九月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門
平成26年度「大阪会集いの会」が6月27日(金)18時より太閤園本館(大阪)に於いて開催されました。藤松喜久次大阪会会長の挨拶に始まりました同窓会は、その後、硬式野球部顧問の藤井教諭より、急遽欠席となりました原田英彦監督からのメッセージが読まれ、本人の姿が見られなかった残念さはあるものの参加者から大きな拍手でありました。終始和やかに時間が流れ、お開きの後は、恒例のホタル観賞の一時を過ごし帰途につきました。お世話いただきました同窓のみなさまにこの場をお借りし感謝申し上げます。ありがとうございました。
2014年6月22日(日)午前10時から本校講堂におきまして『第1回高校受験対象学校説明会』を開催いたしましたところ雨でお足もとの悪い中、約350組の生徒・保護者のみなさまにご来校いただき心より御礼申し上げます。
学校長挨拶
あらためまして、みなさんおはようございます。本日は本校の「2015年度入試の第1回学校説明会」に、休日の朝の早い時間から、また足もとのお悪い中、お越しいただきまして誠にありがとうございます。
さて本学園は、今から138年前の明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立されました。 本校は、創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操教育を理想としてきました。その宗教教育の原点は、何といっても、毎朝、仏さまにお参りする仏参でありますし、年間5回実施される宗教行事であります。それでは、龍谷大平安で何を学ぶのかについて、お話しさせていただきます。
昨年度の生徒手帳には、阿弥陀さまの光は常に私たちを照らし護(まも)ってくださっているということを示す『遍照(へんじよう)』を記させていただきました。いのちあるものすべてに等しく届けられている仏さまの光に気づくことのできる、そんな生徒に育ってほしいとの願いからこの言葉を記しました。そして、この私を救わずにはおけないという仏さまの願いを聞かせていただくために、仏参や宗教行事が行われるのであります。
今年度(2014)の生徒手帳に記しましたのは『智慧』であります。私たちが一般的に用いる人間の「知恵」とこの仏の「智慧」について考えてみましょう。
人間の「知恵」は頭が上がり、仏の「智慧」は頭が下がります。どういうことかと申しますと、人間の知恵は、私たちの方から色々なことを知りたくて、学び、覚え、理解するという知識、教養、学問の世界でありますから、知恵がつけばつくほど偉くなり、賢くなり、ますます頭が上がってきます。
しかし、仏さまの智慧とは、仏さまの方から私を照らし、目覚めさせてくださる働きですから、仏さまの智慧に遇えば遇うほど、自分の愚かさ、人間の欲の深さに気づかされ、ただただ頭が下がるばかりです。
龍谷大平安で学ぶのは、知識・教養・学問の世界だけではありません。今まで見えなかったこと、気づかなかったことを仏さまの智慧によって、気づかされ、目覚めさせてくださるのです。
人間は、知恵がつけば賢くなったつもりになるので、ついつい偉そうになり頭が上がり、素直に仏さまの教えに耳が傾けられなくなります。自分の知恵や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるばかりです。
しかし、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、ちっぽけさに気づき、とても謙虚になってきます。
お釈迦さまは、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されています。その“ありのままの真実”を見ること、それが「智慧」なのです。
では「ありのままの真実を見ること」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
たとえば、「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、物事や人を、比較したり仕分けたりするのも、結局は、自分という“モノサシ”ではかっているのです。
仏教では、この自分の“モノサシ”こそ、あらゆる苦しみを生み出す元であるとされます。
仏の智慧は、この“モノサシ”を超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあるのです。
私たちにこの「仏の智慧」さえあれば、愚かな行為は一切なくなるはずです。もちろん、いじめも虐待も、すべての悪行はなくなります。
