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平成27(2015)年度 御命日法要【9月】 2015年09月14日(月)08時10分

【ご案内】
 今年度6月1日の平安保護者会役員会でお話しいたしました「本願寺新報」の姉妹誌「大乗」に連載中の「じいじからあなたへの手紙」(中川真昭)が、再び取り上げられていましたのでご紹介いたします。
 本紙の姉妹誌「大乗」に連載中の「じいじからあなたへの手紙」。童話作家の中川真昭さんが、何かおかしくなったと思う日常の風景を「いのち」の視点で振り返りながら、優しく「生」を問いかける。ツバメの話題があった。「村にたった一つのツバメの巣。何年もまえだったなあ。電線に押しあいへしあい、ズラリと並んで、南へかえる日をまっていたツバメたちのすがたもない…」
 「みんなでおゆうぎしているよ」と童謡に歌われるメダカも今や絶滅危惧種。これらは数多くの事例の一つに過ぎず、経済活動の増大は生物の環境に大きな影響を与えた。その激変ぶりは他のいのちを省みることなく「モノ」を追い求めた結果であり、便利社会にどっぷり浸かっていることの証し。
 私たちが失ったものの一つに「おかげ」と受け取るこころがある。四季豊かな自然の中で暮らし、その恵みをいただいてきた私たちは、その言葉に「さま」をつけ、さまざまな場面で感謝の気持ちを表してきた。そのこころは家庭でも代々受け継がれてきた。しかし、今はどうだろうか。
 今号では「食事のことば」も取り上げた。家庭環境の変化は無視できないが、子どもたちの「孤食」が増えてきているという。できるだけ食事は家族でとり、合掌し「いただきます」「ごちそうさまでした」と声に出したい。多くのご苦労と、尊いいのちを糧に今の私が生かされていることをこころに刻む。その第一歩が「食事のことば」の唱和だと思う。
           本願寺新報8月1日(土)コラム赤光白光より

 ●食前のことば
  多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
  深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
 ●食後のことば
  尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
  おかげで、ごちそうさまでした。


9月 御命日法要 
○ 日時 9月14日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 西村 了慶 先生
            ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年09月01日(火)07時59分

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9月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

今月の言葉《宗教教育係》 2015年08月01日(土)18時28分

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8月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成27(2015)年度 御命日法要【7月】 2015年07月16日(木)08時10分

【ご案内】                         

釈尊のことば

              本願寺派総合研究所所長 丘山 願海

 他の人びとの過ちを見るなかれ。心はきわめて見がたく、
 まことに微妙で、欲望のままに動き回る
 聡明な人はこの心を制御し、制御された心は幸せをもたらす (ダンマ・パダ36偈)                            

心の在りよう見つめ、どう制御するか

 「心は捉えがたく、軽くたちさわぎ、欲望のままに動き回る」(35偈)、「心は遠くにさすらい、独り動き、姿かたちなく胸の奥深くに潜んでいる」(37偈)と前後にも心について述べられます。
 心って、本当に不思議です。喜んだり、悲しんだり、また苦しむ。しかも、悲しもうと思って悲しむわけでなく、喜びたいと思って喜べるわけでもない。自分の心は自分のものでありながら、思い通りにならず、頭で制御することもできません。この偈は、欲望に振り回される心は、見ることもできず、捉えがたく、制御するのがとても難しいと言っています。
 私の心って、身体のどこにあるのでしょう?心は、心臓や肺などの身体の一部のような存在ではありません。で、心は「物」でない。空の思想家・龍樹菩薩なら「心という言葉だけがあり、実際には存在しない」といわれるでしょう。実体なきものにしがみつくから苦しみが生じる、というのが思想の根本だからです。でも、デカルトの「我思う、故に我在り」に倣えば、「心が(喜怒哀楽を)感じる、故に心在り」とも言えます。まったく「心は見がたく、微妙で」「捉えがたい」という通りです。私たちが「心」というのは、物的な存在でなく、喜び悲しむ「はたらきそのもの」なのでしょう。
 心の在りようを見つめ、どう制御するかを探求してきたのが仏教です。これは人類の精神史でも際だった特色です。そして、人間の心の在りようや欲望の根深さを見抜かれたのが、親鸞聖人なのです。
(「本願寺新報」6月10日(水)掲載)

