを施すこと以外に施すことのできるものとして「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言われる七つの行いがあるのです。「無財」とは、お金や品物のことではなく、真心(まごころ)をもって接することです。

 その一つは「眼施(げんせ)」といいます。やさしい暖かい眼ざしで周囲の人々の心を明るくするように勤めることです。「眼は口ほどに物を言う」とか「眼は心の鏡」とも言われますように、人間の眼ぐらい複雑な色合いを写し出すものはありません。その眼にたたえられた和やかな光は、どんなにか人々をなぐさめ励ますことでしょう。とくに落ち込んでいるときなどは優しい眼差しに見つめられるととっても元気になります。優しい眼差を心がけると不思議なことに自分の心も落ち着いてきます。

 二つ目は、にこやかな顔つきで接する「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」です。心からの笑顔にまさる美しさはありません。笑顔はまわりを和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにします。自分が苦しい時、辛い時、さびしい時、それを無理して笑うことは苦しいことですし疲れることです。しかし、自分がさびしい時、苦しい時はまわりの人の中にも同じような辛い思いをしている人がいるはずなのです。だからこそ、思い切って、精一杯の笑顔をプレゼントしてあげましょう。あなたの思いやりの心をもらった人は、きっとあなたに感謝の言葉や感謝の眼差しを返してくれるでしょう。それがあなたを支えてくれる力になるのです。

 三つ目は、相手をぬくもりのあることばで励ます「言辞施(ごんじせ)」です。みなさん、振り返ってみてください。今でも覚えているうれしかったことって何でしょう。悲しかったことって何でしょう。友人から、先生から、両親から、あの時、あんなことを言ってもらった。あんなひどいことを言われてしまった。ということはありませんか?おこづかいをもらったとか、何かを買ってもらった、というのもありがたいですが、言葉のプレゼントは相手の心にふかく届き、励まし勇気づけることができます。励ましたい相手、喜ばせたい相手の前で、そっと心を落ち着けて、その人が何をわかってほしいのか、何を望んでいるのか、そっと寄り添ってみましょう。自分の言いたいことや自分の聞いてほしいことでなくて、相手の悲しみや苦しみ、喜びをなるべく共感して、心をこめて接してあげましょう。

 四つ目は、他の人を救うために自分の身を捨てた行いをする「身施(しんせ)」です。みなさんなら、お家のお手伝い、掃除をしたり料理をつくったり、誰かのために何か奉仕することです。冷凍食品よりも、お母さんの手料理がおいしく感じられるのは、そこに思いやりの心がこもっているからでしょう。仏教に、身口意(しんくい)の三業(さんごう)というのがありますが、心(意)や口や体(身)の行いの中でも一番重たいのは、心だといわれます。心が、口や体を動かすからです。時間に追われた忙しい毎日を送っている私たちが人のために何かをするということは、それだけの心がなければできませんね。親や家族、友人から何かをしてもらった時、目に見えるものから目に見えない思いやりの心を感じ取ることができればこんなに幸せなことはないですね。

 五つ目は、「ありがとう」「すみません」などの感謝の心である「心施(しんせ)」です。「ありがとう」という感謝の言葉は、言った人も言われた人も幸せにする素晴らしい言葉だと思います。「ありがとう」というたった五文字ですが、一言いうだけで相手の苦労は報われた気持ちになります。周りを幸せな気持ちにするには、純粋な心、思いやりの心をもって接すれば自分も相手も幸せに生きることができるのです。

 六つ目は、身体を休める場所を施すことで、安らぎを与える所を提供する「床坐施(しようざせ)」です。場所や席を譲り合うような譲り合いの心です。ほとんどの人は意地と我慢で、おれがおれがの我を通そうと小さなことでも譲ることができないものです。意見がぶつかった時、欲しいものがかちあったとき、譲ると負けたと思われるのが嫌だから、ついつい我を通します。くだらぬことに目くじら立てて我を通そうとするのは、心に光のない人です。相手に勝ちを譲れる人こそ、本当の心の強さをもった人ではないでしょうか。

 最後七つ目は、安心して悩みや心配ごとを話し合えるように、温かく迎えてくれる場所を提供する「房舎施(ぼうしやせ)」です。訪ねてくる人があれば、わが家を一夜の宿に貸し、労をねぎらうということですが、これは現代ではだれでもというわけにもいきませんが、労をねぎらう心は、大切ですね。「お疲れ様」「ご苦労さま」は、ちょっとした言葉で、すがすがしい気持ちになるものですね。

