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2021(令和3)年4月 御命日法要について 2021年04月13日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【4月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

新年度を迎え、新たな環境で新たな経験をすることも増える時期だ。ある本に「長いウナギに長い鍋」という格言が出ていた。川でウナギをとってきた夫が、家で妻に調理をするように言うと、妻は浮かない顔で「ウチでは料理できないよ。だって、そんな長い鍋はウチにはないからね」と断った。初めての出来事に柔軟に対応できず、「ウナギは長いから鍋も長くないとダメ」という固定観念を風刺した格言である。

お寺の広報誌に、この話を紹介し、「私を支えている固定観念は、順調な時にはあまり意識されないが、その固定観念が私の生きづらさをつくっている」と書いた。次の日の未明、鮮明な夢を見た。40 年ぷりに臨んだ野球の試合。三塁にボールを投げようとするのだが、体が思うように動かない。一生懸命に投げると、初心者のように手投げになって相手に届かない。それが三度続き、体がボールの投げ方を忘れてしまっている自分に驚いて目を覚ました。

私たちは身体にすり込まれた、固定された記憶のお陰で日常生活が営めている。夢から覚めて、体に記憶が固定されていることのありがたさを感じた。それと同時に、「固定観念はよくないという固定観念」を持っている自分に気づかされた。固定観念もまんざらではない。

新年度、まずは過去から積み重ねられた経験を生かし、その経験を絶対視することなく、新しい発想でいろんなことにチャレンジしていきたい。

「2021(令和3)年4月1日(木) 本願寺新報『赤光白光』より」


4月御命日法要
○ 日時 4月16日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 勤行(讃仏偈)のみ

2021(令和3)年4月 今月の聖語・言葉について 2021年04月01日(木)10時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します・

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
つくべき縁あればともない はなるべき縁あればはなる 『歎異抄』

 新年度を迎えました。まずは新入生のみなさんご入学おめでとうございます。これからスターとする平安での新たな学校生活に期待と不安を抱きながら入学式を迎えたことだと思います。在校生のみなさんも学年が変わり、それぞれの目標に向けて、気持ちも高まっていることだと思います。
 さて、今月の言葉は『歎異抄』に書かれているお言葉です。年度という大きな節目を迎え、三月は別れ(はなるべき縁)があり、そして四月からはまた新たな出遇い(つくべき縁)が待っていることだと思います。別れというと、少し寂しい気持ちにもなりますが、これまでの出遇ってきた人との繋がりが無くなる訳ではないはずです。仲良くしていた友人や今まで支えてくれた人との繋がりが、逆に強くなることもあるはずです。
いよいよ新生活が始まります。不思議な縁で同じクラスになり、こうして机を並べることになりました。ご縁を感じながら少しずつ新たな関係性を築いていきたいですね。
 
【今月の言葉】
戦いで百万の敵に勝つよりも ひとりの自己に克つひとが まことの最上の勝利者よ。  『ダンマパダ』

 日常生活において、勉強やクラブ活動などで自分との戦いを試される場面はたくさんあると思います。そのなかで、人と比べて優越感や劣等感を感じて、喜んだり悩んだりしているのが私たちなのかも知れません。
しかし、本当に大切なことは、「自分自身に克つ」ことなのだと釈尊は教えます。元メジャーリーガーで活躍されたイチロー選手も「人に勝つという価値観では野球をやっていない」と述べられています。もちろん、時として互いに高め合うことの出来る仲間の存在も必要だと思います。ですが、最後は自分との戦いに尽きるのではないでしょうか。つい誰かと比較しがちですが、まず自分自身の目標やすべきことにどれだけ向き合うことが出来ているか問うべきでしょう。最大のライバルは自分の外にあるのではなく、自分自身なのだと改めて教えられる言葉だと思います。
新年度を迎えるにあたり。教訓となる釈尊のお言葉だと思います。一度自分自身を振り返ってみてください。        

2021(令和3)年3月 御命日法要について 2021年03月16日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【3月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

今年も春のお彼岸の季節を迎えました。厳しい寒さも少しずつ和らぎ、太陽が真西に沈むこの時期、春の温かな光に包まれながら阿弥陀さまのお浄土へと往生していかれた大切な人を偲ぶという方も多いのではないでしょうか。
『彼岸花』
俳句では春の季語
「暑さ寒さも彼岸まで」「ひがん花」「ひがんだんご」などと、彼岸は昔から日本人に親しまれてきた国民的行事です。春分・秋分の日を中日とし、その前後一週間のあいだ、寺々では彼岸会という法事が勤められ、祖先をしのび、墓参や寺院に参詣する期間となっています。
彼岸とは、文字通り、向こう岸のこと。サンスクリット語「パーラミター」の漢訳「到とう彼岸」を略したもので、私たちの住む迷い多い此岸から、煩悩の川を渡り越えて到達する仏の世界をいいます。お釈迦さまは、此岸から彼岸へ到達するための道として、六波羅蜜の教えを説いておられます。
太陽が真東からのぼり、真西に沈んでいくこの日に、此岸の現実を反省し、彼岸の仏さまのお徳をたたえるのです。
そういえば、極楽は真西にあると聞きました。
「本願寺出版社『くらしの仏教語豆事典』より転載」

