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4月御命日法要 2025年04月15日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 かつて大学で仏教学を教えていた頃に見た、ある学生が出したレポートが今でも鮮明に思い浮かぶ。その内容は、教科書に書かれていることには間違いはなく、正しいことばかりであろう。それに比べると祖母のことばは、間違っていることがあるかもしれない。でも祖母のことばには「あたたかみ」がある、と書かれていた。間違っていてもあたたかみを覚える、ということばが響いてくる。「あたたかみ」を感じる関係性は長い時間をかけて醸成されていくものであろう。すぐに結果を求められ、間違いがゆるされない風潮が強くなった社会である。私たちもまた、間違いがわかるとすぐに切り捨ててしまってはいないであろうか。切り捨てられる不安ではなく、どこまでもよりそい、丁寧に受け止めてくれる存在はあたたかい。
 親鸞聖人は「この身は、いまは、としきはまりて候(そうら)へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と、ご消息に述べられている。なんと人間的なあたたかさに満ちあふれたことばであることか。
 現代は「待つ」ということばも消え失せようとしている。「待つ」ということばも再興させたい。それは、この語に限りなく人を思うこころ、あたたかみが込められているといってよいからである。置いてけぼりにさせてしまう待てない社会は冷たさを感じる。今こそ「あたたかさ」「待つ」ということに、心をよせていきたいものである。

「2025(令和 7)年 4 月 1 日(火曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


4月 御命日法要
○ 日時 4 月 15 日(火)16 時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 津守 秀憲 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2025(令和7)年4月 今月の聖語・言葉について 2025年04月01日(火)10時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】

仏心とは大慈悲これなり
『仏説観無量寿経』

  このお言葉は浄土真宗が拠り所とする経典である「浄土三部経」の一つである『仏説観無量経』に説かれるものです。
  仏教には「智慧」と「慈悲」という言葉が度々出てきます。「智慧」とは私たちが思い浮かべるような知識や賢さではなく、ありのままに一切を見ることを意味します。仏さまは、この世をありのままに見て「すべてはつながっている」と説かれました。みなさんの中にも耳にしたことがある人もいるかも知れませんが、詩人で童話作家の宮沢賢治氏も「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を残していますが、仏さまの心を示された言葉だと受け取ることが出来ると思います。
  さて、「すべてはつながっている」という視点に立ったとき、それで終わりではありません。つながっているからこそ、他者に対する慈しみの心、優しさの心が生じてきます。これが「慈悲」というものに展開されていきます。
  私たちの日常を振り返ったとき、つながりを忘れ周りの人を傷つけながら過ごしているかも知れません。仏さまの姿から学べる慈悲の心を日常の中で心に留めて過ごしてみてはどうしょうか。

【今月の言葉】

いただきますと合掌するのは感動の表現である
米沢英雄

  普段の食事の際に合掌して「いただきます」、「ごちそうさまでした」と声に出していますか。この合掌するということが感動の表現だということに個人的に大変感銘を受けました。日々の食事に恵まれ、こうして生かされていることへの感謝を忘れ、当たり前になってしまっていませんか。改めてここに生きていること(生かされていること)が当たり前ではないことを再認識したいですね。
  浄土真宗本願寺派では「食前のことば」「食後のことば」というものがあります。言葉の意味を味わってみてください。

【食前のことば】
   多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
   深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
【食後のことば】
   尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
   おかげで、ごちそうさまでした。

