2020(令和2)年度 御命日法要【10月】
私たちのちかい 一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
日常の言い方をひっくり返した「眼で聞き、耳で見る」ということばがある。「眼で聞く」とは、われわれをとりまく物質を見る眼で聞くというのである。これは「目で見ているものが語りかけてきて、それを聞く」というようなことばを補わなければ理解できないだろう。
たとえば、広島平和記念資料館には被爆の実相を記す展示が並んでいる。それらは何かを語り、何かを訴えかけている。もちろん、声で聞こえるものではないが、確かに語りが聞こえてくる。それは、聞く側に受け入れる準備がととのっているからでもある。先日、本紙で紹介された被爆ピアノもそうだ。音だけでなく、奏でる奥にあるものを聞いていくとき、はじめて、そのピアノと向かい合うことになる。
また、「耳で見る」という語については、眼に見えないけれど、聞こえてくるものによって状況を把握したり、頭に描いたりすることである。朝、スズメの鳴き声で目が覚める。いつも餌をやるので朝、庭に遊びにくる。そういう様子は眼には見えなくても声によって想像することができる。
このように、「眼で聞き、耳で見る」という表現の根底には、「他を思うこころ」があるといえよう。かつて、このようなことばに出会ったことがある。東北の被災地を見舞うときは、眼で聞き、耳で見るような気持ちで訪ねるべきだと。被災者の声なき声を眼で聞き、発する言葉の奥にあるものを見ていくというような出会い方をいうのであろう。
「2020(令和2)年10月1日(木曜日)本願寺新報『赤光白光』より」
10月 御命日法要
○ 日時 10月13日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