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今月の言葉《宗教教育係》 2014年05月01日(木)08時10分

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五月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成26(2014)年度 中学校・高等学校 仏参講話より 2014年04月25日(金)16時11分

 みなさん、おはようございます。
 さて、みなさんには前期始業式にもお話ししましたが、昨年度(2013)の生徒手帳に「遍く一切を照らす」という意味の『遍照(へんじよう)』を記しました。私たちは自分の煩悩によって、自分で自分を見えなくしてしまっています。それでもなお、阿弥陀仏の光明、つまり、仏さまの大いなるお心は、あきらめることなく、常に私たちを照らして護ってくださっているのです。そのことに、感謝いたしましょう。
 それでは、今日は、今年度(2014)の生徒手帳にしたためさせていただきました私の書『智慧』について、昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である 澤木興道 さんの著書「禅談」をご紹介し、お話しさせていただきます。
 その「禅談」の中に「本当にめでたいもの」と題して、次のようなお話が記されています。
 先日、小学生を相手に、人間の「知恵」と仏の「智慧」の話をしました。
 人間の『知恵』とは、生きていく上での学問や知識のことで、本で読んだこと、人から聞いたこと、役に立つ知識のこととなります。そして、仏の『智慧』とは、仏さまの心のことです。もう少しかみ砕いて説明しましょう。
 「例えば、私がここで居眠りをしていたらみなさんどう思いますか。授業中に居眠りをしている人がいたらどう思いますか。」と尋ねました。みなさんならどう思いますか。
 人間の『知恵』の世界だと、「先生のくせに居眠りなんてとんでもない」「不謹慎だ」となるでしょう。ところが、仏の『智慧』の眼でみると、「ああ疲れているんだろうか。」「家庭で何か大変なことでもあったのかなあ。」「何か助けてあげられることはないかなあ。」などというふうな見方もできます。
 戦後の高度経済成長の中で、人間の『知恵』の世界ばかりが横行して、現在ではそれが反省されている世の中です。学問一辺倒で、物質や知識は豊かになってはいますが、心がそれに併せて、育っていないということです。
 人間の『知恵』だけではなく、仏の『智慧』も備えていないと本物とはいえません。
 このような内容でありました。龍谷大平安は、「ことば・じかん・いのちを大切に」という建学の精神を大事にしています。特に本校は、浄土真宗『親鸞聖人のみ教え』を教育の基盤に据えている学校だからこそ、仏の『智慧』を得ていくことが、本当に大切になってくるのだと思います。
 もう一度確認します。
 私たちの日常生活では、人間の知恵という言葉は、「知識があって賢いこと」だと理解されています。では、この知識とは何でしょう。これは、人が、便宜上作った、人間社会共通の約束事なのです。あらゆるものに尺度や理論をつけ差別化をしたものがすなわち「知識」です。
 確かに、知識は、人が社会生活を送る中で絶対に欠くことのできない、物事を判断するうえで大事なものです。知識を生かすことで、人は合理的で豊かな生活を手にすることができました。あらゆる分野において、どんな知識もあるにこしたことはありません。
 しかし、知識を積み知恵をつけた人が果たして「賢い人」でしょうか。と言いますのも、それは「知恵」には、「浅知恵」とか「悪知恵」があるように、中には知識を悪用する人もいるからです。オレオレ詐欺の例にもあるように、現代の犯罪の多くは、知識をフルに活用した知能犯が主流を占めています。
 つまり、賢い人「賢人」の定義が「立派な人」だとすれば、「知恵ある人」がすなわち「賢人」とは限らないということです。これは、人のつくった知識は、人間の勝手な判断や偏った見方に呑み込まれてしまうということです。
 仏教で言うところのほんとうの意味での賢人とは、人間の知恵の先にある「さとりの智慧」、つまり、仏の「智慧」を会得した人のことをいいます。その人こそ「真理に目覚めた人」すなわち仏陀なのです。35歳のとき、菩提樹の下で悟りを開かれ仏陀となられましたのが釈尊です。釈尊はこの悟りの体験から、すべての人の中にすでに届けられている仏の智慧が、私たちの身の内にあることに目覚めさせ、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されているのです。
その“ありのままの真実”を見ること、それが「智慧」なのです。
 では「ありのままの真実を見ること」ということは「いったいどういうことなのか」と言いますと、例えば、「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、仕分けたりするのも、結局は、自分という“モノサシ”ではかっているのです。
 仏教では、この自分の“モノサシ”こそ、あらゆる“苦しみ”を生み出すもとであるとされるのです。
 仏の智慧は、そのような偏見や分別の“モノサシ”を超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあるのです。
 「心の眼を開き、智慧を進める」ことによって、この世に存在するすべてのものは、互いに深く大きなつながりの中に存在しているのであって、そこに価値の上下はないのだ、という世界があらわれてくるのです。
 仏教とは、お釈迦様が、悟りをひらかれ、その悟りに基づいた教えであり、その悟りそのものがすなわち「智慧」そのものであるのです。
 私たちにこの「仏の智慧」さえあれば、愚かな行為は一切なくなるはずです。もちろん、いじめも虐待も、すべての悪行はなくなります。
 というより、先にも申しましたとおり、この「仏の『智慧』」が、もうすでに私たちの身の内にあることに目覚め、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことを心がけたいものです。
 そういう意味で、今年度(2014)生徒手帳に『智慧』と記させていただきました。

