五月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板
みなさん、おはようございます。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
みなさんご存知の「平家物語」冒頭であります。あまりにも有名な部分でありますので、みなさんもその意味はよくご存知だろうと思いますが、あらためまして現代語訳しておきましょう。
祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはないという響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。思い上がって得意になっている人も、その栄華は長くは続かない。それはちょうど、覚めやすいと言われている春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も最終的には滅んでしまう。まったくもって風の前にさらされて散っていく塵と同じである。
仏教の根本的な考え方に『三法印』と言って「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つがあります。平家物語の冒頭は、「諸行無常」の理をあらわしており、あらゆるものは、一瞬の間にも変化をくり返していてとどまることがないということを言っています。
それでは、あらためまして確認しておきましょう。みなさんは、平安の「建学の精神」はと尋ねられたら「ことば・じかん・いのちを大切に」と応えるでしょう。少し違います。「建学の精神」は、「浄土真宗の精神」です。宗祖親鸞聖人のみ教えがあってこその日常の心得として、「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけているのだということを知っておいてください。
さて、始業式でもお話いたしましたが、本年、本校が創立140周年を迎えるにあたり作成いたしました「平安の願い“三つの大切”」をみなさんにもお配りしたことでありますが、読んでくれましたか?始業式では「ことばを大切にⅠ・Ⅱ」の内容をお話いたしましたので、今日は「じかんを大切にⅠ・Ⅱ」という中学生向けと高校生向けの文章の内容を確認しておきましょう。
まずは、中学の新入生に向けた文章です。
いきなりですが質問です。「86400秒」、これは何を示していると思いますか。これは1日24時間を秒数で示したものです。
では次の質問です。「1095日」、これは何を示していると思いますか。これは、3年間を日数で示したものです。
1日は86400秒。86400秒と聞くと、とても長いように思えますが、気づけばあっという間に1日は過ぎてしまいます。そして、その1日1日が積み重なれば、3年間で1095日となるのです。みなさんが、卒業するころには、おそらく「早かったなあ」と感じることだろうと思います。
浄土真宗の第8代宗主の蓮如上人というお方は、次のような言葉を残されました。
いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。 (『御文章』)
「人が、1万歳まで生きたということは、聞いたことがない。一生はすぐに過ぎてしまう」という意味です。
「一生過ぎやすし」と言われたところで、ピンとこないかもしれません。しかし、みなさんが今まで過ごしてきた学校生活のなかでも、「もう過ぎてしまったか」と思う場面が、きっとあったはずです。その延長にあるのが、「一生過ぎやすし」なのです。
時間は止まることなく、まるで、川の流れのように過ぎていきます。当たり前のことですが、過去に戻ることはできません。そう考えると、今日という1日や、今という時間は、人生のなかで再び過ごすことができない、大切な時間だと感じませんか。あと戻りできない時間だからこそ、尊く、貴重なものだと言うことができると思います。
そして、時間と同じく、私たちを含めたすべてのものは、変化していきます。それを仏教では、「無常」といいます。だから、みなさんも、時間が流れていくように、常に変化しているのです。
平安の言うところの「今という時間」「青春という時間」「人生という時間」という3つの時間を大切にしてください。みなさんにとって、この3つは、どれもかけがえのない大切な時間です。
そして、高校の新入生に向けた文章では、次のように記しております。
鴨長明は、一瞬一瞬、変化しているのに、同じように見える川の流れを見て、
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び て、久しくとどまりたるためしなし。 (『方丈記』)
と言いました。時は、刻一刻と過ぎ、同じ時間をもう二度と経験できません。
大切な人に「じかんを大切に」過ごして欲しいと願っています。目標に向かって、懸命に取り組めていると、「じかんを大切に」できていると感じ、うれしくなります。時には、その場に立ち止まったり、道に迷う時間も大切な時間だと思います。しかし、そのまま何もしないでいる人を見ると、もったいない、何とかしたい、何とかしたらいいのにと思い、「じかんを大切に」と声を掛けたくなります。
自分自身を振り返ると、何かに失敗したり、うまくいかなかった時、「じかんを大切に」しなければいけないと思い知らされます。試合で敗けた時、もっと練習していたらよかったとか、大切な人を失った時、もっと一緒にいた「じかんを大切に」しておけばよかったと後悔します。そして、同じ失敗をしないようにしたいと強く思います。しかし、失敗した時の気持ちは次第に弱くなり、同じ失敗をしてしまいます。そんなことを何度も何度も繰り返してしまいます。
親鸞聖人は9歳の春に、「明日ありと思ふ心のあだざくら 夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれたといわれます。明日があると思い咲き誇っている桜の花が、夜中の強い風に吹き散らされてしまうのと同じように、私たちの命も永遠のものではありません。だからこそ、今、しなければならないことがあるということを意味しています。
また、お釈迦さまは「世は無常である。怠りなく努力をせよ」と遺言されました。すべてはとどまることなく変化していきます。今日の時間の使い方で、いや、たった今、この一瞬の行動で、全く違う明日になるかもしれません。今、私が行うべきことは何でしょうか。みなさんが平安で過ごす学校生活の中で、大きく成長することを願い、「建学の精神」に基づいて、「じかんを大切に」という言葉を掲げています。どうか「じかんを大切に」という願いの中で、充実した学校生活を送ってください。