3月 御命日法要
○ 日時 3月16日(火)15時30分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ

2021(令和3)年3月 今月の聖語・言葉について 2021年03月01日(月)09時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
「凡夫(ぼんぶ)」といふは、無明(むみょう)煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして        『一念多念文意』

今月の聖語は、親鸞聖人の言葉です。この後に、「臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」という文章が続きます。「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲も多く、怒りや腹立ちや、嫉み、妬みの心が起こり、まさにいのちが終わろうとする時まで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることがないという意味です。 
「凡夫」とは、煩悩にまみれた私たち人間を指し、「無明」とは真理があることを知らず、何も見えない闇の中にいる状態のことです。無明であるために、私たちは思い悩み、煩悩が生じてくるのです。それはまるで湧き水のようなものであり、さまざまな煩悩が次から次へと湧き起こってきます。これを止めたり、消そうとしても、煩悩はなくなるものでありません。しかし、自らの心の状態を把握することによって、少しでも欲をコントロールしていけるのではないしょうか。


【今月の言葉】
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。      『スッタニパータ』

お釈迦さまは、「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ」と仰せです。他人に対して悪口を言ったり、暴言を吐くことによって、簡単に相手を傷つけてしまう。そして、それは自らの思考や行動にまで影響しはじめ、次第に自分自身を苦しめることにもつながります。それだけ言葉による影響力は強いのです。
近年、SNS上などで言葉による誹謗中傷によるトラブルが多く見られます。インターネットを通じて、文字という形で気軽にやりとりができる時代ですが、顔が見えないなどの理由から、相手の気持ちを考えないような書き込みがなされています。決して面と向かっては言えないことでも、文字なら簡単に言えてしまう傾向にあるようです。言葉を交わすにしても、常に意識して発しなければなりません。
仏教では、相手のことを思いやり、優しい言葉をかけることを「愛語」といいます。よく「和顔愛語」という言葉で表されますが、その言葉どおり、おだやかな顔で、相手を思いやる優しい言葉で接するように心がけたいものです。
                       

2021(令和3)年2月 御命日法要について 2021年02月16日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【2月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

今年は例年にない大雪に見舞われ、除雪作業中の事故や交通事故の報道が相次ぎ、心が痛む。雪といえば、親鸞聖人にも雪にまつわる歌の話がある。昔の説教本(親鸞聖人御一代記説教)に出てくる話だが、聖人が越後の国をあとに、常陸の国へ行く途中、雪の中をお念仏を称えながら歩んでおられたときのことだ。
聖人一行が橋を渡ろうとすると、向こうの葦原から一羽の白鷺が鳴き声とともに高く飛び去った。その時、聖人は「声なくばいかにそれとは知られまじ雪ふりかかる葦原の鷺」と詠まれたという。そして、雪も白、鷺も白、どこに鷺がいても見分けがつかないが、声をあげて飛び去ったので鷺だと知れた。
今、凡夫の胸の内には、悪業煩悩の大雪が積もっている。その中に阿弥陀さまからいただく他力の信心があるかないかは見分けはつかないが、信心をいただいたしるしには、夜の寝覚めに思い出しても、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、ご恩をよろこぶお念仏の声が口に浮かぶ、とお諭しになられたという。
雪という災難もお念仏のご縁にさせていただく。ここに真宗門徒の真骨頂があるように思う。災難といえば、新型コロナウイルス感染拡大の猛威は、かつて経験したことのない出来事だ。これから一体どのような社会が到来するのか。もとより、このパンデミックをどう意味づけるかは、これからの私たちの生き方にほかならない。まさに念仏者の生き方が真骨頂を発揮するときだ。

「2021(令和3)年2月1日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」

2月 御命日法要
○ 日時 2月16日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ

オンライン涅槃会 2021年02月09日(火)16時00分

本日は、本校の礼拝堂で涅槃会をお勤めし、今回もオンライン配信となりました。涅槃会とは、仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて涅槃に入られた日(2月15日)に行われる行事です。

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 この度のご講師は、相愛大学教授(副学長)の釈徹宗先生でした。

