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3月御命日法要 2025年03月18日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

頑(かたく)なに融(と)けようとしなかった雪のかたまりが陽ざしを浴びて姿を消していく。春の訪れも遠くない。古き友6人と久し振りに食事会を持った。きっかけはそのうちの1人との電話。年齢をあらためて聞きあい、月日の速さに驚かされた。
 互いの顔を見ながら話をしていると、何十年も前に共に学んでいたことが、まるで昨日のことのようによみがえってくる。それぞれが違う道を歩みながらも、今ともにこの娑婆世界にいる。こうして会えている不思議さをかみしめながら、貴重な時間を過ごした。人間は人との出会い、交わりによって成長していくもので、年齢に関係なく教えられることも多い。互いに刺激を受けながら、1人のことばにあらためて考えさせられた。「学生時代、もう少し勉強しておけばよかった」。よく聞くことばだ。
 人間誰しも過去を振り返り、「ああしとけばよかった」ということはある。仮に、過ぎた時間をやり直すことができたとして、充実した後悔しない時間を過ごせるかというと、そうはいかない。前と同じことを繰り返してしまうように思う。だから、いつまでたっても後悔の念はとどまることはないのだろう。その思いを「今を大切に生きよう」とすることに転換していければと思う。切り替えである。
「未来をあてにするな、過去を振りかえることなかれ。そして、あるのは今だ」。大事にしたいのは「今」である。親鸞聖人は『教行信証』冒頭で「いま遇(あ)ふことを得たり」と「今」を強調されている。

「2025(令和7)年3月1日(土曜日)本願寺新報『赤光白光』より」

3月御命日法要
○ 日時 3月18日(火)13時30分~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤 恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2025(令和7)年3月 今月の聖語・言葉について 2025年03月01日(土)08時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
急いで善を行え 心が悪を楽しむ前に 『ダンマパダ』

 良いと思ったことは、ためらわずただちに実行すべきだという意味です。お釈迦さまは「急いで善を行え」とおっしゃっており、ことわざにある「善は急げ」はこの聖語に由来します。ためらってグズグズしていると、人間の心は悪を楽しむようになってしまうというのです。この悪というのは悪事を指しているのではなく、怠惰のことです。すぐにやろうとは思っていても、怠け心が生じてしまい、結局やらずに終わってしまったという経験はありませんか。人間の心はこうした悪に流されやすく、すぐ怠けたり、楽をしたりするのです。ですから、心が悪を楽しむ前に、みなさんも良い行いや良い考えだと思ったら、すぐに取り掛かってみましょう。


【今月の言葉】
一番あてにならぬのはわが心です  武宮 礼一 

 よく「他人(の心)はあてにならない」と言いますが、実は一番あてにならないのは自分自身の心なのかもしれません。私たちは、自分の都合や損得勘定(何が得で、何が損なのか)によって、物事を判断しているのではないでしょうか。たとえば、仲の良い友達でいれば、相手のことを好きだという気持ちが強いでしょう。しかし、一旦喧嘩になってしまえば、仲の良い友達であっても、相手を嫌いになってしまうことさえあります。こうしたように、人の心というものは、その状況に応じてコロコロ変わってしまうものなのです。
 また、私たちには自己中心的な心があり、その心の中には物差しというものがあります。その物差しで、他人や物事を測り、判断したり決めたりしているのです。他人と接する場合、相手にも物差しがあり、その物差しは人によって違うのです。そして、自分の物差しが決して正しいとは限りません。自分の心はあてにはならないものであることを、一度見つめ直すことが大切なのだと思います。

帰敬式について 2025年02月26日(水)17時00分

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  本日、高校3年生の3名と教員1名が本願寺で執り行われた「帰敬式」を受式しました。
 「帰敬式」とは、浄土真宗のみ教えに帰依し、仏弟子として法名をいただき、新たな人生を歩んでいくことを誓う大切な儀式となります。また、「帰敬式」でいただく法名は「釋○○」というもので、「釋」の文字は、お釈迦さまの弟子(仏弟子)としていただく名前です。

