私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
「春を待つ」という語は、日本では古く万葉の時代から愛されてきたといわれる。西行法師は「おいかはる春の若草待ちわびて原の枯野(かれの)に雉子(きぎず)鳴くなり」と、若草が生え替わる春の訪れを待ちわびて鳥が鳴いていると歌う。待ちわびる、待ちどおしく思うこころが読み取れるとともに、自然との一体感がひびきとして伝わってくる。最近は、天気予報が詳しく春の到来を予想してくれる。そのせいか、春の到来を待ちわびることも少なくなった。科学技術の進歩により、即刻結果がでることで待たなくてよくなったとも言えよう。待ち合わせも変わった。時間に遅れても携帯電話ですぐに相手に知らせることができるからだ。昔はそうはいかず不便だった。しかし、遅れた私を信じ待ってくれた相手の行動に感謝し、信頼の絆が強くなったことを覚えている。「待」は、待つというだけでなく、「頼りにする」という意味がある。「期待」という熟字がそれを示している。何かに頼らずに我々は生きていけない。自分一人の力で生きていると思いがちだが決してそうではない。周囲に支えられ、大きな力に身をゆだねて生きていると言ってもいいだろう。こう見ていくと「待」の字には、限りなく相手を思うこころ、そして優しささえ感じられる。親鸞聖人は「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と述べられている。単に出会いを待つのではなく、聖人の弟子に対する温かな思いが込められているのである。
「2024(令和6)年3月1日(金曜日)本願寺新報『赤光白光』より」
3月御命日法要
○ 日時 3月12日(火)13時30分~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)