本校の建学の精神である「ことば・じかん・いのちを大切に」という三つの大切が日常の心得として実践されることによって、仏の『智慧』を得ることができるのです。それが、こころを開いてものを見ることができるように、仏教的なものの見方ができるように、生徒たちがそんな人格を形成し、立派な人間になることに繋がるのであります。
まさに、知・徳・体の知育・体育の土台となる徳育、本校では宗育と申しますが、「こころの知性」(EQ)を磨く心の教育の実践であります。龍谷大平安がめざすのは「目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の本当の大切さ」に気づくことであります。
こころの教育とは、すぐに答えを求めるのではなく生徒一人一人の一生涯を見据えてしっかりとサポートすることでしょう。それは、高校の三年間に、どれだけの質のいい喜びの種を蒔けるかにかかっています。
龍谷大学付属平安高等学校は、この喜びの種を蒔き、そして花を咲かせることができるように、しっかりとサポートすることをお約束いたします。
このあと、具体的に説明いたしますので、よくお聞きになって、是非とも学校選びの一番に本校をあげていただきますよう切にお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。
本日は、お忙しい中、お越しくださいまして誠にありがとうございます。
受賞者謝意 受賞者代表 燧土勝徳
誠に僭越ではございますが、各受賞者を代表して一言ご挨拶を申し上げます。只今は、京都府知事山田啓二様・京都市長門川大作様ご臨席の下、京都私学振興会賞という、誠に栄誉ある賞を授賞いただき本当に身に余る光栄でございます。誠にありがとうございました。
さて、私どものことを話させていただきますと、この度の選抜大会の優勝は、京都勢としては、京都一商(現西京)が昭和23年に優勝して以来、実に66年ぶりとなる、2度目の全国制覇でありました。
本校をみましても、平安の選抜大会は、ベスト4が最高の成績で、しかも、それは40年前の昭和49年のことです。夏の選手権は、32回の出場で昭和13年・26年・31年と3回の全国制覇がありますが、そこから数えても、58年ぶりに手にした栄冠ということになります。
「平安」は、春夏通算70回という全国最多出場を誇っておりますが、それでも、今回が、4度目の優勝なのであります。全国の頂点に立つということが、どれほど難しいかということでしょう。
まず、この度の優勝で何よりも、私が嬉しかったのは、さまざまな場面でのインタビューで、選手たちの口から飛び出す言葉は、常に「支え」「お陰さま」「感謝」でありました。このような言葉が、自然に口から出ることこそ、親鸞聖人のみ教えを建学の精神とする「平安」に学ぶ意義を、しっかりと示してくれました。
また、試合直後の「龍谷大平安」ダッグアウトの様子は、さすがと言えるものでした。閉会式の終盤、ベンチに入れていただき、私がまず目にしたのは、グラブ・手袋・バットケースなど、個人のセカンドバッグにいたるまで、それこそ一糸乱れず整然と並べられていることでした。目に見える華やかさではなく、目に見えないところの大切さを本校硬式野球部は身をもって実践してくれていました。
しかし、本校がこうして「日本一」になることができましたのも、また、各個人や各団体が、本日ここにこうして授賞をいただきましたのも、在り来たりかもしれませんが、その当人の努力はもちろんですが、取り巻く数多くの方々の、暖かいお支えとお力添えがあってのことと思います。そうした多くの方々のお陰であります。あらためまして、厚く御礼申し上げます。
この結果に慢心せず、先ほど申しました目に見える華やかさではなく、目に見えないところの大切さをしっかりと心に秘め、「勝って兜の緒を締めよ」ではありませんが、一定の目標が達成できたとき、だからこそ今まで以上に謙虚に、そして日々精進していきたいと思います。今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。本日は、誠にありがとうございました。
校長挨拶
5月1日の本願寺新報『みんなの法話』に「親のよび声」と題して、次のような内容が記されていましたので、ご紹介いたします。
ある年の保育園の運動会でのことです。頑張って練習してきた園児たちの晴れの舞台。園児の親だけではなく家族も駆けつけ、応援席では絶えず大きな声援があがっていました。閉会式も終わり、いよいよ解散となりました。