  6年間もしくは3年間、平安で親鸞聖人のみ教えを学び、卒業の前に「帰敬式」を受式できたことを大変嬉しく思います。

  今後の人生においてもお念仏をどうぞ大切にしてくださいね。

2月御命日法要 2025年02月18日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 
  「花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく」。『古今和歌集』に小野篁(おののたかむら)の歌としてみられる。花が雪に紛れて見えないとしても香りだけは匂ってほしいものだ、という心に読み取れる。梅の花だと思われるが、花と香りは一つのもので切り離すことはできない。見えなくても香りから花の姿を思い浮かべることができる。
 香りと姿で言えば、「姿より香りに生きる花もある」という言葉もある。外形だけで判断してはならないことを示すことばともとれる。秋に咲く金木犀(きんもくせい)の花はどこかひかえめだが、香りは別名九里香と言われるほど、よい香りを遠くまで放っている。「香りに生きる」ということばもどこか、宗教的な生き方を想起させる。
 よい香りのする栴檀(せんだん)。木は枯れてもそこかしこに香りを漂わせていることから、「栴檀しのの枯れても残る香りかな」。亡き人を偲ぶときに用いることがある。「香り」ということばそのものが心を癒やし、心落ち着かせてくれる雰囲気が宿されているようだ。
 親鸞聖人は「香り」を和讃に詠まれている。「染香人(せんこうにん)のその身には香あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳(こうこうしゅうごん)とまうすなる」。仏の智慧に染まった人、すなわち念仏者は芳かんばしい香りにつつまれて、安らぎと心なごむ雰囲気を感じとることができる、と詠われている。「昔、広島地方では、念仏者には独特の香りがあると言われていた」という先輩のことばを、雪の朝に思い出した。

「2025(令和7)年2月1日(土曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


2月御命日法要
○ 日時 2月18日(火) 16:00~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 渡辺 有 師(浄土真宗本願寺派布教使)

令和6年度 涅槃会 2025年02月08日(土)15時39分

 本日は10時より涅槃会を勤修しました。ご講師は本願寺派布教使の三ヶ本義唯先生で、「願い」をテーマにご法話をいただきました。

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 三ヶ本先生は「言葉や行動に込められた願いを見失われると、表面上は全く一緒でも、中身が全然違うものになってしまうということがある」と述べられ、アメリカの保育園を例に挙げれられました。アメリカのある保育園では、親御さんたちのお迎えが遅いという悩みがありました。遅刻を無くすために保育園が取った対策は、罰金制度を設けることでした。しかし、この罰金制度が始まったことで、遅刻が倍以上に増えたそうです。その原因として、親御さんたちが罰金ではなく「追加料金」として捉え、「お金を払えばその分遅れてもいいのだろう」と解釈したためです。保育園側の「遅刻をしないでほしい」という願いは見失われ、同じお金を払う行為は同じでも、中身は別のものにあってしまったという一例です。

 さて、涅槃会はお釈迦さまを偲ぶ行事です。そのお釈迦さまは、最期に「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ(自灯明・法灯明)」と仰いました。「法」とは南無阿弥陀仏であり、阿弥陀さまという仏さまが私たちに願いをかけてくださっていることを示されました。その願いについて、三ヶ本先生は「すべての人を救いたい。いのち終わったら、必ず私の国であるお浄土に迎い取って仏にしたいという願いであり、その願いをよりどころにして励んでいきなさい」と解説されました。

 ご法話の後半では、原爆に関する歌を紹介されました。三ヶ本先生は広島出身で、三ヶ本先生の曾祖父は被爆者とのことでした。紹介された歌は、次のようなものでした。

 被爆せし 男(お)の子十三 今際(いまわ)の言葉
 「お浄土に羊かんあるの?」「お浄土に戦争無いね?」

「被爆せし男の子」とは、山本真澄君という13歳の少年のことです。爆心地からおよそ2キロのところで被爆し、声を聞かなければ真澄君本人とはわからないほど、変わり果てた姿になっていました。救護所でろくな治療も受けることができず、家の布団で寝ることしかできませんでした。そして、次第に呼吸も浅くなり、意識も途切れ途切れになっていきました。深夜11時頃、真澄君が「お浄土っていうのは本当にあるのかな?」と、突然両親に聞いたそうです。真澄君のお母さんが「ええ、もちろんお浄土はありますよ」と答えると、続いて「そのお浄土には羊羹はあるのかな?」と尋ねました。お母さんは「ええ、もちろん羊羹でもなんでもありますよ。戦争なんてあるもんですか。そこは素敵なところなんですよ」と言い、それを聞いた真澄君は「そうかい、そうかい、それなら僕は死のう。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と呟き、お念仏を申しながら真澄君は息を引き取りました。この歌を通して、三ヶ本先生は「そこに死といういのちの現実が身近にあったかどうかということです」と述べられました。

 そして最後に、三ヶ本先生は「自らのいのちは仏さまになる尊いいのちであり、そのいのちを全うしてほしいという仏さまの願いが込められています。日常において、お父さんやお母さん、先生や友達がその言葉の中にどのような願いを込めて言ってくれたのか、そのような行動をしてくれたのか。その願いを大切にして過ごしていってほしい」と、ご法話を締めくくられました。

