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6月御命日法要 2024年06月18日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


 カエルの大合唱が聞こえる時期がきた。近所を歩くと、田植えも終わり、雨も降って絶好の居場所がしつらえられた、と喜びの声をあげているようだ。しかし、少し歩くと様子は一変してくる。田は宅地に変貌し、住宅が建築中だ。こうして田がなくなっているのは、私の近所だけの話ではない。カエルの立場からすると、すみかが狭められ、生きづらくなっている。ひょっとして、カエルの鳴き声は喜びの声ではなく悲鳴かもしれない。カエルたちを追い込んでいるのは、ほかならぬ我々人間である。人間に潜むおごり、たかぶりと無関係ではないように思えてくる。共に生きていこうという優しいこころは微塵も残っていないのではないだろうか。
  ある寺院の掲示板に「頭は低く、目は高く、心は広く」ということばが掲げられていた。私の姿は全くの逆で、「頭は高く、目は低く、心は狭く」ということだと深く思いしらされる。謙虚さということを忘れるべきではないだろう。思いあがるこころは、できるだけ抑えていかねばと思う。頭を低くするということこそが、共生していけるということではないか。そして互いに讃えあうこころを大切に、自と他の距離を小さくし、対話していくことが平和実現への道のりではなかろうか。仏教は、その出発点から平和主義、平等主義を標榜してきた教えである。また、親鸞聖人も「世のなか安穏(あんのん)なれ、仏法ひろまれ」とおっしゃる。争いのない世界が実現することを願うばかりである。

「2024(令和 6)年 6 月 1 日(土曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


6 月御命日法要
○ 日時 6 月 18 日(火)16 時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 渡辺雅俊 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2024(令和6)年6月 今月の聖語・言葉について 2024年06月01日(土)09時00分

今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

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【今月の聖語】
あたかも一つの岩の塊(かたま)りが風に揺(ゆる)がないように、賢者は非難と称賛とに動じない。 『ウダーナヴァルガ』

 「賢者」とは、何事にも動じないで、心が乱れない人のことです。他人から非難されることは、誰にとっても不愉快なことであり、なかなか動じずにはいられません。そのことをひどく気にして、落ち込んでしまいます。逆に、他人から称賛される(褒められる)と嬉しいものです。ちょっと褒められただけで、人はすぐ有頂天になります。
お釈迦さまのように優れた方であっても、当時はさまざまな人から非難され、ときには中傷や迫害を受けました。しかし、お釈迦さまはそれらに対して、一切弁解しませんでした。仏教には「忍辱(にんにく)」という言葉があり、こうした非難などに耐え忍ぶことを教えています。どれだけ非難や称賛という強い風を受けたとしても、私たちも一つの岩の塊りのように動じず、じっと耐えて冷静に対処できるように心がけたいものです。


【今月の言葉】
あたかも、母が己の独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。 『スッタニパータ』

 いよいよ六月に入り、梅雨の時期がやってきました。日本ではだいたい一ヶ月ほど続きますが、インドでは雨期が三、四ヶ月も続くそうです。お釈迦様は、雨期に芽生える草木を枯らしたり、繁殖する虫に対して殺生(せっしょう)することを防ぐため、外での修行を禁じて一ヵ所に定住するよう勧められました。そして、母親がわが子を命がけで護るように、一切の動植物のいのちに対しても、はかりしれない慈しみのこころを持つように言われています。私たちの日常で考えてみると、ついつい虫を殺したり、花を枯らしてしまったという経験があると思います。お釈迦様のように、全ての生き物に慈しみのこころを持つことは簡単なことではないかもしれません。ですが、少しでも意識して思いやりのこころがあれば、この無量の慈しみのこころを起こすことはできるのではないでしょうか。

合掌

令和6年度 宗祖降誕会・開校記念式 2024年05月21日(火)15時16分

 本日は10時より本校講堂にて、宗祖降誕会・開校記念式を勤めました。高校1年生のみ宗祖降誕奉讃法要(音楽法要)のため、本山参拝しました。

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 本校の宗祖降誕会では、本願寺派布教使の若林唯人先生のご法話をいただきました。若林先生は30歳ぐらいのとき、各宗派のお坊さんたちと、2か月に1回『フリースタイルな僧侶たち』というフリーペーパーを発行されていた方で、毎回1万5千部を全国のカフェや本屋、お寺に置かせていただき、日頃は原稿に赤を入れるなど、当時は原稿の編集に明け暮れたそうです。