 以上の「無財の七施」は、みなさんの心がけ次第で、だれにでもできる施(ほどこ)しなのです。人と人とのかかわりを和ませ、社会生活を円滑にしてくれる基本となる行いです。形あるもの、お金や財産を施すことも尊いですが、大切なものは目に見えないもの、無形の財産を施せる人になりたいですね。

 みなさんが「雨やどりさせてあげられる」強い人に育ってくださることを願っています。

 本日、みなさんには「こころの幹(き)」というノートが渡されたと思います。今日、私の話を聞いて、感じたことを書き留めてくれれば幸いです。これから、毎週、色々な先生方がお話をされます。そのお話を聴聞して感じるところを書き留めていってください。

 これで私の話を終わります。

今月の言葉《宗教教育係》 2013年05月01日(水)08時23分

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【五月】今月の言葉…各クラス教室掲示
    今月の聖語…学校正門 聖語板

4月 御命日法要 2013年04月15日(月)18時29分

平成25年度 御命日法要     2013/04/15

 ご承知のとおり、龍谷大学付属平安中学高等学校の「建学の精神」は、ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切にです。ことばは「お名号」のことで、じかんは「無常」のことで「この世のありとあらゆるものは時々刻々と移り変わる」ことを意味しています。いのちは「お浄土」のことです。これを中学生にも高校生にもわかりやすい形でことば・じかん・いのちの三つを大切にということで示しています。説明は、いのち・じかん・ことばの順でします。
 まず、いのちについて説明します。私のいのちを考えてみますと、前生(ぜんしょう)(生まれる前)・今生(こんじょう)・後生(ごしょう)(死んでから)と分けられます。その中で、私たちは、今生(こんじょう)だけをいのちと考えがちです。しかし、私は今生の限りある有限の生物的な生命を過ごしているにすぎないのです。父や母や祖父母などこの先祖のだれが欠けても生まれてこなかったいのちなのです。そう考えるとき、どうして私の誕生があったのかという前生(ぜんしょう)と、死んだあとはどこへ行くのかという後生(ごしょう)と、つまり、私たちのいのちは今生だけの限りある、そこで終わるいのちではなく、阿弥陀様のおそばで無限の宗教的生命を得るのです。まことの世界に生まれかわる、つまり、お浄土に往(い)って生まれる浄土往生なのです。
 次に、じかんについて説明します。先ほど言いました私たちは阿弥陀様のおそばで無限の宗教的生命を得るということに気づくのは、今をおいてほかにはありません。時間とは無常です。諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日(今)すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。(仏の教えではなく仏に成る教えです)
 最後に、ことばについて説明します。では、後生(ごしょう)は往生浄土と、どなたが決めてくださったのでしょうか? それは阿弥陀如来になられる法蔵菩薩さまの18番目の本願に「衆生(しゅじょう)を仏にせずにはおれない」で約束されています。私たちは弥陀の号(みな)である南無阿弥陀仏を呼ぶのです。声に出すのです。実は仏さまの「おはたらき」により私の口を通して号(みな)を称えさせてくださっているのです。この声を私は耳で聞きます。これが「聞法(もんぽう)」なのです。
以上をまとめますと、いのちを大切にする生き方は、すなわちじかんを大切に生きる姿そのものであります。そして往生は臨終によって定まるのではなく、信ずる心「信心」が定まる時に定まるわけですから、私の口を通して発することばこそ、本当に大事にしなければならないのです。
 本学園の建学の精神をご説明し、平成25年度最初の御命日法要にあたり、あらためて「いのちの大切さ」を考えさせてもらいました。     燧土勝徳

4月 御命日法要 
○ 日時 4月15日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 学校長     ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