2025(令和7)年2月 今月の聖語・言葉について 2025年02月01日(土)09時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして自分の主であろうか。 『ダンマパダ』
 
私たちは自分のことは自分が一番わかっているし、コントロールできると思うことがあります。しかし苦しいときや悲しいときは思わず現実から目を背けたり、困難に出会ってもどこか他人事のようにふるまったりします。人生の主人公として生きているつもりが、案外思い通りにならないのがこの自分だともいえるのです。
だからこそ周りに多く支えられて生きています。しかしどれだけ他者が寄り添ってくれたり助けてくれても、自分が老いて病んで死んでいく苦しみは誰も代わってくれません。
 釈尊が「自己こそ自分の主」だと述べられるのは他でもなく自分自身が人生の苦しみも悲しみも困難も自分事として引き受けて生きていかなければならない。そして同時に苦からの解放の道である仏教も自分事として受け止めることが重要だと示されているのです。
 今月の涅槃会は、釈尊がこの世のいのちを終えられたことを偲び行われる行事です。聖語を味わいながら、釈尊が遺されたメッセージに耳を傾ける機会にしてくださいね。

【今月の言葉】
人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくてみな光る
榎本 栄一

「十人十色(じゅうにんといろ)」という言葉がある通り、人は考え・好み・性質などがそれぞれ異なります。さらに人だけではありません。草も木も虫も動物も同じものは一つもありません
しかしどの存在も同じでなくて、すべて光り輝く存在であると今月の言葉には示されます。これはどういうことでしょうか。
 仏教ではすべて生あるものはことごとく仏となる可能性があると説かれます。仏道を歩む者に優劣はなく聖者でも悪人でも生きとし生けるものすべてが仏になることができるというのです。
作者である榎本さんは、浄土真宗のお念仏の教えの味わいを多くの詩に表現されてこられました。今月の言葉も阿弥陀さまの計り知れない智慧の光と慈悲のぬくもりを感じながら作られたものでしょう。最後の「みな光る」という結びは、みな阿弥陀さまの救いの中にあり、仏さまのお悟りの光を宿してすべてが光輝く尊い「いのち」を生きていることが示されているのです。

令和6年度 報恩講 2025年01月16日(木)13時00分

 本日は10時より、本校講堂にて報恩講を勤修しました。ちょうど親鸞聖人の祥月命日となります。ご講師は本願寺派布教使の野田茜先生で、「阿弥陀様の願い」をテーマにご法話いただきました。

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  道徳の教科書にも採用されている「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」のお話を紹介されました。ある村に年をとったお坊さんがやってきて、村人たちが親切にしてくれたことから、村人たちに2体のお地蔵さまを置いていかれました。1体は何でも願いを聞きとどけてくださるお地蔵さま、もう1体はお願いごとを聞きとどけてくださらない聞かぬお地蔵さまです。お坊さんが「聞くお地蔵さんより聞かぬお地蔵さんにお参りする方がいいぞ」と言ったにも関わらず、村人たちは聞くお地蔵さまにさまざまなお願いをし、それぞれが自分の願いを叶えていきました。すると、自分と同じように幸せな人を見ると腹が立つようになり、人の不幸を願うようになって喧嘩が絶えない村になってしまいました。再びその村を訪れたお坊さんは、村人たちに「聞かぬお地蔵様をお参りしなさい」と言いました。村人たちは「ハッ」と気づいて、聞かぬお地蔵様に黙って手を合わせるようになり、その村は平和になったというお話でした。

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 阿弥陀様は、私の願いを何でも聞いてくださる聞く仏様ではありません。私の願いを阿弥陀様に聞いてもらうのではなく、阿弥陀様の一番大切な願いを聞くことです。阿弥陀様の願いとは、この私たち一人ひとりを仏にしたいという願いです。私の願いを全部聞いていくことが幸せになるのではなく、相手のことを願っていくことこそが、自分も相手もまことに幸せになれることだと見にいてくださっているのです。だから、阿弥陀様は私たち一人ひとりを願ってくださっているのです。野田先生は阿弥陀様の願いについて触れつつ、「心の底から誰かに願われていることに気づいたときに、大きなすごい力を与えてくださり、私の小さな願いや欲望は必要なかったなぁと気づくこともあるんじゃないか」とお話されました。