とこのようにあります。毎週一回行われます龍谷大平安での仏参で「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまのご本願を鏡として自分を照らしてみる、つまり、仏さまの鏡に照らして自分を見つめてみる大切な時間です。
この仏参こそ『建学の精神』に触れる機会であり、そういう機会を大切にすることが、何を隠そう私たちの自己中心的な見方を変えていくことになるのです。
このような機会を得ていくことで、私たちの見方や考え方に自然と変化が出てくるのです。ここに、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みと感じることが出来る、他人への思いやりの心が育まれているのです。
どうぞみなさん、仏参では、「南無阿弥陀仏」のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただき、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めて日々を送りましょう。その生き方を心がけることが、お互いに敬い合い、助け合いながら、日々の生活を送ることに繋がるのです。
現在、熊本で甚大な地震が起こっています。あちらこちらで避難指示や避難勧告がでています。私たちに今できることを探して、たとえ何も出来なくても「寄り添う」という気持ちはしっかりと持ちたいと思います。そして、私たちの身にもいつ何時ふりかかってくるかも知れません。事が起きた時に備えて、来る5月2日の防災訓練(避難訓練)にしっかりと取り組みましょう。
このことをお願いしまして仏参のお話を終わります。
【ご案内】
龍谷大学付属平安高等学校・中学校の「建学の精神」は「浄土真宗の精神」です。浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへと転換させたいという阿弥陀仏の誓願に他なりません。迷いとは、自己中心的な見方によって、真実を知らずに自ら苦しみをつくり出しているあり方です。悟りとは自己中心性を離れ、ありのままのすがたをありのままに見ることのできる真実の安らぎのあり方です。阿弥陀仏の願いに照らされ、自らの自己中心性が顕わにされることにおいて、初めて自分中心の勝手な考え方にとらわれるのではなく、広く柔らかな考え方ができるようになるのです。
本校は、阿弥陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩まれた親鸞聖人の生き方に学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育てます。このことを実現するための日常の心得として以下の3つの「大切」を掲げています。これらはみな、建学の精神あってこその心であり、生き方です。
ことばを大切に
正確な言葉・やさしい言葉・ていねいな言葉
じかんを大切に
今という時間・青春という時間・人生という時間
いのちを大切に
いただいているいのち・願われているいのち・支えられているいのち
◎龍谷大学付属平安高等学校・中学校~「徳育(宗育)」の具現化
本校では、日常の心得として「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけています。
ことばは「お名号」のこと、じかんは「無常」のことで、この世のありとあらゆるものは時々刻々と移り変わることを意味しています。いのちは「お浄土」のことです。これを中学生にも高校生にもわかりやすい形でことば・じかん・いのちの三つを大切にということで示しています。いのち・じかん・ことばの順で説明いたします。
まず、いのちについて説明します。私のいのちを考えてみますと、前生(生まれる前)・今生・後生(死んでから)と分けられます。その中で、私たちは、今生(こんじょう)だけをいのちと考えがちです。しかし、私は今生の限りある有限の生物的な生命を過ごしているにすぎないのです。父や母や祖父母などこの先祖のだれが欠けても生まれてこなかったいのちなのです。そう考えるとき、どうして私の誕生があったのかという前生(ぜんしょう)と、死んだあとはどこへ行くのかという後生(ごしょう)と、つまり、私たちのいのちは今生だけの限りある、そこで終わるいのちではなく、阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るのです。真実(まこと)の世界に生まれかわる、つまり、お浄土に往(い)って生まれる浄土往生なのです。
次に、じかんについて説明します。先ほど言いました私たちは阿弥陀さまのおそばで無限の宗教的生命を得るということに気づくのは、今をおいてほかにはありません。時間とは無常です。諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日、もっと言うなら、今、すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。(仏の教えではなく仏に成る教えです)
最後に、ことばについて説明します。では、後生は往生浄土と、どなたが決めてくださったのでしょうか? それは阿弥陀如来になられる法蔵菩薩さまの18番目の本願に「衆生(しゅじょう)を仏にせずにはおれない」で約束されています。私たちは弥陀の号(みな)である南無阿弥陀仏を呼ぶのです。声に出すのです。実は仏さまの「おはたらき」により私の口を通して号を称えさせてくださっているのです。この声を私は耳で聞きます。これが「聞法(もんぼう)」なのです。
以上をまとめますと、いのちを大切にする生き方は、すなわち、じかんを大切に生きる姿そのものであります。そして往生は臨終によって定まるのではなく、信ずる心「信心」が定まる時に定まるわけですから、私の口を通して発することばこそ、本当に大事にしなければならないのです。
…… おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”……
4月 御命日法要
○ 日時 4月18日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 学校長
◎ みなさん、お揃いでお参りください。