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 若林先生はご法話の中で、親鸞聖人が「私が阿弥陀様のお名前をよぶ声であると同時に、阿弥陀さまが私たちによびかけてくださる声である」と教えてくださり、端的に言うと、「私にまかせよ、そのまま救う」とよびかけてくださっているとお話されました。この「そのまま」という言葉は、私が引き受けたということを表す言葉です。そのたとえとして、若林先生が夜遅く帰ってこられた際、家のことを1日やって疲れ、ソファーで寝ておられた奥様が洗い物をそのままにしていました。そんな奥様に対して、「寝ていいから、食器はそのまま置いといて」と一言告げられ、それを聞いた奥様は就寝されました。その後に「翌朝になって、もし食器がシンクにそのままだったなら、妻からしばらく口をきいてもらえなっただろう」と添えました。「そのまま」という言葉には、「食器を洗うのは、私が引き受ける」という意味が含まれており、そこには行動が伴うのです。
  さて、阿弥陀さまは、私たちのことを川で溺れているような存在だと思われています。溺れている人に今更泳ぎ方を教えても、岸までたどり着けるそんな能力はありません。岸の上で見守っている人は、その溺れている人をほってはおけないと、溺れている人のもとまで近づいてそのまま抱きかかえ、安全な岸の上まで苦しむ人を抱え上げます。「われにまかせよ、そのまま救う」と仰る阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」というお念仏となり、私の口からこぼれ出てできます。若林先生は、「口からこぼれ出るということは、南無阿弥陀仏が私に至りとどいている証拠なのだ」と仰いました。その阿弥陀さまの「よび声」を親鸞聖人は喜ばれたのです。
 この度の宗祖降誕会のご法話を通して、生徒たちにあらためてお念仏を聞かせていただくことを大切にしてほしいです。

開校記念講演 2024年05月14日(火)17時07分

本日は開校記念講演ということで、本校卒業生であるガンプ鈴木氏が来校されました。ガンプ鈴木氏は世界中の人たちとの交流を目的に、人力車で世界一周を目指している方です。
13時半より講堂でドキュメンタリー映画が上映され、引き続いて講演会がありました。

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生徒たちは映画や講演を聞き、ガンプ鈴木氏から「何事にも諦めずにやり続けることが大事」ということを学びました。

5月御命日法要 2024年05月14日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 「横顔のことば」というエッセーに出会った。人の横顔を見るのが好きだという。エッセーに影響されて、人の横顔を見てみると、正面から見るいつもの表情とは違って見える。また、見えなかったものが、少し角度を変えただけで浮かび上がるように視界に入ってくることがある。昔、国宝第 1 号に指定された広隆寺の弥勒菩薩を拝見したとき、気がつくと横から眺める位置に立っていたことを思い出した。そのしなやかな線と柔和な美しさに感動を覚えたものだ。私たちは常に正面から物を見ようとする習慣に生きている。自然なことかもしれないが、横から、そして角度を変えてみることは、ただ平面的な評価ではなく、奥深くその人を見ていくことになるように思う。すっかり定着したオンライン会議。そこには正面の顔ばかりで横顔がない。それは不自然だとそのエッセイストは言う。そして、ことば自体が変質してしまうことが大きいとも。オンライン式では 1 人ずつ順番に話すので、いきおい「正面のことば」になってしまうのに対し、対面式では、まわりから小さく聞こえる声もとりあげることができる。「正面切ったことば」「 俯(うつむ)きがちなことば」「横顔のことば」などがあると言う。ことばにも表情があるようだ。哲学者・大峯顕氏は、生きたことばには匂いや響きがあると言われていた。浄土真宗は聴聞、きくということを大切にする宗教である。ことばの表情、そして匂いや響きを聞いていきたい。
「2024(令和 6)年 5 月 1 日(水曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


5 月 御命日法要
○ 日時 5 月 14 日(火)16 時~ ※防災訓練後
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
※当日は諸行事のため、勤行(おつとめ)のみ。

2024(令和6)年5月 今月の聖語・言葉について 2024年05月01日(水)09時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
 親鸞は弟子一人ももたずそうろう  『歎異抄』
 
 『歎異抄』は唯円が書いたものとされています。唯円は親鸞聖人の弟子の一人で、聖人にはその他にもたくさんの弟子がいたと伝えられています。
 ところが親鸞聖人は、今月の聖語を仰います。「自分に弟子は一人もいない」と。その理由は、仏さまの前では師も弟子もなく、誰もが同じ念仏の道を歩んでいるからです。
 私たちは社会の中で様々な立場を与えられます。例えば、学校ではクラス役員・クラブのキャプテン・先輩後輩などです。ときには人の上に立ったり、指導する立場になることもあるでしょう。しかし広い視点で見れば、皆同じ道を歩む仲間です。
 傲慢(ごうまん)になることなく、人とのご縁を大切にしたいものです。