 本校の日常の心得のなかには、「願われているいのち」があります。生徒たちは今日のご法話を通して、阿弥陀様をはじめ、身近な方たちを思い浮かべながら聞いていたことでしょう。

2025(令和7)年1月 今月の聖語・言葉について 2025年01月01日(水)12時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
人身(にんじん)受けがたし 今すでに受く  仏法(ぶっぽう)聞きがたし 今すでに聞く     『礼讃文』

  釈尊の教えに次のようなものがあります。
  ある時釈尊は、大地の砂を手にすくい、弟子たちに次のように質問しました。「この手のひらの砂の数と大地の砂の数は、どちらが多いでしょう」弟子は答えました。「もちろん大地の砂の数の方が多いです」すると釈尊は、静かにうなずかれて、「その通りです。この世の中に生きているものは大地の砂の数くらいたくさんいるけど、人間としていのちを恵まれるものは、手のひらの砂の数ほどわずかなものだよ」と答えられました。そして、今度は手のひらの砂を指の爪ですくい、重ねて質問しました。「手のひらの砂の数と、指の爪の上の砂の数は、どちらが多いでしょう」弟子は答えました。「もちらん手のひらの砂の数の方が多いです。指の爪の上の砂の数は、ほんのわずかです」すると釈尊は、深くうなずかれて、「その通りです。同じ人間としていのちを恵まれながら、仏の教えに出あえるものは、ほんの爪の砂の数くらいしかいないのです。だからこそ、人間としていのちを恵まれ、仏法に出あえたことを大切にしなければなりません」と言われたということです。(本願寺出版社『みのり』より)   
  不思議なご縁でこの世に人として生まれ、そして平安で仏法に出遇いました。この尊いご縁を今年も大切にし、日々過ごしてほしいと思います。

【今月の言葉】
明日の目的のために今日を生きているのではない  今日が全部だ     安田理深

  今月の言葉は、真宗大谷派の僧侶である安田理深という方のお言葉になります。
  親鸞聖人が九歳の時に詠まれたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは(明日があると思っていても、今は満開に咲いている桜が、夜中に嵐が吹いて散ってしまうかも知れない。それと同じように、この私の身も心も明日はどうなるかわからない)」という和歌と重なるように思います。親鸞聖人が得度(僧侶になること)されるとき、夜も遅く、明日にしようかと促されたそうです。その時にこの和歌を詠まれ、その日のうちに得度を終えられ、僧侶としての人生が始まりました。
  仏教には「無常」という教えがあります。すべては移り変わっていくことを意味します。誰しも当然のことながら、一分先、一時間先、一日先のことはわかりません。ましてや、明日があると思っていても、本当に明日を無事に迎らえるかはわかりません。今月の言葉で述べられる「今日が全部だ」という気持ちで、今日を大切に過ごしていきたいですね。「明日でいいか」とつい先延ばしにしがちな私たちですが、新年を迎えるにあたり、「今日」という時の尊さを改めて教えられる言葉だと思います。  合掌

12月御命日法要 2024年12月17日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


  今年のノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与されたこともあり、久々に広島平和記念資料館を訪れた。多くの記憶や当時の様子が資料館という一つの空間に凝縮されている。あらためて写真や展示で、悲惨な状況を知らされ、核兵器の恐ろしさに戦慄を覚えた。2023年度の入館者数は198万人で、外国人来館者も多いという。世界に向けて平和のメッセージを発信する資料館の果たす役割は限りなく大きい。来年は戦後80年を迎える。21世紀に入った時、新しい世紀こそは平和の世紀にという希望を持ったが、戦争はなくならないどころか、ますます拡大している。
  仏教は、その出発点から平和主義を、そして平等ということを標榜してきた教えである。対立、排除ではなく、協調、受容の姿勢、一体感の醸成といってもよい。たとえば経典に出てくる世自在王仏という仏の原名には、「イシュバラ」というヒンズー教の神の名前が含まれる。異教の神の名前が世自在王仏という仏名のなかに混入していることからも、仏教が異教を受け入れている一面を知ることができる。
 月は美しい姿を見せてくれるが、月自らが輝いているのではない。太陽の光によりその美しさを見せてくれるのである。これは、仏教の一体感を想起させる。仏教は合体ではなく、一体を説くと仏教学者である師から教わった。一体とは離れないということでもある。このことばの中にこそ真の平和が宿されていると思うことである。

「2024年(令和6年)12月1日(日曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


12月御命日法要
○ 日時 12月17日(火) 16:00~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 若林唯人 師(浄土真宗本願寺派布教使)

