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平成27(2015)年度 仏参【4月】 校長講話 2015年04月24日(金)12時30分

学校長講話

みなさん、おはようございます。
 さて、昨年度(2014)の生徒手帳には『智慧』という言葉を記させていただきました。今年度(2015)の生徒手帳にしたためさせていただきましたのは『慈悲』です。それでは、智慧と慈悲について、お話させていただきます。
 慈悲とは、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みとなる心で、智慧とは、その相手を救うために心理を深く洞察することです。この私が仏さまの智慧と慈悲を完成していくのではありません。仏さまの智慧と慈悲が私の身の上に届いて内なる心を成長させてくださるのです。その私がどうあるべきかを大切に考えたいものです。と、このような説明になりますが、少し難しいですね。
 もう少しかみ砕いて説明いたしましょう。まず智慧ということですが、智慧の智とは外面がありのままに見えるということです。私たちは、外を見るのも先入観や自分の好き嫌いで見ていますから、ありのままにものが見えていません。おそらく、外面の半分も見えていればいい方かもしれません。
 智慧の慧とは、ものの内面というか、背後がありのままに見えるということです。私たちは、毎日、顔を合せ一緒に住んでいる家族のことも、よく見えていません。私自身を考えても、確かに、子供の身長や体重の成長は見えていても、今、子供が、どんな気持ちで親を見ているのか、どんな思いで日々を送っているのかは、見えていません。夫婦でも、お互いに年を取ったことは見えていても、お互いの思いは、解かっているようで実は解かっていません。
 周りの人が見えないということは、自分もよく見えていないということです。私たちは、とかく、自我に執着してしまいます。自我とは、みなさんがよく言う「自己中」と言っていいでしょう。その自己中心的と言いますか、「我」を通すことだけに力が入り、周りの人の気持ちや思いを受けとることがお留守になっているのです。この「我」こそが、ものを見えなくする諸悪の根源なのです。この「我」が開かれるところに智慧の世界があるのです。「我」が開かれ周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてきますと、自分の非なるところが見えてきます。この自分を非と受け取る心が、慈悲の悲なのです。正に、慈悲の悲という字は、非の下に心と書きますね。
 それでは、智慧の説明にもどりますが、お釈迦様は、悟りをひらかれた体験から、人間が生まれながらに持っている偏った見方や自分独りよがりの考え方ではなく、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されました。その「ありのままの真実」を見ること、それが「智慧」なのです。「ありのままの真実を見ること」と言われても、多くの人は「いったいどういうことなのか」と、思われるでしょう。
 ごくごく分かりやすい例で言いましょう。「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分の利益にならない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、見分けたりするのも、結局は自分というモノサシではかっているのです。
 仏教は、この自分のモノサシ、モノサシは先ほど申しました「自我」にあたります。この自分のモノサシ、「自我」こそあらゆる苦悩を生み出す原因であると考えます。仏の智慧は、自己中心的なものの見方や自分独りよがりの考え方というモノサシを超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあります。
 お釈迦さまは、「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、また、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味をもつものになる」とお示しくださっています。つまり、人間は自分の勝手な思い込み、自分に視点を置き、自分中心にものを見ているに過ぎないのです。
 この智慧のない人間は、常に自分を是とし、他の人を非とします。わかりやすく言いますと、何でも自分が正しく、他人が間違っているとみて、何かあると、他人を裁き、責める生き方しかしません。智慧によって自分の非を知らされた人は、他人を裁いたり、責めたり出来ません。つまり、周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてくると、自分の非なるところが見えてき、自分を非と受け取る心が芽生えてくるのです。だから、あの人も、この人も、私と同じ悲しみをもったお仲間であると手を取り合って行くしかないのです。
 そして、慈悲の慈とは、自分を非と受け取る心によって開けてくる友情というか仲間意識の芽生えということになります。慈は「いつくしむ」と読みますが、自分を高い所において、他人を下に見て手を差し伸べるということではありません。同じような悲しみを共有するお仲間として手を取り合うのが慈です。智慧のない人に本当の慈悲の心はありません。従って、慈悲は智慧によるのです。他人を慈しみ寄り添う心を持ち、共に生きるという「共生(ともいき)」の精神が、みなさんも、この私も、「こころの幹(き)」を育てることに繋がるのだと思います。
 みなさんも、私も、仏の智慧を持って他人に対し、慈悲の心で接することを心掛けたいものです。