本日は10時より涅槃会を勤修しました。ご講師は本願寺派布教使の三ヶ本義唯先生で、「願い」をテーマにご法話をいただきました。
三ヶ本先生は「言葉や行動に込められた願いを見失われると、表面上は全く一緒でも、中身が全然違うものになってしまうということがある」と述べられ、アメリカの保育園を例に挙げれられました。アメリカのある保育園では、親御さんたちのお迎えが遅いという悩みがありました。遅刻を無くすために保育園が取った対策は、罰金制度を設けることでした。しかし、この罰金制度が始まったことで、遅刻が倍以上に増えたそうです。その原因として、親御さんたちが罰金ではなく「追加料金」として捉え、「お金を払えばその分遅れてもいいのだろう」と解釈したためです。保育園側の「遅刻をしないでほしい」という願いは見失われ、同じお金を払う行為は同じでも、中身は別のものにあってしまったという一例です。
さて、涅槃会はお釈迦さまを偲ぶ行事です。そのお釈迦さまは、最期に「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ(自灯明・法灯明)」と仰いました。「法」とは南無阿弥陀仏であり、阿弥陀さまという仏さまが私たちに願いをかけてくださっていることを示されました。その願いについて、三ヶ本先生は「すべての人を救いたい。いのち終わったら、必ず私の国であるお浄土に迎い取って仏にしたいという願いであり、その願いをよりどころにして励んでいきなさい」と解説されました。
ご法話の後半では、原爆に関する歌を紹介されました。三ヶ本先生は広島出身で、三ヶ本先生の曾祖父は被爆者とのことでした。紹介された歌は、次のようなものでした。
被爆せし 男(お)の子十三 今際(いまわ)の言葉
「お浄土に羊かんあるの?」「お浄土に戦争無いね?」
「被爆せし男の子」とは、山本真澄君という13歳の少年のことです。爆心地からおよそ2キロのところで被爆し、声を聞かなければ真澄君本人とはわからないほど、変わり果てた姿になっていました。救護所でろくな治療も受けることができず、家の布団で寝ることしかできませんでした。そして、次第に呼吸も浅くなり、意識も途切れ途切れになっていきました。深夜11時頃、真澄君が「お浄土っていうのは本当にあるのかな?」と、突然両親に聞いたそうです。真澄君のお母さんが「ええ、もちろんお浄土はありますよ」と答えると、続いて「そのお浄土には羊羹はあるのかな?」と尋ねました。お母さんは「ええ、もちろん羊羹でもなんでもありますよ。戦争なんてあるもんですか。そこは素敵なところなんですよ」と言い、それを聞いた真澄君は「そうかい、そうかい、それなら僕は死のう。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と呟き、お念仏を申しながら真澄君は息を引き取りました。この歌を通して、三ヶ本先生は「そこに死といういのちの現実が身近にあったかどうかということです」と述べられました。
そして最後に、三ヶ本先生は「自らのいのちは仏さまになる尊いいのちであり、そのいのちを全うしてほしいという仏さまの願いが込められています。日常において、お父さんやお母さん、先生や友達がその言葉の中にどのような願いを込めて言ってくれたのか、そのような行動をしてくれたのか。その願いを大切にして過ごしていってほしい」と、ご法話を締めくくられました。