3月御命日法要 2025年03月18日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

頑なに融(と)けようとしなかった雪のかたまりが陽ざしを浴びて姿を消していく。春の訪れも遠くない。古き友6人と久し振りに食事会を持った。きっかけはそのうちの1人との電話。年齢をあらためて聞きあい、月日の速さに驚かされた。
 互いの顔を見ながら話をしていると、何十年も前に共に学んでいたことが、まるで昨日のことのようによみがえってくる。それぞれが違う道を歩みながらも、今ともにこの娑婆世界にいる。こうして会えている不思議さをかみしめながら、貴重な時間を過ごした。人間は人との出会い、交わりによって成長していくもので、年齢に関係なく教えられることも多い。互いに刺激を受けながら、1人のことばにあらためて考えさせられた。「学生時代、もう少し勉強しておけばよかった」。よく聞くことばだ。
 人間誰しも過去を振り返り、「ああしとけばよかった」ということはある。仮に、過ぎた時間をやり直すことができたとして、充実した後悔しない時間を過ごせるかというと、そうはいかない。前と同じことを繰り返してしまうように思う。だから、いつまでたっても後悔の念はとどまることはないのだろう。その思いを「今を大切に生きよう」とすることに転換していければと思う。切り替えである。
「未来をあてにするな、過去を振りかえることなかれ。そして、あるのは今だ」。大事にしたいのは「今」である。親鸞聖人は『教行信証』冒頭で「いま遇(あ)ふことを得たり」と「今」を強調されている。

「2025(令和7)年3月1日(土曜日)本願寺新報『赤光白光』より」

3月御命日法要
○ 日時 3月18日(火)13時30分~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤 恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2025(令和7)年3月 今月の聖語・言葉について 2025年03月01日(土)08時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
急いで善を行え 心が悪を楽しむ前に 『ダンマパダ』

 良いと思ったことは、ためらわずただちに実行すべきだという意味です。お釈迦さまは「急いで善を行え」とおっしゃっており、ことわざにある「善は急げ」はこの聖語に由来します。ためらってグズグズしていると、人間の心は悪を楽しむようになってしまうというのです。この悪というのは悪事を指しているのではなく、怠惰のことです。すぐにやろうとは思っていても、怠け心が生じてしまい、結局やらずに終わってしまったという経験はありませんか。人間の心はこうした悪に流されやすく、すぐ怠けたり、楽をしたりするのです。ですから、心が悪を楽しむ前に、みなさんも良い行いや良い考えだと思ったら、すぐに取り掛かってみましょう。


【今月の言葉】
一番あてにならぬのはわが心です  武宮 礼一 

 よく「他人(の心)はあてにならない」と言いますが、実は一番あてにならないのは自分自身の心なのかもしれません。私たちは、自分の都合や損得勘定(何が得で、何が損なのか)によって、物事を判断しているのではないでしょうか。たとえば、仲の良い友達でいれば、相手のことを好きだという気持ちが強いでしょう。しかし、一旦喧嘩になってしまえば、仲の良い友達であっても、相手を嫌いになってしまうことさえあります。こうしたように、人の心というものは、その状況に応じてコロコロ変わってしまうものなのです。
 また、私たちには自己中心的な心があり、その心の中には物差しというものがあります。その物差しで、他人や物事を測り、判断したり決めたりしているのです。他人と接する場合、相手にも物差しがあり、その物差しは人によって違うのです。そして、自分の物差しが決して正しいとは限りません。自分の心はあてにはならないものであることを、一度見つめ直すことが大切なのだと思います。

帰敬式について 2025年02月26日(水)17時00分

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  本日、高校3年生の3名と教員1名が本願寺で執り行われた「帰敬式」を受式しました。
 「帰敬式」とは、浄土真宗のみ教えに帰依し、仏弟子として法名をいただき、新たな人生を歩んでいくことを誓う大切な儀式となります。また、「帰敬式」でいただく法名は「釋○○」というもので、「釋」の文字は、お釈迦さまの弟子(仏弟子)としていただく名前です。