平成26(2014)年度 前期始業式(高校) 2014年04月10日(木)17時00分

※前期始業式に先立ち、この度の第86回選抜高等学校野球大会におきまして本校応援団が「優秀賞」を受賞いたしましたので、毎日新聞社京都支局長から生徒会長に盾が授与されました。

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 3月10日の終業式のあと、クリエイト・プログレスのみなさんには、小雪の舞うたいへん寒い中、新しく完成したグラウンドの人工芝の上で「人文字」を作り、毎日新聞社がヘリコプターから空撮をしてくれました。人文字の図案は、本校の校章と野球のボールを形づくりました。校章の由来については、みなさんの生徒手帳P4に記載しておりますので、改めて確認をしておいてください。ご協力ありがとうございました。
 翌日から全体としては春期休暇に入ったわけですが、プログレスコースは3月17日~29日まで春期講習が行われました。その間にも甲子園の試合が入ってきて大変だったと思います。また、選抜大会・全国大会に出場されました、フェンシング・剣道・卓球・チアダンスの4クラブにおかれましても、全国の舞台での戦いお疲れ様でした。この中で、フェンシング部と剣道部がベスト8という成績をあげてくれました。あとはインターハイでの更なる飛躍を楽しみにしています。そして、第86回選抜高等学校野球大会に2年連続
38回目、春夏通算70回目の出場を果たした硬式野球部は、みなさんご存じのように、京都勢としては京都一商(現西京高)が昭和23年に優勝して以来、実に66年ぶり2度目の全国制覇を成し遂げてくれました。
 みなさんは「えっ」と思うかもしれませんが、平安は春の選抜大会に38回も出場していますが、ベスト4が最高の成績で、しかも、それは40年前の昭和49年のことだったのです。夏の選手権は32回出場していて、昭和13年・26年・31年と3回の全国制覇がありますが、そこから数えても、58年ぶりに手にした日本一ということになります。春夏通算70回という全国最多出場を果たしている「平安」でさえも、今回が4度目の優勝なのであります。これだけ見ても、全国での優勝や準優勝はおろか、ベスト4やベスト8に入るということがどれだけ難しいかということがわかるでしょう。
 私は、光栄にも試合直後の三塁側龍谷大平安ダッグアウトに入れていただきました。私が、まず目にしたのは、整然と並んだグラブ・手袋・バットケースなど、個人のセカンドバッグに至るまで、それこそ一糸乱れず整然と並べられていることです。本校の硬式野球部は、選手であること以前に、しっかりと人間教育がなされていることの表れだと感心しました。
 さらには、各試合後のインタビューで、河合主将をはじめ選手たちの口から飛び出す言葉は、常に「支え」「お陰さま」「感謝」でありました。こういった言葉が自然に口から出ることこそ、親鸞聖人のみ教えを建学の精神とする「龍谷大平安」に学ぶ意義をしっかりと示してくれました。
 その硬式野球部と一体となって熱い応援を繰り広げてくれた全校生徒のみなさんを私は誇りに思います。本当に感動をありがとうございました。
 いずれにしましても慌ただしい束の間の春休みだったと思います。
 さて、本日より平成26年(2014)年度がスタートいたします。今春427名の新入生を迎えて高校生が1417名ということになります。先日の入学式で、私が式辞としてお話しした内容は、みなさんの昨年度(2013)の生徒手帳に私の書をしたためさせていただいていますが、『遍照(へんじょう)』という言葉についてです。『遍照』とは、あたりくまなく照らすこと。特に、仏の法身(ほつしん)の光明があまねく世界を照らすこと。という意味になります。難しいかと思いますが、仏さまは常に私たちを照らしてくださっているということです。
 では「阿弥陀さまの光にいつも照らされている」とは、どういうことか考えてみましょう。

 《中略》入学式の式辞に掲載しておりますので省略します

 最後に、今年度の学校生活の重点目標を「規律と統制」としました。少し堅く感じるかもしれませんが、別な言い方をすれば「ルールとマナー」とも言えるでしょう。みなさんは、生徒手帳『生徒心得』の礼節のところを今一度読み返し、「決められていることはきっちりと守るということ、常に相手の気持ちにたってものを考え行動するということ」を実践してください。こうした自覚が「こころの知性(EQ)」を磨き、人間力を高めていくのですよ。
 新年度の始まりに当たり、みなさんに私からのお願いを申して式辞といたします。