【今月の言葉】
今を生きて咲き今を生きて散る花たち
今を忘れて生き今を忘れて過ごす人間たち
                         坂村真民

 今月の言葉は「今というじかんの大切さ」を示しています。
 さて筆者の庭には四月の中旬頃から椿(つばき)の花が咲いていました。毎年この季節になると、たくさんの大きな花を咲かせたかと思うと、また二週間ほどでその花を地面にぽとぽとと落として散っていくのです。
 眺めていてきれいだなと思う反面、すぐに散っていくので寂しさも感じます。同時に、「すべてのものは移ろいゆく」というお釈迦さまの諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の理(ことわり)を思うと、椿だけに限ったわけではないことに気づかされます。老・病・死は、人間も含めたすべての生きとし生けるものに訪れるのです。
 しかし翻(ひるがえ)って私たちの「今」を考えてみるといかがでしょうか。無常の道理を頭でわかっていても、今を漫然と過ごしてしまうことがあるかもしれません。今月の言葉は私たちに厳しく問いかけているのではないでしょうか。
 本当に今、大切にすべきことは何か、と。

4月御命日法要 2024年04月16日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 「寒さをかこつ一声一声が陽春の呼び声である」。先日見た書物のなかにあったことばである。「寒い寒い」とこぼしているのは、その先に暖かさがあることを知り、それを求めているということでもある。言い換えれば、陽春があるからこそ、寒さをかこっているのだ。だから、求めさせているものからの「呼び声」なのである。小さな子どもが親を呼ぶ。それは子どもが親を求めている姿だが、親の愛情が子に注がれていることを示しているともいえる。親の子に対する愛情、子を思うこころが呼ばせているということである。愛情は目には見えない。しかし、感ずることはできる。子どもが呼んでいるそのことが、すでに親の愛情の中にいるということをあらわしている。見えないから無いということは言えない、ということになる。愛情を、受け入れられているということばに置き換えてみることができないだろうか。あるいは大きなものに抱かれて生きる、と表現していいのではないかと思う。仏さまにお参りすることは、仏さまとお話しするということであっていい。何を話しても聞き入れ、受け入れてくださる。話す姿そのままが仏さまに抱かれている姿でもある。
 宗門校の京都女子学園の創設にかかわった甲斐和里子さんは「み仏をよぶわが声はみ仏のわれをよびますみ声なりけり」ということばを遺される。お念仏を申しているのは私であるが、称(とな)えさせている仏さまがおられるということである。

「2024(令和 6)年 4 月 1 日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


4 月 御命日法要
○ 日時 4 月 16 日(火)16 時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 野田 茜 師(浄土真宗本願寺派布教使)

令和6年度 花まつり 2024年04月11日(木)16時44分

本日は始業式を兼ねて、9時から中学・高1学年の花まつりでした。

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ご講師は、本願寺派布教使の若林唯人先生でした。まず、お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」について触れられ、慈悲をテーマにお話しされました。苦しむ者に安らぎを与えることを「慈悲」と言い、阿弥陀さまの慈悲は「同体の慈悲」とも表現されます。それは、全体でその痛みを感じて、その痛みを取り除くからです。まだ、阿弥陀さまのはたらきは重力と同じように目には見えませんが、今もこの私に向かってはたらいている、それが阿弥陀さまのはたらきなのです。

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 若林先生は続いて、遠距離になって失恋したときのエピソードを紹介されました。その際、同じ経験をしたという大学写真部の先輩が話を聞いてくれて、「この先輩はこの失恋の辛さをわかってくれる人だ」と思われ、そのとき「この経験がいつか同じ失恋をした人の支えになる」と確信されたのです。
 また、若林先生は大学院生のとき、ゼミ発表などでしんどい状態になり、そこから大学キャンパスに入れなったときのことをお話されました。人に相談して励まされたものの、「今の辛さが他人からしたら大したことはない」と思われている気がして、自分にとっては100%のしんどさがあったと言います。そのとき阿弥陀さまの存在を知っていれば、しんどさも随分違ったことだろうと、若林先生は当時のことを振りかえっておられました。阿弥陀さまはいつでもどこでも私に寄り添ってくださる仏さまなのだということを、若林先生のご法話からあらためて感じさせられました。