  6年間もしくは3年間、平安で親鸞聖人のみ教えを学び、卒業の前に「帰敬式」を受式できたことを大変嬉しく思います。

  今後の人生においてもお念仏をどうぞ大切にしてくださいね。

2月御命日法要 2025年02月18日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 
  「花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく」。『古今和歌集』に小野篁(おののたかむら)の歌としてみられる。花が雪に紛れて見えないとしても香りだけは匂ってほしいものだ、という心に読み取れる。梅の花だと思われるが、花と香りは一つのもので切り離すことはできない。見えなくても香りから花の姿を思い浮かべることができる。
 香りと姿で言えば、「姿より香りに生きる花もある」という言葉もある。外形だけで判断してはならないことを示すことばともとれる。秋に咲く金木犀(きんもくせい)の花はどこかひかえめだが、香りは別名九里香と言われるほど、よい香りを遠くまで放っている。「香りに生きる」ということばもどこか、宗教的な生き方を想起させる。
 よい香りのする栴檀(せんだん)。木は枯れてもそこかしこに香りを漂わせていることから、「栴檀しのの枯れても残る香りかな」。亡き人を偲ぶときに用いることがある。「香り」ということばそのものが心を癒やし、心落ち着かせてくれる雰囲気が宿されているようだ。
 親鸞聖人は「香り」を和讃に詠まれている。「染香人(せんこうにん)のその身には香あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳(こうこうしゅうごん)とまうすなる」。仏の智慧に染まった人、すなわち念仏者は芳かんばしい香りにつつまれて、安らぎと心なごむ雰囲気を感じとることができる、と詠われている。「昔、広島地方では、念仏者には独特の香りがあると言われていた」という先輩のことばを、雪の朝に思い出した。

「2025(令和7)年2月1日(土曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


2月御命日法要
○ 日時 2月18日(火) 16:00~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 渡辺 有 師(浄土真宗本願寺派布教使)

令和6年度 涅槃会 2025年02月08日(土)15時39分

 本日は10時より涅槃会を勤修しました。ご講師は本願寺派布教使の三ヶ本義唯先生で、「願い」をテーマにご法話をいただきました。

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 三ヶ本先生は「言葉や行動に込められた願いを見失われると、表面上は全く一緒でも、中身が全然違うものになってしまうということがある」と述べられ、アメリカの保育園を例に挙げれられました。アメリカのある保育園では、親御さんたちのお迎えが遅いという悩みがありました。遅刻を無くすために保育園が取った対策は、罰金制度を設けることでした。しかし、この罰金制度が始まったことで、遅刻が倍以上に増えたそうです。その原因として、親御さんたちが罰金ではなく「追加料金」として捉え、「お金を払えばその分遅れてもいいのだろう」と解釈したためです。保育園側の「遅刻をしないでほしい」という願いは見失われ、同じお金を払う行為は同じでも、中身は別のものにあってしまったという一例です。

 さて、涅槃会はお釈迦さまを偲ぶ行事です。そのお釈迦さまは、最期に「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ(自灯明・法灯明)」と仰いました。「法」とは南無阿弥陀仏であり、阿弥陀さまという仏さまが私たちに願いをかけてくださっていることを示されました。その願いについて、三ヶ本先生は「すべての人を救いたい。いのち終わったら、必ず私の国であるお浄土に迎い取って仏にしたいという願いであり、その願いをよりどころにして励んでいきなさい」と解説されました。

 ご法話の後半では、原爆に関する歌を紹介されました。三ヶ本先生は広島出身で、三ヶ本先生の曾祖父は被爆者とのことでした。紹介された歌は、次のようなものでした。

 被爆せし 男(お)の子十三 今際(いまわ)の言葉
 「お浄土に羊かんあるの?」「お浄土に戦争無いね?」

「被爆せし男の子」とは、山本真澄君という13歳の少年のことです。爆心地からおよそ2キロのところで被爆し、声を聞かなければ真澄君本人とはわからないほど、変わり果てた姿になっていました。救護所でろくな治療も受けることができず、家の布団で寝ることしかできませんでした。そして、次第に呼吸も浅くなり、意識も途切れ途切れになっていきました。深夜11時頃、真澄君が「お浄土っていうのは本当にあるのかな?」と、突然両親に聞いたそうです。真澄君のお母さんが「ええ、もちろんお浄土はありますよ」と答えると、続いて「そのお浄土には羊羹はあるのかな?」と尋ねました。お母さんは「ええ、もちろん羊羹でもなんでもありますよ。戦争なんてあるもんですか。そこは素敵なところなんですよ」と言い、それを聞いた真澄君は「そうかい、そうかい、それなら僕は死のう。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と呟き、お念仏を申しながら真澄君は息を引き取りました。この歌を通して、三ヶ本先生は「そこに死といういのちの現実が身近にあったかどうかということです」と述べられました。

