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オンライン涅槃会 2022年02月08日(火)16時00分

 本日は、本校の礼拝堂で涅槃会を勤修しました。そして、昨年と同じくオンラインとなりました。

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 この度のご講師は、浄土真宗本願寺派布教使の朝山大俊先生です。朝山先生は本校の卒業生でもあり、貴重なご法話をいただきました。

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 最初に、朝山先生は「仏さまに手を合わすのはどういう意味か」ということについてお話されました。仏さまに手を合わせて頭を下げる(合掌・礼拝)のは、仏さまのことを尊敬する、あるいは仏さまを人生におけるよりどころにするという意味です。そして、仏さまの姿かたちに現れ出たお心こそ、人生におけるよりどころとしていきますということを表すために頭を下げるのです。そして、その仏さまのお心が言葉になって説かれたのが、お経です。

  天親菩薩が「お経とは何なのか」ということについて、「最清浄法界等流」と示されています。最も清らかなる世界から等しく流れ出たものがお経であり、仏さまのお悟りの心そのものが言葉となって現れ出ているということです。『仏説観無量寿経』の中に、「仏さまの心とは、大慈悲これなり」と説かれているように、その心とは「大慈悲心」です。「大」とは、分け隔てがないということです。「慈悲」とは、他の者の幸せを自らの幸せとし、他の者の悲しみや苦しみを自らの悲しみや苦しみとして引き受けていくということです。つまり、あらゆるいのちの幸せが私の幸せであると受け止め、あらゆるいのちの悲しみや苦しみが私の悲しみや苦しみとして引き受けるという心を「大慈悲心」というのです。

 朝山先生はその後に、「人の幸せは嬉しいですか。悲しんでいる人や苦しんでいる人がいたら、かわいそうやなぁと思っても、代わってあげたいとは思わないのではないですか」と、投げかけられました。私たちは他人の幸せよりも自分の幸せを考えてしまいがちです。他人のことを考えられるのは心に余裕があるときであり、心に余裕がなくなると自分の幸せが一番だと思ってしまう。それが私たちの本性であると指摘されました。
 
 さらに、「自分さえよければいいという心を持ちながら、仏さまを拝む身になれたことはすごいことです。お釈迦さまがお出ましにならなければ、あり得なかったことです」とおっしゃいました。私たちが仏さまを拝む身になったということは、尊いものが何なのかを知らされた姿です。尊いものが知らされたら、尊くないものがわかる。尊いものが仏さまのお心である「大慈悲心」だとしたら、尊くないものはその反対の心、つまり自分さえよければよいということです。つまり、「それはよくないことなんだな、恥ずかしいことなんだな」ということに気づかされるということが、尊いことが知らされるということなのです。

  今日の朝山先生のご法話に聴聞し、仏さまに手を合わせつつ、そうならないように意識していきたいものです。