担任の先生が整列している園児一人一人とお別れの挨拶をしていますが、どの園児もそわそわして心ここにあらずという様子です。そして、先生との挨拶が終わるやいなや、勢いよく走り出し、「お母さん!」「お父さん!」と大きな声を上げながら、家族のところへ脇目も振らずに一直線です。どの園児も満面の笑みを見せ、安堵した様子で帰って行きました。
驚いたことには、走って行く方向を間違えた園児は一人もいませんでした。よくよく思い返しますと、演目の最中でも、親や家族からの声援に手を振って応え、向けられたカメラにピースサインで応える園児を何人も見ました。園庭を囲む数百人の中からでも、親や家族の声や顔を聞き間違えることも、見間違えることもなく、その居場所を必ず見つけ出すことができるのです。自分の親や家族を間違えない園児がすごいのでしょうか。
ところで「お母さん」「お父さん」と呼び始めたのはいつ頃からでしょうか。身近にいた人を自分が勝手に親と決めつけ、呼び始めたわけではないはずです。それは「私があなたのお母さんだよ」「私があなたのお父さんだよ」という、親の方からわが子に向けた名のりに始まることでしょう。
また、この名のりは子どもにとってどんな存在であるのかをも知らせています。そして、早く私の名(お母さん、お父さん)を呼んでほしいという思いをもって呼びかけ続けるのです。この呼びかけはいつもわが子を慈しみ、一度この名を呼んでくれればすぐそばに寄り添い、不安な思いをさせることはないという親心で満ちあふれています。
ですから、子どもが親を間違えることがないのは、この親心のおかげであり、子どもの口に出た「お母さん」「お父さん」の一言は、両親の強い思いが確かにわが子に届き、まさしくそこにはたらいていることを物語っているのです。
以下、省略させていただきますが、このあと、親がわが子を思うように、阿弥陀さまは私をわが子であると慈しんでくださる親さまなのであります。と続いていきます。
10数年前、少年鑑別所・少年院・女子の少年院を見学したことがあります。すべての院長先生方が口をそろえて言われたのが、この子たちにもう少し親が関わってくれていれば、誰一人ここに来る必要は無かったでしょうね。と言う言葉が今も忘れられません。
まさに、親子の関わりの大切さをつくづく感じていることであります。
今年度の学校方針を「規律と統制」としました。あえて、ルールとマナーと置き換えております。決して生徒に迎合するのではなく、子どもにはしっかりと我慢をさせる。現代の子どもは昔に比べて絶対的に我慢が足りません。今一度、決められたことをしっかり守ろう。ダメなことはダメと言おう。自分がされて嫌なことは他人にもしない、他人の心の痛みをわかろう。当たり前のことを当たり前にということで新年度のスタートを切りました。
一年間いろいろとお世話になりますが何とぞ宜しくお願い申し上げます。
学校長挨拶
保護者のみなさまには、平日のたいへんお忙しい中、ご出席を賜りまして、誠にありがとうございます。平素は、学園に対しまして、ご理解とご協力を賜りまして、心より御礼申し上げます。
さて、ご承知の通り、本校硬式野球部が第86回選抜高等学校野球大会におきまして、見事「日本一」に輝いてくれました。過日4月24日優勝報告会を開催いたしましたので、その際、ご挨拶させていただいた内容をご紹介いたします。
この度の優勝は、京都勢としては、京都一商(現西京)が昭和23年に優勝して以来、実に66年ぶりとなる、2度目の全国制覇であります。本校をみましても、平安の選抜大会は、ベスト4が最高の成績で、しかも、それは40年前の昭和49年のことです。夏の選手権は32回の出場で昭和13年・26年・31年と3回の全国制覇がありますが、そこから数えても、58年ぶりに手にした栄冠ということになります。全国最多出場を誇っている「平安」でさえも、今回が4度目の優勝なのであります。全国の頂点に立つということが、どれほど難しいかということでしょう。
まず、この度の優勝で何よりも、私が嬉しかったのは、さまざまな場面でのインタビューで、選手たちの口から飛び出す言葉は、常に「支え」「お陰さま」「感謝」でありました。このような言葉が、自然に口から出ることこそ、親鸞聖人のみ教えを建学の精神とする「平安」に学ぶ意義を、しっかりと示してくれました。ここまで子供たちを育ててこられたご両親をはじめご家族やまた野球という競技を通して関わってこられたすべての方々が、このように子供たちを成長させたのでありましょう。
また、試合直後の「龍谷大平安」ダッグアウトの様子は、さすがと言えるものでした。閉会式の終盤、ベンチに入れていただき、私がまず目にしたのは、整然と並んだグラブ・手袋・バットケースなど、個人のセカンドバッグにいたるまで、それこそ一糸乱れず整然と並べられていることでした。目に見える華やかさではなく、目に見えないところの大切さを本校硬式野球部は身をもって実践してくれていました。