 そして最後に、三ヶ本先生は「自らのいのちは仏さまになる尊いいのちであり、そのいのちを全うしてほしいという仏さまの願いが込められています。日常において、お父さんやお母さん、先生や友達がその言葉の中にどのような願いを込めて言ってくれたのか、そのような行動をしてくれたのか。その願いを大切にして過ごしていってほしい」と、ご法話を締めくくられました。

2025(令和7)年2月 今月の聖語・言葉について 2025年02月01日(土)09時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして自分の主であろうか。 『ダンマパダ』
 
私たちは自分のことは自分が一番わかっているし、コントロールできると思うことがあります。しかし苦しいときや悲しいときは思わず現実から目を背けたり、困難に出会ってもどこか他人事のようにふるまったりします。人生の主人公として生きているつもりが、案外思い通りにならないのがこの自分だともいえるのです。
だからこそ周りに多く支えられて生きています。しかしどれだけ他者が寄り添ってくれたり助けてくれても、自分が老いて病んで死んでいく苦しみは誰も代わってくれません。
 釈尊が「自己こそ自分の主」だと述べられるのは他でもなく自分自身が人生の苦しみも悲しみも困難も自分事として引き受けて生きていかなければならない。そして同時に苦からの解放の道である仏教も自分事として受け止めることが重要だと示されているのです。
 今月の涅槃会は、釈尊がこの世のいのちを終えられたことを偲び行われる行事です。聖語を味わいながら、釈尊が遺されたメッセージに耳を傾ける機会にしてくださいね。

【今月の言葉】
人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくてみな光る
榎本 栄一

「十人十色(じゅうにんといろ)」という言葉がある通り、人は考え・好み・性質などがそれぞれ異なります。さらに人だけではありません。草も木も虫も動物も同じものは一つもありません
しかしどの存在も同じでなくて、すべて光り輝く存在であると今月の言葉には示されます。これはどういうことでしょうか。
 仏教ではすべて生あるものはことごとく仏となる可能性があると説かれます。仏道を歩む者に優劣はなく聖者でも悪人でも生きとし生けるものすべてが仏になることができるというのです。
作者である榎本さんは、浄土真宗のお念仏の教えの味わいを多くの詩に表現されてこられました。今月の言葉も阿弥陀さまの計り知れない智慧の光と慈悲のぬくもりを感じながら作られたものでしょう。最後の「みな光る」という結びは、みな阿弥陀さまの救いの中にあり、仏さまのお悟りの光を宿してすべてが光輝く尊い「いのち」を生きていることが示されているのです。

令和6年度 報恩講 2025年01月16日(木)13時00分

 本日は10時より、本校講堂にて報恩講を勤修しました。ちょうど親鸞聖人の祥月命日となります。ご講師は本願寺派布教使の野田茜先生で、「阿弥陀様の願い」をテーマにご法話いただきました。

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  道徳の教科書にも採用されている「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」のお話を紹介されました。ある村に年をとったお坊さんがやってきて、村人たちが親切にしてくれたことから、村人たちに2体のお地蔵さまを置いていかれました。1体は何でも願いを聞きとどけてくださるお地蔵さま、もう1体はお願いごとを聞きとどけてくださらない聞かぬお地蔵さまです。お坊さんが「聞くお地蔵さんより聞かぬお地蔵さんにお参りする方がいいぞ」と言ったにも関わらず、村人たちは聞くお地蔵さまにさまざまなお願いをし、それぞれが自分の願いを叶えていきました。すると、自分と同じように幸せな人を見ると腹が立つようになり、人の不幸を願うようになって喧嘩が絶えない村になってしまいました。再びその村を訪れたお坊さんは、村人たちに「聞かぬお地蔵様をお参りしなさい」と言いました。村人たちは「ハッ」と気づいて、聞かぬお地蔵様に黙って手を合わせるようになり、その村は平和になったというお話でした。

