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私たちのちかい
一、自分の殻に閉じこもることなく
穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
せいいっぱい日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
2008 年、H2A ロケットで打ち上げられた人工衛星。その名を「きずな」といった。設計寿命の 5 年をはるかに超えて、昨年 2 月まで運用され、一定の役割を果たした。
この衛星は、だれもが平等に高速通信サービスを受けることができる社会を実現することを目的としていた。私たちは知らない間に恩恵を被ってきたということであろうか。遠く離れた人たちとのコミュニケーションが容易にできうるという思いが「絆」という名前をつけさせたのであろう。衛生の知識は全くないが、絆という名に関心を寄せてきた。
ところで、絆を「広辞苑」でみると、「馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱」「断つにしのびない恩愛。離れがたい情実」などと説明する。旧仮名遣いでは「きづな」と書くことから、元来つなぎとめるもの、綱をいったのだろう。「羈絆(きはん)」という言葉もある。同じようにつなぐという意味である。単に物と物とのつながり、つなぐということである。しかし絆には「共にこの道を歩んでいきましょう」とか「共に喜び、悲しみを一緒にしていきましょう」というこころから生まれ出てくるようなつながりもある。大事にしたいつながりである。特に「共に」という語を忘れてはならない。
「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)のスローガンは「結ぶ絆から、広がるご縁へ」。さまざまなつながりの中で、こころの結びつき、ご縁を大切にしたい。(O)
「2020(令和 2)年 6 月 1 日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」
6月御命日法要
○ 日時6 月 16 日(火)16 時 00 分~
○ 場所講堂
○ 法話※勤行(讃仏偈)のみ
◎ みなさん、お揃いでお参りください。
※浄土真宗本願寺派が 5 月 26 日、「新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター」(4 月 23 日)に続くポスターを3つ制作されましたので添付します。*本校HP【宗教教育ブログ】に「不安の中でも、仏さまと共に」(5 月 28 日)掲載済み
■コロナらしい時は お医者さま
不安になる時は 不安になる
「そのまま救う」の弥陀の慈悲
おやさしい 南無阿弥陀仏に
ありがとう
【メッセージ文について】
いつまで続くとも見通せない、この新しい感染症に、どう向かい合っていくべきかを考えたとき、足元をしっかり見据えておく必要があるでしょう。
事は医学の領域ですから、まずは医師の科学的判断と指示を基本とすべきです。
一方で、私たちの心の中は、必ずしも科学的・理性的な判断ができるわけではなく、「罹患(りかん)してしまうのではないだろうか」、「死んでしまうかも知れない」といった不安も、しばしば起こります。その不安は煩悩(ぼんのう)のしわざ。お釈迦さまのように悟れていませんから、煩悩のわが身は死ぬまで変わりません。
そんな不安の中でも、「そのままのあなたを引き受ける」と立ち上がられた阿弥陀さまは、はたらきつづけておられます。
ご門主さまはご消息の中で「縁起(えんぎ)や無常(むじょう)・無我(むが)というこの世のありのままの真実に基づく阿弥陀如来のお慈悲でありますから、いのちあるものすべてに平等にそそがれ、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の私たちも決して見捨てられることはありません」(取意)と述べておられます。このようにお慈悲の真実を、その心を聞かせていただくことにより、人生のさまざまな状況の中で、右往左往しながらも、目の前の現実にきちんと向き合う道が開かれてくるのです。
おやさしい南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)に、「ありがとう」と感謝のお念仏が出てくることでしょう。
■一人ひとりを
そのままに
決して捨てないと
よび続け
はたらきかける 仏さま
その願いに
であうとき
ともに響きあう世界が
恵まれる
■つながりの中で
生きている
支えあいながら
生きている
だからこそ
他人(ひと)の
よろこび 悲しみを
分かち合える世界が
開かれる
【メッセージ文について】
仏教では、この世や私たちのありのままの真実を「諸行無常(しょぎょうむじょう)」や「縁起」といいます。「諸行無常」は、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっていること、「縁起」は、すべての物事は、一瞬一瞬に原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実のことです。
ところが、ありのままの真実に気づかない私たちは、つい、得体の知れないものに不安を覚えます。ウイルスを敵視し、排除しようという想いを抱いてしまいます。実は、そうした想いこそが、自分本位にしか生きられない私たちの姿を示しているのではないでしょうか。
阿弥陀さまは、そのような私たちに対して、哀れみ慈しみの心をもって、誰ひとり取り残されず尊い安心を与えようとはたらき続けています。阿弥陀さまのお心に出遇(であ)うとき、憎しみや争い、対立を超えた、心豊かな世界が恵まれます。
私たちは自分一人で生きているのではなく、多くの人々の支えによって生かされています。仏さまの温かいお心にであうとき、仏さまが私たちの喜び悲しみをともにするように、私たちも他人と喜び悲しみを分かち合うことができる慈しみの世界が開かれていきます。
【本願寺大銀杏の写真について】
本願寺御影堂(ごえいどう)・阿弥陀堂の前にそれぞれそびえ立つ大銀杏(おおいちょう)の今の姿を使用させていただきました。
御影堂前の大銀杏は、「逆さ銀杏(さかさいちょう)」ともいわれます。1788(天明 8)年 1 月京都大火の際に、水を吹き出して火を消し止めたと伝えられています。
また、阿弥陀堂前の大銀杏は、2017(平成 29)年の台風の被害を受けて枝葉が折れ、大きく損傷しました。それから数年、今では青々と生い茂り、本願寺の境内を明るくしてくれる存在です。
どんな困難があろうとも、立ち上がり、そして未来へ希望をつなげていく。そうした姿を私たちに見せてくれています。
※浄土真宗本願寺派(西本願寺)HPより