自画自賛ですが「天下の平安」まさにここにあり!であります。
本年(2014年)6月には、法統継承式が執り行われ、現在のご門主から新門さんに法統が継承されます。浄土真宗本願寺派では「次代へのみ教えの継承」を掲げておられますが、人は兎角、目に見える華やかさを望みますが、私は、その裏にある見えないものの大切さこそが大事で、これこそ次代へ継承すべきことではないかと気づかされることであります。
今年度の学校方針を「規律と統制」としました。あえて、ルールとマナーと置き換えておりますが、今一度「決められたことをしっかり守ろう」「ダメなことはダメと言おう」「自分がされて嫌なことは他人にもしない、他人の心の痛みをわかろう」当たり前のことを当たり前に…ということで原点に戻ろうと新年度のスタートを切りました。
子どもは自分に都合の良いことしか言いません。それは、教師だけではなく、親にでも一緒です。そんな中で、私たちは子どもに振り回されていないでしょうか。本当の意味で、生徒に迎合するのではなく、しっかりと子どもに、ダメなことはダメと言えているでしょうか。子どもにしっかりと我慢をさせているでしょうか。我慢が足りない子どもは、社会に出てから問題を起こす、あるいは、情緒不安定になるリスクが高いというデータが出ています。
とにかく、2014年度のスタートに際し、教員には褒めるときはしっかりと褒める、叱るときはしっかりと叱る、ということを実践するようにと申しました。そんな中で、生徒との信頼関係をしっかりと築くためには、ねぎらい・気配り・人の気持ちがわかる上手な関係づくりを心がけなさいとも申しました。
子どもたち一人一人としっかりと対峙して教育に当たりますので、何とぞ、ご理解をいただき、更なるご尽力を賜りますようお願い申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。
2014/05/08 防災訓練 学校長 訓話
学校における防災教育は、自らの生命を大切にし、他の人々を思いやる心の教育と位置づけ、地域の安全に役立つための防災態勢を理解できることを目的としています。
この目的を具体化するために防災教育と、安全行動ができる防災訓練が必要なのです。
生徒一人ひとりが、自分の身を自分の努力によって守る(自己責任による自助の考え方)とともに、普段から顔を合わせているクラスの仲間が互いに協力し合いながら、防災活動に取り組む(助け合いという共助の考え方)が必要です。そして、この「自助」「共助」に学校の危機管理体制という「公助」が有機的に繋がることにより、被害の軽減を図ることが出来るのです。
特に、クラスメートや仲間が協力し合う体制や活動、つまり「共助」は、自主防災活動の中核です。
先ずは、災害・防災の正しい知識を習得することから始まるわけですが、その前に日々の学校という生活空間について、防災の視点から避難経路等を確認しておかなければなりません。そして、何より「人を知る」ことが重要な鍵を握っています。つまり、クラスの人数など、誰がいないとか、そのような関係をつくっておくことが大切となります。
今回の防災訓練は、地震を想定した避難訓練です。したがって、直ちに安全な場所への避難が必要になります。この訓練における注意点は
①避難指示の伝達
②避難生徒人数の確認
③安全な避難方法の訓練
④避難経路の確認というものでした。
本当に地震など災害が発生した時、正確で迅速な情報の収集と伝達活動が欠かせません。いかに冷静沈着な行動がとれるかということです。本当に災害が起こっては困りますが、これだけはどうしようもありません。万が一にそなえ、今日の防災訓練が意義あるものとなりますよう願っております。
本日、お釈迦様の誕生をお祝いする花まつりの行事を一ヶ月遅れで営みました。
私たちの人生は、何が起こるかわかりません。この世の中はどんなことが起こっても不思議ではないのです。仏教というのは、思いもよらぬ災難が来ないように祈る宗教ではありません。どんな思いがけない災難にも耐え、それを乗りこえていく正しい智慧の眼を開かせるのです。
みなさんには、先日の仏参でお話ししました「仏の『智慧』」がこれです。
東日本大震災から三年あまりたちましたが、今なお、苦しみや悲しみの中で生活されている方々に「寄り添う心」をしっかりと持ちましょう。そして、時間とともに記憶から薄れつつありますが、私たちはこのことを決して忘れることなく心に刻んでおかなければなりません。
今こうして今日が迎えられていることを、心から「ありがたい」と感謝いたしましょう。