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 阿弥陀様は、私の願いを何でも聞いてくださる聞く仏様ではありません。私の願いを阿弥陀様に聞いてもらうのではなく、阿弥陀様の一番大切な願いを聞くことです。阿弥陀様の願いとは、この私たち一人ひとりを仏にしたいという願いです。私の願いを全部聞いていくことが幸せになるのではなく、相手のことを願っていくことこそが、自分も相手もまことに幸せになれることだと見にいてくださっているのです。だから、阿弥陀様は私たち一人ひとりを願ってくださっているのです。野田先生は阿弥陀様の願いについて触れつつ、「心の底から誰かに願われていることに気づいたときに、大きなすごい力を与えてくださり、私の小さな願いや欲望は必要なかったなぁと気づくこともあるんじゃないか」とお話されました。

 本校の日常の心得のなかには、「願われているいのち」があります。生徒たちは今日のご法話を通して、阿弥陀様をはじめ、身近な方たちを思い浮かべながら聞いていたことでしょう。

2025(令和7)年1月 今月の聖語・言葉について 2025年01月01日(水)12時00分

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今月の聖語・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
人身(にんじん)受けがたし 今すでに受く  仏法(ぶっぽう)聞きがたし 今すでに聞く     『礼讃文』

  釈尊の教えに次のようなものがあります。
  ある時釈尊は、大地の砂を手にすくい、弟子たちに次のように質問しました。「この手のひらの砂の数と大地の砂の数は、どちらが多いでしょう」弟子は答えました。「もちろん大地の砂の数の方が多いです」すると釈尊は、静かにうなずかれて、「その通りです。この世の中に生きているものは大地の砂の数くらいたくさんいるけど、人間としていのちを恵まれるものは、手のひらの砂の数ほどわずかなものだよ」と答えられました。そして、今度は手のひらの砂を指の爪ですくい、重ねて質問しました。「手のひらの砂の数と、指の爪の上の砂の数は、どちらが多いでしょう」弟子は答えました。「もちらん手のひらの砂の数の方が多いです。指の爪の上の砂の数は、ほんのわずかです」すると釈尊は、深くうなずかれて、「その通りです。同じ人間としていのちを恵まれながら、仏の教えに出あえるものは、ほんの爪の砂の数くらいしかいないのです。だからこそ、人間としていのちを恵まれ、仏法に出あえたことを大切にしなければなりません」と言われたということです。(本願寺出版社『みのり』より)   
  不思議なご縁でこの世に人として生まれ、そして平安で仏法に出遇いました。この尊いご縁を今年も大切にし、日々過ごしてほしいと思います。

【今月の言葉】
明日の目的のために今日を生きているのではない  今日が全部だ     安田理深

  今月の言葉は、真宗大谷派の僧侶である安田理深という方のお言葉になります。
  親鸞聖人が九歳の時に詠まれたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは(明日があると思っていても、今は満開に咲いている桜が、夜中に嵐が吹いて散ってしまうかも知れない。それと同じように、この私の身も心も明日はどうなるかわからない)」という和歌と重なるように思います。親鸞聖人が得度(僧侶になること)されるとき、夜も遅く、明日にしようかと促されたそうです。その時にこの和歌を詠まれ、その日のうちに得度を終えられ、僧侶としての人生が始まりました。
  仏教には「無常」という教えがあります。すべては移り変わっていくことを意味します。誰しも当然のことながら、一分先、一時間先、一日先のことはわかりません。ましてや、明日があると思っていても、本当に明日を無事に迎らえるかはわかりません。今月の言葉で述べられる「今日が全部だ」という気持ちで、今日を大切に過ごしていきたいですね。「明日でいいか」とつい先延ばしにしがちな私たちですが、新年を迎えるにあたり、「今日」という時の尊さを改めて教えられる言葉だと思います。  合掌

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