十月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板
【ご案内】
子どもの頃に聞いた話。その時に特別な感銘を受けたわけではないが、どこか心に残っていて、大人になってからあらためて、その言葉の意味に触れることがある。経験を重ねることによって、その言葉がよみがえってくるのだ。
アウトドア愛好家として知られるタレントの清水国明さんの講演を聞いた。浄土真宗の篤信な家庭に育ち、大きな影響を受けたことが内容だった。出身の福井の冬は厳しい寒さで、当時の暖房である囲炉裏を囲みながら、祖父の着物の懐に手足を入れながら暖をとったという。祖父は「国明、おまえが世間からだめだ、役に立たないと言われてもおじいちゃんは味方するからな」といつも優しく語りかけてくれたという。子どもなので意味はよくわからなかったが、大人になってから、「自分の味方がいる。安心できた」と、大きな心の支えになったと語った。
7月26日、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で入居者が元職員によって殺傷される事件が起きた。事件の詳細はこれから明らかにされていくが、抵抗できない障害者の命が、理不尽な理由で奪われたことに、大きな衝撃を受けた。報道では「障害者は役に立たない」というのが動機だったという。
私の都合で命を「役に立つ、立たない」というものさしで測る私の姿に、あらためて気付かされ、忘れてはいけない出来事として心に刻んでいきたい。そして、子や孫に「あんたの味方するからな」と語りかけ、いのちの尊さを伝えていきたい。(I)
(『2016(平成28)年8月20日 本願寺新報 コラム「赤光白光」)より
おかげさまで ~140周年~ ありがとう“感謝”
9月 御命日法要
○ 日時 9月16日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 藤井和乗 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。
【ご案内】
平成28年7月1日『本願寺新報』に、『平安の願い“三つの大切”』(平成28年4月1日発行)にも載せております『祝婚歌』(吉野弘)が取り上げられておりましたので、一部ご紹介いたします。
■自らの愚かさに気づく
吉野弘さんの『祝婚歌』という詩があります。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気付いているほうがいい
(中略)
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
(以下略)
けんかや争いが起こるのは、お互いが「自分が立派で正しく、相手が愚かで間違っている」と思っている時です。自分が間違っているけど、相手に文句を言ってやろうという人はあまりいません。戦争も、正義と正義が戦っているのです。もう少し正確に言うと、自分が正義だと思っているもの同士が戦っているのです。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい」という言葉は、自らの愚かさに気付くことが大切だということを教えてくれます。
親鸞聖人がお手紙の中で「世のなか安穏なれ」に続いて、「仏法ひろまれ」と言われているのは、仏の教えによって、自らの愚かさ(自己中心性)に気付かされるところにこそ、「世のなか安穏なれ」と願い、その実現に向かって生きる生き方が生まれてくるからなのです。決して、「世のなかが安穏になるよう、みんなが善人になりましょう」と言われているのではありません。
本当の意味での善人になれない私。煩悩だらけの愚かな人間でしかない私。けれど、そのことに気付いた時、ただの凡夫ではなくなるのです。人間だから仕方がないと開き直るのではなく、自己中心のあり方を申し訳ないこと、悲しいことだと受け止めた時、そこに、新しい世界が開けてくるのです。
(『2016年7月1日本願寺新報「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章』)
おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”
7月 御命日法要
○ 日時 7月15日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 鎌田善弘 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。
【ご案内】
『2016(平成28)年5月1日(日曜日)本願寺新報 第3234号』より
「いのちの栞」 龍谷大学非常勤講師 小池秀章
自ら仏に帰依したてまつる
自ら法に帰依したてまつる
自ら僧に帰依したてまつる 「三帰依文」
■何を依りどころに生きるか
仏教の3つの宝
仏教には大切なものが三つあり、三宝と呼んでいます。
三宝とは「仏法僧」の三つのことで、「仏」は仏さま(真実に目覚めた者)のこと、「法」は仏さまの教えのこと、「僧」は仏さまの教えに従って生きる人たちのことです。この三宝によって仏教が成立することから、古くから大切にされてきました。
そして、その三宝に帰依する(依りどころとする)ことを「三帰依」と言います。釈尊在世の当時は、「三帰依文」をとなえることによって、仏教教団への入門が許されていました。仏さまの教えを聞こうとする人は、まず、この三宝に帰依することが大切になります。
