【九月】今月の言葉…各クラス教室掲示
今月の聖語…学校正門 聖語板
【御命日法要】
毎月16日は浄土真宗の開祖親鸞聖人のご命日であるので、聖人のお徳をしのんで、この行事を行います。聖人は「尋常のときよりつねに」阿弥陀仏の教えを学ぶことがきわめて大切であることを強調されました。その教えを思い起こして、親鸞聖人に、感謝の心をささげる日です。※7月は16日が祝日のため13日に営みます。
「7月の御命日法要によせて」
PHP5月号に掲載された相田みつをさんのことばを紹介します。
受身
柔道の
基本は受身
受身とは
ころぶ練習
まける練習
人の前にぶざまに
恥をさらす稽古
受身が身に
つけば達人
まけることの尊さが
わかるから
みつを
子どもに負ける練習をたくさんさせ「受身」が身につけば、何度でも立ち上がることができます。相田みつをさんは、自分の息子に小さいうちから親亡き後、一人でたくましく生きていけるように、いろいろな失敗の体験をさせたそうです。
勝利至上主義という言葉がありますが、勝負事においては勝つことが必要なこともあるでしょう。しかし、勝つことがすべてではありません。むしろ、負けることから身につくこともたくさんあるのではないでしょうか。人前で恥をさらせる人こそ、実は本当の意味の勝者かもしれません。…… まけることの尊さが わかるから。
ころぶ、まける、恥をさらす、どれをとっても屈辱的なことかもしれません。しかし、そこから這い上がることができてこそ、己に克つことができた人だと思います。
『法句経』にも「戦いで百万の敵に 勝つひとよりも ひとりの自己に 克つひとが まことに最上の 勝利者よ」と記されています。
「克己心(こっきしん)」の原点とは、自分の力はまだまだ不十分だという自覚です。世の中で成功している人は、必ずと言っていいほど強い「克己心」を持っています。それは、「克己心」の内側にあるものが「自分を高めたい。弱い自分に打ち克ちたい」という熱意だからです。われわれは、こうした気持ちを持てているでしょうか。
燧土勝徳
平成24年度 中学 仏参講話 4月27日
みなさん、おはようございます。
1947年に創刊された『PHP』という雑誌がありますが、この雑誌は、今年2012年、創刊65周年を迎えました。その雑誌のスペシャル2月増刊号に、みなさんの中にもご存じの方もあると思いますが、相田(あいだ)みつをさんの息子で「相田みつを美術館」館長をおつとめの相田(あいだ)一人(かずひと)さんのインタビューが掲載されていました。
相田みつをさんの名が広く世間に知られるようになったのは、今から28年前の1984年に六〇歳を機に出版された『にんげんだもの』がきっかけでした。その後、『PHP』に連載がスタートと時をあわせるように、1991年12月17日、六十七歳の生涯を閉じられました。これは今から21年前になります。
インタビューは、「今、なぜ 相田みつをなのか?」と題して始まりました。
「相田みつを」を支えた二人の兄の事から、相田みつをとこの雑誌「PHP」の事に話題が変わり、物の豊かさから心の豊かさへ、お金による幸せから絆(きずな)による幸せへ――。とインタビューは展開していきました。
考えてみますと、相田みつをさんの書は、奇(き)を衒(てら)った(わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする)ようなものだとか、意表を突くといったものはありません。まさにそれがどうしたの?と言われそうなくらい当たり前のことばです。だから、1954年~1973年の高度経済成長の時期には、物も豊富でお金による幸せもあり、事実、相田みつをさんのことばは、あまりに当たり前すぎて、ご本人自身も生前は、おそらく時代との乖離を感じ続けていたでしょう。そんな相田みつをさんのことばが、その死後から次第に時代に接近することになるのは、日本人が本来持っていた心根の部分を、ずっと以前から見抜いて的確に表現していた、ということではないでしょうか。
東日本大震災から一年が過ぎました。当たり前だったことが当たり前でなくなってしまった一年でした。当たり前のことというのは、それを失ってしまった時に初めて、その大切さが本当にわかるということです。
今日は、相田みつをさんの三つの書と文をスクリーンを通して、みなさんに視覚からも感じとってもらいたいと思います。
それでは、「道は一本」と題された①を紹介します。
いまから ここから
「道は一本」① 書と文 相田みつを
人間のいのち
いのちが与えられているのは、時間的に考えると、
きのうでもなければ、あしたでもありません。
まさに、いまです。
空間的に考えると、
東でもなければ西でもありません。
また、南でも北でもありません。
まさに、ここです。
つまり、いま、ここ。それ以外には
いのちの生きる場はありません。
これは万人共通の真理です。
だから、どんな仕事をする人にとっても、
スタートは、いつでも、
いまから、ここからです。
これは、まさに本校の「建学の精神」じかんを大切にに当たります。時間とは無常です。時々刻々と移り変わります。平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ。」(ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり さらそうじゅのはなのいろ じょうしゃひっすいのことわりをあらわす おごれるものひさしからず ただはるのよのゆめのごとし たけきひともついにはほろびぬ ひとえにかぜのまえのちりにおなじ)とあるように、諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日(今)すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。だから、平安はみなさんに時間の大切さを言うのです。
続きまして、「道は一本」と題された②を紹介します。
あなたの こころが きれいだから なんでもきれいに 見えるんだ なあ みつを
「道は一本」② 書と文 相田みつを
やわらかなこころ
美しいものを