平成25(2013)年度 前期始業式(中学) 学校長式辞 2013年04月12日(金)08時00分

2013/04/11 前期始業式(中学) 学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 3月21日の終業式のあと、全体としては春休みに入ったわけですが、その後も、勉強やクラブ活動で学校にずっと登校していた人などさまざまだと思います。特に昨年度末の3月25日は、硬式野球部の選抜大会で多くのみなさんが甲子園球場で声を張り上げて応援してくれました。たいへんお疲れ様でした。ご存じのように硬式野球部は初戦で早稲田実業に惜敗し、それ以外のクラブでは、フェンシング部のベスト8が最高成績で、あとはインターハイならびに夏の選手権まで朗報はお預けとなりました。いずれにしましても慌ただしい束の間の春休みだったと思います。
 さて、中学生のみなさんは8日の入学式から登校してくれていますが、一応、本日より平成25年(2013)年度がスタートいたします。今春101名の新入生を迎えて中学生が200名ということになります。
 入学式にもお話ししましたが、本校は、今年で満137歳となります。昨年の四月、EQという言葉を打ち出しました。IQのように数字では表せない大切なものが、EQ「こころの知能指数」でしたね。つまり、私たち自身が自分の“こころ”ありようをどうコントロールするかということを一年間、事あるごとに話してまいりました。このEQを育てることが、仏教的なものの見方ができることと、素直に人の話を聞く姿勢をつくるのです。
そこで、みなさんには「学ぶ心」を持っていて頂きたいのです。
 人はみな、自分一人で大きくなったと思いがちです。何か失敗を起こさないとなかなか自分を見つめ直すということがありません。自分の行いに何も疑問を持たないまま、日々を過ごしていませんか。私だってそんな毎日ばかり送っています。でも考えてみてください。私たちの日常は総て他人から学んでいることばかりではありませんか。必ずしも人からとは限らず、自然界からも……。
 つまり、私たちを取り巻く総てのものから学んでいるのです。そうした中から日々成長しているのです。ただ、こちらに学ぶ心がなければ何の進歩も発展もありません。だからこそ今一度、自分の日々の行いを、ほんの束の間でもいいから問いなおして欲しいのです。何もみなさんにばかり言っているのではありません。わたし自身も肝に銘じておきたいと思っているところです。
 一年生のみなさんには、昨日の新入生合宿で紹介しましたが、本校の元宗教科の先生で伊東順浩という先生がおられました。伊東先生の書かれた短編にこんなお話が記されています。

 家族で常盤公園の花菖蒲苑を訪れられた際、三歳の娘さんに「いっぱいきれいなお花が咲いちょるけど、どれが一番きれいかね」と尋ねると、「みんなきれいよ!」と答えてくれたそうです。そうでした。花はそれぞれ色や形が変わっていても、精一杯咲いているのでした。みな美しいのです。ところが私は花までも比較し、優劣を付けていたのです。花ならまだしも、人だったらどうでしょう……。自分の都合で人を判断し、人を傷つけ、思い上がり、時には落ち込んだりします。「お浄土の池には、青い蓮は青く光り、黄色い蓮は黄色く光り、赤い蓮は赤く光り、白い蓮は白く光っている」と『阿弥陀経』に述べられています。と記されています。

 どうぞ、龍谷大平安で学ぶみなさんは、「学ぶ心」を持って、それぞれがそれぞれ色に光り輝かれんことを心から願っています。
それでは、どこで目にしたかは忘れましたが、ある方が書かれた「学ぶ心」と題した文章を、みなさんの今後の更なる飛躍を願って紹介したいと思います。

   学ぶ心
 自分ひとりの頭で考え、自分ひとりの知恵で生み出したと思っていても、本当はすべてこれ他から教わったものである。
 教わらずして 学ばずして 人は何一つ考えられるものではない。幼児は親から 生徒は先生から 後輩は先輩から そうした今までの数多くの学びの上に立ってこそ 自分の考えなのである。自分の知恵なのである。だから、よき考え、よき知恵を生み出す人は、同時にまた必ずよき学びの人であると言えよう。
学ぶ心さえあれば万物総てこれわが師である。
語らぬ木石(ぼくせき)、流れる雲、無心の幼児、先輩の厳しい叱責(しっせき)、後輩の純粋な忠告、つまりこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんな古いことにでも、宇宙の摂理がひそかに脈づいているのである。人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。
 これらの総てに学びたい。どんなことがらも、どんなひとからも謙虚に素直に学びたい。総て学ぶ心があって始めて新しい知恵も生まれて来る。よき知恵も生まれて来る。学ぶ心が成長・幸せへのまず第一歩なのである。