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まず最初に、私たちの脳は、二項対立で物を把握するというお話をされました。二項対立でものごとをとらえると、私たちは攻撃的になったり、排除的になったりする。日本赤十字社が昨年の春に発表した感染には、三段階あるそうです。一段階目はウイルスの感染、二段階目の感染は不安やおそれの感染、三段階目は攻撃や排除の感染というものです。それは、ウイルス感染が拡大すると、世界全体が不安やおそれが起こり、そして攻撃的で排他的になっていくということです。仏教の教えに照らされることによって、私たちの心と体は柔らかくなっていきます。釈先生は、「第一と第二の感染は避けられないものの、とくに第三の感染は二項対立の罠であり、心と体を柔らかくして気をつけなければなりません」と強調されました。

 次に、本願寺の大谷光淳ご門主がお示しになられた「私たちのちかい」を紹介されました。この内容を釈先生がわかりやすく解説された冊子があり、本日の行事の前に全学年で配布し、生徒たちには一読するよう促しました。


私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 釈先生は、そのうちの1つ目をわかりやすく解説されました。ときには自分の殻に閉じこもることも大切ですが、閉じこもってばかりいると、自分というものが大きくなり苦しみも大きくなっていくのです。穏やかな顔と優しい言葉というのは、しなやかな心への第一歩であり、お経に出てくる「和顔愛語」という言葉をわかりやすく表したものです。
 次に、4つ目の「気づかされていることに気づく」という言葉に注目され、仏教という鏡のお話をされました。私たちはどうやって気づいていくのか。仏教という鏡は、自分の心の中も見事に映す鏡(あるものをそのまま映す心)であり、私たちはどうしても「自分の都合」というフィルターで映してしまいます。だからこそ、仏教に照らされることによって、少しでもフィルターを通さずに見ていくことができるのではないでしょうか。
 この「私たちのちかい」を通して、あらためて考えてみたいものです。

2021(令和3)年2月 今月の聖語・言葉について 2021年02月01日(月)09時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
人のわろきことはよくよくみゆるなり
わが身のわろきことはおぼえざるなり
                   蓮如上人
 昔、「今まで、悪いことをしたことがない」と言う若者がいました。
 ある老僧は彼に言いました。「バケツに一杯になるように小石を集めてこい」と。若者は、庭中から小石を集めてきました。さらに老僧は、「このバケツ一杯分と同じ重さの大きな石を一つもってこい」と言い、若者は庭の端から大きな石を運んできました。今度は、「ではその大きな石をもとの場所へ戻してこい」と老僧が言いました。若者はしぶしぶ石を元の場所へ返しました。続けて、老僧は命じます。「では、バケツの小石をそれぞれ元の場所へ戻して来い」と。さすがの若者も黙っていません。「小石のあった場所をいちいち覚えていません。無理です」。
 すると、老僧が言いました。「お前の犯してきた罪も同じだ。大きな罪なら、忘れもしまい。だが、小石のように小さな罪は身に覚えがないものだ。小石でも集めると、大きな石と同じ重さになるように、お前が気付かずに犯してきた罪はとても重たいものである」と。
 人の「わろきこと」には気付きますが、特に自分の小さな「わろきこと」にはなかなか気付きません。知らぬ内に犯してしまっている罪。その恐ろしさを教えてくれるお言葉。

※わろきこと・・・悪いこと ※みゆるなり・・・みえる ※おぼえざるなり・・・気付かない

【今月の言葉】
一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。       『歎異抄』

 父と母で二人。父と母の両親で四人。そのまた両親で八人。こうして数えていくと十代前で千二十四人。二十代前では百万人を超え、さらに三十代前では十億人を超えます。さかのぼればきりがありませんが、この多くの祖先の内誰一人が欠けても、今の私は存在しません。改めて、自分は、多くのいのちのつながりの中にあることがわかります。
 これだけ多くの祖先がいれば、今は他人でも、遠い昔は祖先同士が「父母兄弟」だったということも十分考えられます。むしろ、何の関係もない人を見つける方が難しいといえるでしょう。
 今月の言葉は親鸞聖人のお言葉で、「いま生きるすべてのものは、過去からのいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在です」という意味です。
普段、自分の都合によって、親しい人・親しくない人、敵・味方と区分けをしていますが、実は深いところでいのちのつながりがあり、関わり合っているのです。そんなまなざしを宗祖親鸞聖人は教えてくださっているように思われます。

オンライン報恩講 2021年01月15日(金)16時00分

本日は、本校の礼拝堂で報恩講をお勤めしました。報恩講とは、親鸞聖人のご命日をご縁として、親鸞聖人のご恩に報いる集まりであり、浄土真宗では最も大切な法要です。

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今回初めてのオンラインとなり、一部の教職員以外は、全生徒を含めて自宅にて閲覧する形となりました。