 続いて、10時から高2、3学年の花まつりでした。ご講師は、本願寺派布教使の正親(おおぎ)一宣先生でした。

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正親先生もまず初めに、「天上天下唯我独尊」の言葉を挙げられ、仏陀の意味を説明されました。仏陀とは目覚めるお方のことですが、「目覚めさせる者」でもあります。そして、目が覚めている者からすれば、目が覚めていない者のことがよく見えます。阿弥陀さまからすればよく見えているが、私たちからすればつかみ切れていない。そのたとえとして、実姉とのエピソードを述べられました。正親先生はソファーに座って寝ていた姉がうなされている姿を見て、「目が覚めていない姉からすると、私(弟である正親先生)の姿は全くわからない。そして、自分が見ているもの(=悪い夢)が本当だと思って、悩み苦しんでいる。目が覚めている私からすれば、姉が見ているのは夢であって本当ではない。本当でないものを本当だと思って苦しんでいる姉の姿を見ていたら、目覚めさせずにはおれなかった(起こさざるを得なかった)」と。そのエピソードから、正親先生が仰るとおり、目覚めた者はまさに「目覚めさせる者」でもあると言えるでしょう。
 そして、最後に「天上天下唯我独尊」の言葉に触れられ、いつも他人と比べてしまうこの私に対して、「あなたが誰にも変わることができない尊いいのちなんだぞ」と、阿弥陀さまが教えてくださっている。その尊い阿弥陀さまの眼差しに支えられ、その眼差しを知っているのと知らないとでは違うでしょう。正親先生のご法話も、阿弥陀さまの慈悲につながるお話でした。

2024(令和6)年4月 今月の聖語・言葉について 2024年04月05日(金)13時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
遇いがたくして 今遇うことを得たり 『教行信証』

  この言葉は、親鸞聖人が書かれた『教行信証』に出てくるもので、親鸞聖人ご自身が尊敬すべき師に出遇えたこと、そして真実の教えを聞くことが出来たことへのよろこびを述べられています。
 親鸞聖人はここで「遇」という字を用いていますが、この字は「偶然あう」という意味です。みなさんの日常を振り返ってみても、たまたま同じ学校だった、たまたまクラスが一緒だった、たまたま同じクラブ活動だったなど、人との出遇いとはまさに偶然だと思います。
  四月に入り新入生は中学生活、高校生活がスタートします。二年生、三年生も年度が変わり、新学年として新たな気持ちで始業式を迎えたことだと思います。
新しい環境になり、この一年もみなさんにとって多くの出遇いがあることでしょう。様々な出遇いを大切にしてほしいと思います。そして、平安での浄土真宗のみ教えとの出遇いも改めて大切にしてください。

【今月の言葉】
たった一言が人の心を傷つける たった一言が人の心をうるおす  殿村進 

  みなさんの日常では、どのような言葉が交わされていますか。今までの生活を振り返ると、誰かの一言で救われた人、元気や勇気をもらった人もいるでしょう。その反面、嫌な思い、つらい思いをした人もいると思います。今月の言葉が示すように、言葉がもつ影響力は大きなものだと言えます。当然のことながら、相手に寄り添い、人の心を潤すような言葉を心がけたいものです。
 以前、次のような言葉を目にしました。作者は詩人の吉野弘という方です。詩の一部になりますが、紹介します。
  正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい
暴言や汚い言葉だけでなく、良かれと思って発した言葉も言い方次第で相手を傷つけてしまうということです。自分自身が正しいことを言っていると思っているときこそ、言葉を慎重に選んだ方が良いかも知れません。一言の重みを改めて感じながら言葉を発していきたいですね。

2024(令和5)年3月 御命日法要について 2024年03月12日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


 「春を待つ」という語は、日本では古く万葉の時代から愛されてきたといわれる。西行法師は「おいかはる春の若草待ちわびて原の枯野(かれの)に雉子(きぎず)鳴くなり」と、若草が生え替わる春の訪れを待ちわびて鳥が鳴いていると歌う。待ちわびる、待ちどおしく思うこころが読み取れるとともに、自然との一体感がひびきとして伝わってくる。最近は、天気予報が詳しく春の到来を予想してくれる。そのせいか、春の到来を待ちわびることも少なくなった。科学技術の進歩により、即刻結果がでることで待たなくてよくなったとも言えよう。待ち合わせも変わった。時間に遅れても携帯電話ですぐに相手に知らせることができるからだ。昔はそうはいかず不便だった。しかし、遅れた私を信じ待ってくれた相手の行動に感謝し、信頼の絆が強くなったことを覚えている。「待」は、待つというだけでなく、「頼りにする」という意味がある。「期待」という熟字がそれを示している。何かに頼らずに我々は生きていけない。自分一人の力で生きていると思いがちだが決してそうではない。周囲に支えられ、大きな力に身をゆだねて生きていると言ってもいいだろう。こう見ていくと「待」の字には、限りなく相手を思うこころ、そして優しささえ感じられる。親鸞聖人は「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と述べられている。単に出会いを待つのではなく、聖人の弟子に対する温かな思いが込められているのである。

「2024(令和6)年3月1日(金曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


3月御命日法要
○ 日時 3月12日(火)13時30分~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)

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