美しいと思えるこころ。
それは正しいものを
正しいと感じ
不正なものを不正と
感じるこころです。
こういうこころを
素直なこころ
やわらかなこころといいます。
大切なことは、
むこう(対象)にあるのではなく
それをどう受け止めるかという
こちら(自分)のこころにあるんですね。
これは、入学式や始業式にもお話ししましたし、現在、ホームページに私のあいさつとして掲載しておりますEQ「こころの知能指数」に直結します。私は、人間の言葉と行動はすべて心の有り様(よう)に始まると話しました。こころの知性は、思いやり・自制・協力・調和を重んずる価値観が必要です。人間はとかく自己中心の考えをし、それにもとづく物事への執着心から欲望が生じます。そうした欲望まみれの自分の心を、どのようにコントロールするかということが大切なのです。つまり、心の有り様です。心の持ち方、感情を落ち着け、情緒を常に安定したところには、素直な心と謙虚な心が根づきます。その心の有り様をみんなが意識して日々の生活を送れば、本当にすばらしい人間関係や環境が築けるはずです。
最後に、「道は一本」と題された③を紹介します。
花には人間のような かけひきがないからいい ただ咲いて ただ散って ゆくからいい
ただになれない 人間のわたし みつを
「道は一本」③ 書と文 相田みつを
花が見ている
庭の木蓮(もくれん)が咲きました。
白い花です。
人間のことばでは表現できぬ
浄(きよ)らかな白い花です。
わたしはいま木の下に立って
木蓮の花を見ています。
木蓮の花もわたしを見ています。
損だとか得だとか
勝ったとか負けたとか
金が有るとか無いとか
そういう分別心とは
全くかかわりのない
純白な花のこころで
人間のわたしを見ています。
浄土三部経といい「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」というお経があります。その中の「仏説阿弥陀経」の中に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」
とありますが、「お浄土の池には、青い蓮は青く光り、黄色い蓮は黄色く光り、赤い蓮は赤く光り、白い蓮は白く光っている」と述べられています。それぞれがそれぞれ色の光を発し、輝いているということです。ちょうど我々が幼少期に口ずさんだ「チューリップ」の歌の歌詞にあるように♪赤白黄色 どの花見ても きれいだな♪ということでしょう。
どうか、みなさんそれぞれが自分色の花を咲かせ、それぞれ色に光り輝いて欲しいと思います。いよいよ新年度がスタートしましたが、これから始まる一年、今日(今)すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか。こころの知性は、思いやり・自制・協力・調和を重んずる価値観が必要です。今日お話ししました、やわらかなこころを持って、自分のいのちは自分しか磨けないのですから、自分でしっかりと磨いてくださることをお願いして、今日の私の話といたします。
平成24年度 御命日法要
ご承知のとおり、龍谷大学付属平安中学高等学校の「建学の精神」は、ことばを大切に・じかんを大切に・いのちを大切にです。ことばは「お名号」のことで、じかんは「無常」のことで「この世のありとあらゆるものは時々刻々と移り変わる」ことを意味しています。いのちは「お浄土」のことです。これを中学生にも高校生にもわかりやすい形でことば・じかん・いのちの三つを大切にということで示しています。説明は、いのち・じかん・ことばの順でします。
まず、いのちについて説明します。私のいのちを考えてみますと、前生(ぜんしょう)(生まれる前)・今生(こんじょう)・後生(ごしょう)(死んでから)と分けられます。その中で、私たちは、今生(こんじょう)だけをいのちと考えがちです。しかし、私は今生の限りある有限の生物的な生命を過ごしているにすぎないのです。父や母や祖父母などこの先祖のだれが欠けても生まれてこなかったいのちなのです。そう考えるとき、どうして私の誕生があったのかという前生(ぜんしょう)と、死んだあとはどこへ行くのかという後生(ごしょう)と、つまり、私たちのいのちは今生だけの限りある、そこで終わるいのちではなく、阿弥陀様のおそばで無限の宗教的生命を得るのです。まことの世界に生まれかわる、つまり、お浄土に往(い)って生まれる浄土往生なのです。
次に、じかんについて説明します。先ほど言いました私たちは阿弥陀様のおそばで無限の宗教的生命を得るということに気づくのは、今をおいてほかにはありません。時間とは無常です。諸行無常の理(ことわり)の通りです。「そのうちに」とか「いずれ」とか、明日があると思うから、今日(今)すべきことを先のばししてしまっていないでしょうか?仏教は「今」をどう生きるか、人として一瞬を悔いなく生きる、そのプロセスを大事にする教えです。(仏の教えではなく仏に成る教えです)
最後に、ことばについて説明します。では、後生(ごしょう)は往生浄土と、どなたが決めてくださったのでしょうか? それは阿弥陀如来になられる法蔵菩薩さまの18番目の本願に「衆生(しゅじょう)を仏にせずにはおれない」で約束されています。私たちは弥陀の号(みな)である南無阿弥陀仏を呼ぶのです。声に出すのです。実は仏さまの「おはたらき」により私の口を通して号(みな)を称えさせてくださっているのです。この声を私は耳で聞きます。これが「聞法(もんぽう)」なのです。
以上をまとめますと、いのちを大切にする生き方は、すなわちじかんを大切に生きる姿そのものであります。そして往生は臨終によって定まるのではなく、信ずる心「信心」が定まる時に定まるわけですから、私の口を通して発することばこそ、本当に大事にしなければならないのです。
本学園の建学の精神をご説明し、平成24年度 最初の御命日法要にあたり、あらためて「いのちの大切さ」を考えさせてもらいました。
燧土勝徳
○ 日時 4月16日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 安井大悟先生(前校長)
◎ みなさん、お揃いでお参りください。