令和6年度 成道会 2024年12月06日(金)16時48分

本日は4限目に、講堂にて成道会を勤めました。そして、浄土真宗本願寺布教使の渡辺雅俊先生のご法話をいただきました。

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 成道会はお釈迦さまが悟りを開かれたことを記念する行事であり、渡辺先生はお釈迦さまが悟られるまでの経緯をお話されました。お釈迦さまは王子として生まれたときから、何不自由なく過ごされていましたが、「本当の幸せにはつながっていかない。やがていのちを終えなければならないから」と国王となる地位を望まれず、王子の身分も捨ててお城を出られます。苦しい修行をされ、お釈迦さまが菩提樹の下で瞑想されていると、心の悪魔がやってきます。心の悪魔とは、心の中で湧き上がってくる「煩悩」のことです。渡辺先生は「敵は本能寺にありという言葉がありますが、外に敵を見ていくのではなく、私の中にある敵、つまり煩悩です」と述べられした。お釈迦さまはあらゆる煩悩に打ち克って悟りを開かれましたが、同じく厳しい修行に励まれた親鸞聖人は断念されました。そして、法然上人のもとで、煩悩に打ち克つことができないということをわかっておられる阿弥陀さまのみ教えに出遇われたのでした。

 続いて、渡辺先生は3人の人物を紹介されました。
1人目は、女子カーリングの吉田知那美選手(北京オリンピックで銀メダルを獲得)です。吉田選手がインタビューで発した「弱いところを出し合って、お互い弱い部分を支えながら戦った」という言葉に、渡辺先生は「安心して弱いところを出せるチームの状況が素晴らしい」と述べつつ、「皆さんのクラスはどんな感じですか?」と、生徒たちに投げかけられました。そして、阿弥陀さまの前でも、弱い部分を隠す必要はなく、そんな弱い私を見捨てずにはおれない仏さまであることを示されました。

2人目は、今年11月に亡くなられた詩人の谷川俊太郎さんです。読者から寄せられた質問を受けるという企画があり、そこであるお母さんから次のような質問がありました。
「娘(6歳のさえちゃん)どうして人間は死ぬの? さえちゃんは死にたくないよと聞くんです。どういう言葉で返したらいいかわかりません。」
その質問に対して、谷川さんは「もし僕がお母さんだったら、お母さんも死にたくないよと言って、ぎゅっと抱きしめ、そのあと一緒にお茶をします。言葉で問われた質問に、いつでも言葉で答える必要はないの。このように深い問いかけには、頭だけじゃなくて心や体を使って答えなきゃね」と。
人間は感情で生きているから、深い問いに出会ったとき、どんな理屈や言葉を並べても、その相手には直接響いていかない。詩人である谷川さんはそのことを理解され、相手を抱きしめるかのようにして包み込んでいくような接し方も大事なのだと教えてくださっていると、渡辺先生は推察されました。そして、渡辺先生は阿弥陀さまに重ねて「どんな言葉や理屈を並べても、その時不安で冷え切った私の心を温めることできません。阿弥陀さまは、言葉や理屈で説き伏せようとするのではなくて、南無阿弥陀仏という響きで私のいのちを抱きしめるかのようにご一緒してくださるのです」と付け加えられました。

 3人目は、サヘル・ローズさん(イラン出身で俳優タレントとして活躍)です。イラん・イラク戦争があった時代、国境近くに住んでいたサヘルさんは、4歳の時に家族が離散。救助隊に助けられた後は、孤児院で生活をしていましたが、1日一食、着ている服もお下がりでした。それでも、サヘルさんは安心して寝る場所があることに喜びを感じていました。7歳の時、テヘラン大学の大学院生だったフローラ・ジャスミンさんの養子となり、後に日本へ渡りました。サヘルさんは「フローラ・ジャスミンが私をじっと見つめてくれて、彼女の瞳の中に私の姿が映ったのを見たとき、とても嬉しかった」と話されています。渡辺先生は、サヘルさんの講演を実際聞かれことで、「私たち人間の一番の恐れは、孤独かもしれません。誰にも見てもらえない、誰にも相手にされていないんじゃなかろうか」と思われました。

「阿弥陀様さまは、いま私のいのちを抱きしめてくださっているのと同時に、あなたのことを決して一人にはしません。何か失敗したり、うまくいかないことがあるかもしれない。どんな状況にあろうとも、私のことを支えてくれる人、見つめてくれる人がきっといるはずです。うまくいかないときも、つらいときも、その喜びを見出していけるような視点を、この学校で学びながら生活していってほしい」と、生徒たちへメッセージを伝えられました。

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