これで私の式辞といたします。

平成25(2013)年度 入学式(高校) 学校長式辞 2013年04月08日(月)15時12分

平成25(2013)年度 龍谷大学付属平安高等学校 入学式

学校長式辞

 春爛漫の校庭に陽光があふれる今日の佳き日、龍谷大学付属平安高等学校の平成25(2013)年度入学式を挙行いたしましたところ、浄土真宗本願寺派総長、龍谷大学学長、法人理事・評議員の先生方をはじめ、学園同窓会、平安会の役員の方々、多数のご来賓のご臨席を賜り、理事長とともに衷心より御礼を申し上げます。新入生522名のみなさん、龍谷大学付属平安高等学校へのご入学、おめでとうございます。新入生の保護者のみなさま、ご子女の晴のご入学を心よりお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 さて、ちょうど二年と一ヶ月前の3月11日、あの未曾有の大震災が起きました。時間とともに記憶から消えつつありますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。そして、今こうして今日のこの日が迎えられたことを、心から「ありがたい」と感謝いたしたいと思います。
 それでは、私の式辞はちょうど本校が龍谷大学付属となりました2008年大晦日の紅白歌合戦に出場されました、みなさんがよくご存じのアンジェラ・アキさんの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」から、お話しさせていただきます。
 「拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう」で始まる歌詞は、「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は、誰の言葉を信じて歩けばいいの?」と質問され、「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」と続き、「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」と答えが述べられています。
 そして、「大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど、苦(にが)くて甘い今を生きている、人生のすべてに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて、Keep on beliebing」信じ続けて、「いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど、笑顔を見せて 今を生きていこう、今を生きていこう ~ 拝啓 この手紙読んでいるあなたが、幸せなことを願います」と励ましのエールを送ってくれています。ご本人のコメントによると、10代の頃「30歳の自分」に宛てて書いた未来の自分への手紙が元になっているとのことです。
 本校は、今年で創立138年目を迎えます。その長い歴史の中で時代に合わせて様々に改革を進めてきましたが、いくら時代が変化しようと、基本となる建学の精神に基づいた、こころのあり方の教育は変わっていません。昨年の四月、EQという言葉を打ち出しました。
 みなさんはIQをよくご存じだと思います。「知能指数」ですね。しかし、IQのように数字では表せない大切なものがあります。それがEQなのです。EQとは「こころの知能指数」のことで、EQのEは英語のEmotionalで“情緒”や“感情”と訳されております。つまり“こころ”のことです。
 EQとは、現代社会を生きる力の指数であると言われています。私はこのEQを育てることが、仏教的なものの見方ができる人づくりだと考えているのです。心を一本の木に例えると、葉や花は夢の実現や体力・学力の向上、それを支える枝は知育と体育、そしてその枝に栄養を運ぶ動脈は人間力です。そして、幹を育てる根から吸収されるすべての栄養源が『EQ』。つまり「こころの知性」であり、我々が行う宗育なのです。一般的に『徳育』と呼ばれる心の教育を、龍谷大平安では『宗育』と呼びます。それは、本校の宗教的情操教育が、仏教精神をもとにした宗教的な視点と、素直に人の話を聞く姿勢を大切にするからです。
 しかし、この『建学の精神』は中学校を卒業したばかりのみなさんには、理解が難しい場合もあります。そこで本校では、これを『三つの大切』という言葉に置き換え、ことば・じかん・いのちを大切にすることを説いています。ことばは心の表れであり、素直な心と謙虚な心を持つことが大切。じかんは刻々と流れる無常なものであるから、今日すべきことを明日に延ばしてはいけません。今という時間を大切にすること。いのちは仏さまからの預かりもの、親や先生にいつまでも頼ること無く、自分で磨く時期が今なのだということをこころの教育に据えているのです。
 先ほど紹介しました励ましのエール「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」は、正に「自分を信じ歩けばいいの」の裏付けは、EQを磨き、人間力を高めることであります。その人間力を磨けば、学力向上に繋がると確信しております。
 我々教職員は、みなさんに叱咤激励の声を常にかけ続け、特に担任は、みなさん一人一人と膝をつき合わせ対峙し、しっかりと関わっていきます。みなさんはEQを高めるべく心豊かな学園生活を送られることをお願いしまして、私の式辞といたします。