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この度のご講師は、本校の北側にある知真保育園の園長であり、浄土真宗本願寺派布教使の苗村隆之先生です。苗村先生は、最初に、夜回り先生こと水谷修先生の講演で話された、童話の「うさぎとかめ」のお話をされました。そして、「遅いかめのままではだめだ、足の速いうさぎのようにならなければだめだ」と言って、大人の価値観を押しつけて、せっかく光ろうとしている子供の光を、大人の価値観で曇らせてはいませんか、という水谷先生の言葉を紹介されました。苗村先生はわが子に対してそうであったと話され、我々教員も生徒たちに対してそのような対応をしていないか、ご法話を聞きながら考えさせられました。

阿弥陀さまなら、「かめのふりしてうさぎになる必要はありません。うさぎが無理をしてかめになる必要はありません。あなたはあなたのままで素晴らしいんだ」とおっしゃるに違いないでしょう。苗村先生は、保育士にとって一番大切なこととして、「子どもの目線に立つ」ということを挙げられました。子どもの目線に立つというのは、子どものことを全部知りぬくということです。その子のことを全部知りぬき、その子に寄り添うような保育をしていかなければならない。阿弥陀さまは私のすべてを知りぬかれ、今の私を認めてくださり、そのままの私を受け止めてくださる。苗村先生のご法話を通して、お念仏を称えつつ、宗祖である親鸞聖人のご遺徳を偲びました。

2021(令和3)年1月 今月の聖語・言葉について 2021年01月01日(金)09時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

□今月の聖語
少欲知足にして染・恚・痴なし   『仏説無量寿経』

 この言葉は、『仏説無量寿経』という経典に出てきます。意味は、「欲は少なく足ることを知って、貪(むさぼ)り・怒り・愚かさを離れていた」ということです。これは、阿弥陀仏と成る前の法蔵菩薩のお姿を述べた一部です。他には「表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ」などが経典(『仏説無量寿経』)に説かれています。
 さて、今月の言葉で述べられていることは、法蔵菩薩が「少欲知足」であり、「三毒の煩悩」を離れていたということです。「三毒の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)」については、今月の聖語等でも度々紹介しているので、言葉と意味はすでに知っていると思います。「少欲知足」は「欲は少なく足りることを知る」ということです。欲しいものを貪るように求めても、また次から次に欲は出てきます。そして、自分が一体何を求めているのかさえ見失ってしまうこともあるでしょう。大切なことは、足ることを知ることであり、自分自身の心をコントロールすることだと思います。
 今月の聖語を踏まえ、一度自分自身の心のあり方や姿を見つめ直してみてください。


□今月の言葉
願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ。 『教行信証』

いよいよ2021年がスタートしました。新しい年をみなさんはどのような心境で迎えたでしょうか。「一年の計は元旦にあり」という言葉があるように、勉強のこと、クラブ活動のこと等、昨年の反省を踏まえ、新たな目標に向けて気持ちを引き締めていることだと思います。
 今月の言葉に述べられているように、仏教では「無常」を説きます。「無常」とは仏教の中心となる教えの一つで、すべては移り変わっていくことを意味します。私たちは後戻りができない、最初で最後の貴重な時間を日々過ごしています。もっと勉強しておけば・・・、もっと部活の練習を真面目にしておけば・・・等の後悔を残すことなく、今年も自分自身の目標に向けて精一杯コツコツと積み上げていきましょう。
 何事も節目が大切です。気持ちを新たに2021年も精進していきましょう。合掌

2020(令和2)年12月 御命日法要について 2020年12月15日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【12月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

酔っぱらいの親【阿弥陀如来の慈悲をあらわす例話】
酔っぱらった男が、路に倒れて泥だらけになりながら暴れまわっている。周りの人に言いがかりをつけたり、飛びかかったりと、歩いている人はみな避けて通る始末。誰一人として近づこうとするものはいない。そこへ一人の紳士がやってきて、酔っぱらいを背中にせおって連れていこうとする。からだは泥だらけ、逃げ回るやら食いつくやらで、とても始末におえない。それでも無理に連れていこうとする。あの人は何という変わり者だ。あんな酔っぱらいを、何でそこまでして連れていくのか。まったく物好きな人である、とよそから見ればそう思われるが、よくよく聞いてみると、その紳士は酔っぱらいの親であった。我が身の難儀も厭わず、一人で抱えて連れていこうとするのは、親なればこそである。
蓮如上人の『御文章』のなかに、「阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候へ」とある。無明煩悩の酒に酔い、邪見慢と暴れまわっている私であれば、どんな仏さまでも愛想をつかし逃げてしまわれるのに、ただ阿弥陀如来さまだけは、煩悩に酔っぱらっている私を決して見捨てはしないぞと、南無阿弥陀仏と呼びかけてくださる。これはどうしたことかと思ってみれば、阿弥陀如来こそ久遠劫以来のまことの親さまであったからだ。
【田淵静縁『布教大辞典』法蔵館】「浄土真宗本願寺派総合研究所布教伝道の基礎より」

12月 御命日法要
○ 日時 12月15日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