今月の言葉《宗教教育係》 2014年04月07日(月)16時00分

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四月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2014年02月28日(金)19時22分

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三月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2014年02月01日(土)11時33分

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二月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2014年01月06日(月)09時24分

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一月
今月の言葉 ・・・ 各クラス掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門掲示板

今月の言葉《宗教教育係》 2013年12月01日(日)14時00分

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十二月
今月の言葉 ・・・ 各クラス掲示
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今月の言葉《宗教教育係》 2013年11月01日(金)08時33分

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十一月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
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仏参講話(10月) 2013年10月16日(水)10時22分

2013年10月 仏参講話(中学生・高1・高2・高3対象)

 おはようございます。
 後期始業式でみなさんには、日々の生活習慣を整えて心に余裕を持つことをお願いしました。その中で五つの言葉とその心を話しました。「すみません」反省の心、「はい」素直な心、「おかげさま」謙譲の心、「私がします」奉仕の心、「ありがとう」感謝の心ですが、みなさんが普段あまり使わない「おかげさま」の心について、今日はお話しいたします。
 「座右の銘」という言葉を知っていると思います。直訳すると「自分自身を知り、自分自身であり続けること」となりますが、一般的には、「常に自分の心に留め置いて、戒めや励ましとする言葉のこと」を言います。結局、向き合うべきは、自分自身の内側ということになります。そして、そのときに、自分自身と向き合いなるべき自分になろうとすることを邪魔する心の中にあるものが、煩悩なのです。
 我々人間は、常にたくさんの煩悩を抱えて生活しています。大晦日、除夜の鐘で撞かれる108回が人間の煩悩の数ですが、この数は、最小は3、一般に108、最大は64000とも言われます。いずれにせよ、この世に生まれてくる前、そして現在、未来までを含めて、我々の心や体を通して生まれてくる煩悩の数は、それほどまでにもたくさんあるということなのです。
 この最小の3つというのが、「貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚癡(ぐち)」という3つの煩悩です。いずれも、苦しみの原因となる悪玉で、三毒の煩悩と呼ばれています。
 「貪欲」とは貪りの心のことで、なんでもかんでも自分のものにしたいと思う欲望です。欲しかったものを手に入れることで欲望は満たされますが、それは一時的なもので、すぐに、次の新しいものが欲しくなってしまい、際限がありません。また、「瞋恚」とは怒りの心のことで、自分が嫌なものはなるべく遠ざけておきたい、それができない状態にイライラしてしまう状態です。そして、「愚癡」とは、無知の状態を言います。苦しみの原因が物事への執着であることを知らず、ひたすら貪ったり、自分の思いどおりにならないことに怒りの感情を表したりする状態そのものです。
 そんな煩悩の中でも特に厄介なものが怒りです。怒りは自分が認めたくないもの、寄せ付けたくないものを振り払おうとすることから起こります。でもなかなか振り払えるものではないですから、怒りの感情はさらにエスカレートしてしまいます。怒りっぽい人とは、「自分が正しい」という思い込みが強く、また、それ以外は受け入れまいと常に警戒している人です。逆に、怒りの感情をうまくコントロールできる人は、たとえ、自分が正しい考え方を持っていたとしても、それだけが正解ではないということをちゃんとわかっており、他人の考え方も積極的に受け入れようと、心をひらいている人ではないでしょうか。怒りという感情からは、どちらかというと暴力的な働きかけをイメージしてしまいますが、実はそうではなく、その人自身の弱さの表れです。その弱さを見せまいと、虚勢を張っていることが多いものです。
 仏教では、自尊心が強い状態のことを「慢」と呼び、煩悩であると説きます。高慢、傲慢、慢心という言葉がありますが、「慢」とは自尊心が強い、プライドが高いことを指し、仏教のものの見方でも、これは非常に恐ろしいこととされています。自分にこだわり、自分が正しい、自分が優れているとする生き方ほど、恐ろしいものはありません。それは、やがて、わが家が正しく優れている、また、わが国は正しく優れているという考えに通じます。そのプライドが傷つけられると怒りが生まれ、他人を見下すだけでなく、他人を攻撃することにつながります。
 人間というのは、自分が一番好きなものです。これは、自分以外の人も同じです。かといって、誰もかれもが自分にこだわり、自分を主張して一歩も譲らなかったとしたら、世の中はいったいどうなってしまうでしょうか。自分が正しい、優れているというのは、相手があり、その相手から認めてもらわなければ成り立ちません。正しいとか正しくないとか、優れているとか劣っているとかいうことは、それ自体が自分勝手な思い込みに過ぎないのです。自尊心が強い、プライドが高いということは、誰か他の人の存在なくしては、保つことさえできません。常に正しく、誰よりも優れているというのは、この世にもし自分一人しかいなかったら、決して感じえない感覚なのです。
 「自分が、自分が」というところから離れ、「おかげさま」という気持ちを持つことの大切さをお話しまして、本日の仏参の話を終わります。