私たちのちかい 一、自分の殻に閉じこもることなく
穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
「寒さをかこつ一声一声が陽春の呼び声である」。先日見た書物のなかにあったことばである。「寒い寒い」とこぼしているのは、その先に暖かさがあることを知り、それを求めているということでもある。言い換えれば、陽春があるからこそ、寒さをかこっているのだ。だから、求めさせているものからの「呼び声」なのである。小さな子どもが親を呼ぶ。それは子どもが親を求めている姿だが、親の愛情が子に注がれていることを示しているともいえる。親の子に対する愛情、子を思うこころが呼ばせているということである。愛情は目には見えない。しかし、感ずることはできる。子どもが呼んでいるそのことが、すでに親の愛情の中にいるということをあらわしている。見えないから無いということは言えない、ということになる。愛情を、受け入れられているということばに置き換えてみることができないだろうか。あるいは大きなものに抱かれて生きる、と表現していいのではないかと思う。仏さまにお参りすることは、仏さまとお話しするということであっていい。何を話しても聞き入れ、受け入れてくださる。話す姿そのままが仏さまに抱かれている姿でもある。
宗門校の京都女子学園の創設にかかわった甲斐和里子さんは「み仏をよぶわが声はみ仏のわれをよびますみ声なりけり」ということばを遺される。お念仏を申しているのは私であるが、称(とな)えさせている仏さまがおられるということである。
「2024(令和 6)年 4 月 1 日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」
4 月 御命日法要
○ 日時 4 月 16 日(火)16 時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 野田 茜 師(浄土真宗本願寺派布教使)