では、三宝に帰依するとは、本質的にはどのようなことを意味するのでしょう。それは、自分の生きる依りどころ、物事の判断基準(ものさし)を三宝におくということなのです。 相田みつをさんの言葉に、
そんかとくか
人間のものさし
うそかまことか
仏さまのものさし
があります。私たちは普段、損か得かのものさしで物事を判断しています。しかし、仏さまは、嘘か真かのものさしで物事を判断するのです。自分の損得に関係なく真実を求めて生きる。それが三宝に帰依する意味なのです。
つまり、三宝を依りどころにするということは、損得をものさしとする自己中心の生き方から、真実を求めて生きる生き方への転換だと言っていいでしょう。
わが身を知らされ
ちなみに「仏」は、もともと梵語(昔のインドの言葉)で「ブッダ」、「法」は「ダンマ」、「僧」は「サンガ」と言います。また、「帰依」は梵語で「ナモ」、それが漢訳(音訳)されて「南無」となりました。
音楽礼拝の「三帰依」
ブッダンサラナン
ガッチャミ
ダンマンサラナン
ガッチャミ
サンガンサラナン
ガッチャミ
帰敬式の「三帰依文」
南無帰依仏
南無帰依法
南無帰依僧
も、ともに同じ意味なのです。
普段の生活の中で、三宝を依りどころに生きることを忘れないでいたいものです。
おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”
6月 御命日法要
○ 日時 6月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 楠 深水 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。
講堂にて宗祖親鸞聖人の生誕を祝う降誕会ならびに開校記念式を執り行いました。
浄土真宗本願寺派布教師高澤恒雄先生より浄土真宗のみ教えから阿弥陀様の思いについてのお話を聴聞いたしました。
阿弥陀様は「私があなたのためにがんばるから、私にまかせなさい」とおっしゃるのだとお話しくださいました。
高校1年生456名は全国の宗門関係学校の学生・生徒と一緒に宗祖降誕奉讃法要に参拝いたしました。
【ご案内】
4月の御命日法要でご紹介いたしました、本願寺派保育連盟 教育原理委員長 丁野(ようの)恵鏡(えきょう)さんの『お父さん、お母さんへのメッセージ』から、宗教的な環境によって育まれる「まことの保育」を、一部改変して記させていただきます。
1、私たちは、すぐに他人と比較したり、また区別や差別をして、子どもの平等のいのちが見えなくなっていきます。阿弥陀さまのまなざしは、一人ひとりのいのちを平等に見ておられます。そして誰一人見捨てることなく、全てを等しく救いとってくださるのです。子どもが「お母さーん」と呼ぶのは、こころの中のお母さんが子に呼ばしめているのと同じように、私が「南無阿弥陀仏」と如来さまのお名前を称えるのは、こころの中の如来さまが「私の名を呼んでね」と、私に呼ばしめてくださるのです。阿弥陀さまは目には見えないけれど、常に私に寄り添い、共に悲しみ共によろこんでいてくださいます。
2、一粒のお米ができるまでには太陽や水、土など自然の恵みがなくてはなりません。多くの労働力もいります。私たちはそのお米のいのちをいただいて生きています。しかし、ややもするとそうしたことをすっかり忘れ、あたり前であるかのように日常を生きているのではないでしょうか。静かに自己を省みますと、多くの生きものの犠牲と、自分以外の目には見えない大きなはたらきによって生かされていることに気づかされます。あたりまえと生きている私は、決してあたりまえではなかったのです。「ごめんなさい」と自己を省み、「ありがとう」と精いっぱいいのちを輝かせ、社会のために自分のできることを奉仕する生き方を目指しましょう。
3、人間は自己中心の物差しで他人の話を聞いてしまいます。子どもは自分が見たり聞いたりした感動を、信頼する大人に聞いてほしいと思っています。ところが大人は、「子どもは幼稚であり未完成であるから」とか、「将来のために正しい指導をしなければならない」などと、子どもの話を十分聞かないで、一方的に自分の思いや考えを子どもに押しつけたりします。その結果、子どもが感動したこと、想像や夢が壊され、かえって子どもの心に欲求不満が沈殿してしまいます。子どもと真剣に向き合い、子どものお話にじっと耳を傾けて、できればそのつぶやきを書きとどめることを心がけましょう。
4、子どもは大人に比べてはるかに純真です。大人は「疑ってはいけない」といわれても、容易に信じることができません。裏切られたり、だまされた経験もあります。しかし子どもは、小さければ小さいほど経験が浅く、従って裏切られた経験もなく、なんでも無条件で信じます。生まれたばかりの赤ちゃんは、無意識のうちにお母さんや周りの大人を受け入れ、全面的に信じて生きています。信じなければ生きられません。だから赤ちゃんの目は澄みきって感動的です。そして大人は、子どもの無心な姿に心が洗われ、生きる活力をもらうのです。大人は、子どもを仏の子として敬わなければなりません。互いに敬い助け合い、そしてつながりあって、仲良くすることの素晴らしさを感じて育ち合っていきたいものです。 (『本願寺新報 2015年(平成27年)4月10日』より)
おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”
5月 御命日法要
○ 日時 5月16日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 中森寿樹 先生
◎ みなさん、お揃いでお参りください。