EQ「こころの知性」
 私は,人間の「言動」(言葉と行動)はすべて心の在りように始まると考えています。 仏教では人間の欲望を、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つに分け、三毒の煩悩 (ぼんのう) と言います。いずれも,自己中心の考え,それにもとづく事物への執着心から生ずるものです。つまり,自分の心の在りようを見つめ,その心を、どのようにコントロールするかということです。
 心の持ち方,感情を落ち着け,情緒を常に安定したところには,素直な心と謙虚な心が根づきます。その心の在りようをみんなが意識して日々の生活を送れば,本当にすばらしい人間関係や環境が築けるはずです。
(本校 HP 学園紹介 校長挨拶より抜粋)


7月 御命日法要 
○ 日時 7月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 佐長 道亮 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年07月01日(水)08時00分

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7月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成27(2015)年度 御命日法要【6月】 2015年06月15日(月)08時10分

【ご案内】                         

究極の乗り物
       岡山・浄福寺副住職 山下瑞円 (本校卒業生)

半世紀も前に開業
 私の住む岡山県高梁市から遠く離れた石川県金沢市。今年の3月、東京~金沢間を結ぶ北陸新幹線の開業に伴い、一躍〝時の街〟になりました。
 少しさかのぼって、昨年の10月1日。あるニュースが話題に。東京~新大阪間を結ぶ東海道新幹線が1964(昭和39)年10月1日の開業から50周年を迎えました。現在まで走行距離にして約20億キロ(地球5万周に相当)、運んだ乗客のべ56億人。特筆すべきは、その間、脱線、衝突などによる乗客の死亡事故が一度もないことです。
 誰もが安心して乗ることができ、安全に目的地まで連れて行ってくれる唯一の交通手段かもしれません。その裏には立案当時から現在に至るまで、関係者の創意工夫、たゆまぬ努力や苦労があってこそでしょう。
 例えば、東海道新幹線が走る区間には、トンネルがたくさんあります。できるだけ直線を確保するためです。カーブが多いとスピードも出せませんし、脱線などの大事故に繋がる可能性があります。次に、東海道新幹線の区間には踏切がありません。車との衝突事故を防ぐため、わざわざ高架に敷かれています。人が線路に侵入することも防ぎます。これらの創意工夫があってはじめて、乗客の安心・安全が守られています。
 と、簡単に述べましたが、これらの策を講じるのにどれだけの苦労があったか、我々は知る由もありません。少し想像してみると、トンネルを掘ることの大変さ。工事に伴う事故が起こったかもしれません。線路を通す土地を買収するために、幾度も頭を下げて回った関係者の姿。逆に、先人が守ってきた大切な土地を泣く泣く手放した方の姿。線路を高架に造るといっても、コストはもちろんのこと大変な時間と労力がかかったはずです。私たちが知りえない、たくさんの苦労があってこその開業50周年です。
 おかげさまで、安心して乗車できます。乗車したその瞬間から、読書をしようが、駅弁を食べようが、はたまたトイレに行こうが…。車掌さんが切符を確認しに来るため、寝過ごす心配もほとんどありません。それぞれが思い思いの時間を過ごす中、東海道新幹線は乗客を間違いなく目的地まで届けてくれます。北陸新幹線をはじめ、今や全国各地を結ぼうと計画されている新幹線。その原点は、50年前の東海道新幹線開業にありました。

お念仏に確かな安心
 『仏説無量寿経』には、阿弥陀さまがおさとり開く前、法蔵菩薩であられたとき、五劫という長い時間の思惟の末に、「すべてのいのちに寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ迎えとることのできる仏となる」と誓われ、この誓いを成就するのに、兆載永劫という想像を絶する時間を要された内容が説かれます。
 皆さんは法蔵菩薩の五劫思惟像をご存知ですか? さまざまな五劫思惟がありますが、そのほとんどが、ご苦労を表現された痛々しいお姿の像です。
 目は落ちくぼみ、頬はこけ、指先までやせ細り、今にも折れそうなあばら骨。現在、浄土真宗のお寺にご本尊として安置されている阿弥陀さまのお姿からは、想像し難い痛々しいお姿が表現されています。
 おさとりを開くことが、どれほど大変であられたか。私を救うことがどれほどの大仕事なのか。法蔵菩薩のご苦労が偲ばれます。
 私たち一人ひとりを救いの目当てとして、常に寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ導く阿弥陀さまの間違いないはたらきが、ご苦労の上に今、「南無阿弥陀仏」の喚び声となってこの私に届けられています。阿弥陀さまは私たちに生きる意味といのちの行く末を知らせるため、声の仏となることを選ばれました。
 家族や子どものことで悩もうが、仕事や人間関係で悩もうが、自身の健康、将来のことで悩もうが…。それぞれの人生を歩む中、そのはたらきに出遇った時すでに、「南無阿弥陀仏」という究極の乗り物に乗せられているいのちであったことを知らされます。
 お念仏申す私の声を通して、唯一確かな安心をいただいています。
「本願寺新報5月20日(水)みんなの法話」より

6月 御命日法要 
○ 日時 6月15日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 寺村 篤 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年06月01日(月)07時43分

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6月
今月の言葉・・・各クラス教室掲示
今月の聖語・・・学校正門聖語版

平成27(2015)年度 御命日法要【5月】 2015年05月15日(金)08時10分

【ご案内】

「お子様に語り継ぎたい童話や昔話は何ですか?」。玩具メーカーのバンダイは2009年と2012年、12歳までの子どもを持つ保護者対象にアンケートを行った。連続で男女総合1位となったのは「桃太郎」だった。年代別でもすべて1位、全体の数字でも20.3%を占め、2位の「うさぎとかめ」の9.6%を大きく引き離している。
 「♪桃太郎さん」で始まる童謡「桃太郎」(作詞不明)は明治44年5月、「尋常小学唱歌 第一学年用」で発表された。有名な曲だが、4番以降の歌詞は意外に知られていない。4番「そりゃ進めそりゃ進め 一度に攻めて攻めやぶり つぶしてしまえ鬼ヶ島」、5番「おもしろいおもしろい 残らず鬼を攻めふせて 分捕物(ぶんどりもの)をエンヤラヤ」と、童謡とは思えないような怖い内容が続く。
 先の大戦で桃太郎は、勇敢さの比喩として語られたと聞く。桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子として、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴として戦前まで利用されたという。
 「桃太郎」と回答した保護者からは、「一人では困難なことでも、仲間と一緒に立ち向かうことで目的を達成できるということを物語から伝えられるから」といった内容のコメントが多く寄せられたという。共に歩むことは大切。しかし、問題は「鬼」をどう見るかである。私の外にではなく、実は「鬼は自分の内にいる」と添えて、「現代版桃太郎」として、子や孫に語り伝えていきたい。
                   本願寺新報4月20日(月)コラム赤光白光より

「共に歩むことは大切。しかし、問題は『鬼』をどう見るかである。私の外にではなく、実は『鬼は自分の内にいる』」の「しかし」以降の内容は、先月(4月)の御命日で、私がみなさんにお話しさせていただきました「智慧と慈悲」の話と重なりますね。


5月 御命日法要 
○ 日時 5月15日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 中森寿樹先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2015年05月01日(金)08時10分

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五月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成27(2015)年度 仏参【4月】 校長講話 2015年04月24日(金)12時30分

学校長講話

みなさん、おはようございます。
 さて、昨年度(2014)の生徒手帳には『智慧』という言葉を記させていただきました。今年度(2015)の生徒手帳にしたためさせていただきましたのは『慈悲』です。それでは、智慧と慈悲について、お話させていただきます。
 慈悲とは、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みとなる心で、智慧とは、その相手を救うために心理を深く洞察することです。この私が仏さまの智慧と慈悲を完成していくのではありません。仏さまの智慧と慈悲が私の身の上に届いて内なる心を成長させてくださるのです。その私がどうあるべきかを大切に考えたいものです。と、このような説明になりますが、少し難しいですね。
 もう少しかみ砕いて説明いたしましょう。まず智慧ということですが、智慧の智とは外面がありのままに見えるということです。私たちは、外を見るのも先入観や自分の好き嫌いで見ていますから、ありのままにものが見えていません。おそらく、外面の半分も見えていればいい方かもしれません。
 智慧の慧とは、ものの内面というか、背後がありのままに見えるということです。私たちは、毎日、顔を合せ一緒に住んでいる家族のことも、よく見えていません。私自身を考えても、確かに、子供の身長や体重の成長は見えていても、今、子供が、どんな気持ちで親を見ているのか、どんな思いで日々を送っているのかは、見えていません。夫婦でも、お互いに年を取ったことは見えていても、お互いの思いは、解かっているようで実は解かっていません。
 周りの人が見えないということは、自分もよく見えていないということです。私たちは、とかく、自我に執着してしまいます。自我とは、みなさんがよく言う「自己中」と言っていいでしょう。その自己中心的と言いますか、「我」を通すことだけに力が入り、周りの人の気持ちや思いを受けとることがお留守になっているのです。この「我」こそが、ものを見えなくする諸悪の根源なのです。この「我」が開かれるところに智慧の世界があるのです。「我」が開かれ周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてきますと、自分の非なるところが見えてきます。この自分を非と受け取る心が、慈悲の悲なのです。正に、慈悲の悲という字は、非の下に心と書きますね。
 それでは、智慧の説明にもどりますが、お釈迦様は、悟りをひらかれた体験から、人間が生まれながらに持っている偏った見方や自分独りよがりの考え方ではなく、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されました。その「ありのままの真実」を見ること、それが「智慧」なのです。「ありのままの真実を見ること」と言われても、多くの人は「いったいどういうことなのか」と、思われるでしょう。
 ごくごく分かりやすい例で言いましょう。「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分の利益にならない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、見分けたりするのも、結局は自分というモノサシではかっているのです。
 仏教は、この自分のモノサシ、モノサシは先ほど申しました「自我」にあたります。この自分のモノサシ、「自我」こそあらゆる苦悩を生み出す原因であると考えます。仏の智慧は、自己中心的なものの見方や自分独りよがりの考え方というモノサシを超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあります。
 お釈迦さまは、「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、また、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味をもつものになる」とお示しくださっています。つまり、人間は自分の勝手な思い込み、自分に視点を置き、自分中心にものを見ているに過ぎないのです。
 この智慧のない人間は、常に自分を是とし、他の人を非とします。わかりやすく言いますと、何でも自分が正しく、他人が間違っているとみて、何かあると、他人を裁き、責める生き方しかしません。智慧によって自分の非を知らされた人は、他人を裁いたり、責めたり出来ません。つまり、周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてくると、自分の非なるところが見えてき、自分を非と受け取る心が芽生えてくるのです。だから、あの人も、この人も、私と同じ悲しみをもったお仲間であると手を取り合って行くしかないのです。
 そして、慈悲の慈とは、自分を非と受け取る心によって開けてくる友情というか仲間意識の芽生えということになります。慈は「いつくしむ」と読みますが、自分を高い所において、他人を下に見て手を差し伸べるということではありません。同じような悲しみを共有するお仲間として手を取り合うのが慈です。智慧のない人に本当の慈悲の心はありません。従って、慈悲は智慧によるのです。他人を慈しみ寄り添う心を持ち、共に生きるという「共生(ともいき)」の精神が、みなさんも、この私も、「こころの幹(き)」を育てることに繋がるのだと思います。
 みなさんも、私も、仏の智慧を持って他人に対し、慈悲の心で接することを心掛けたいものです。